朝霧高原の行き倒れジェントルマン

「うっはー! 7時40分!」


 井之頭いのかしらかく乃かくのはベッドから飛び起きると、そのままの勢いでパジャマを脱ぎ捨て制服に手を伸ばしかけて、止めた。


「ジャージのが早い!」


 素早くジャージの上下を着こむと、制服をナップザックに突っ込んで髪を頭の後ろで留める。一応鏡を覗き込んだが、4か所くらい寝癖が付いているだけだ。全く問題ない。鞄とナップザックを抱えて部屋を出ると、どたどたと階段を駆け下りた。すると、店の台所の方から母の声が聞こえる。


「かく乃~? 起きたの? 朝ごはんは~?」

「いらない! てか起こしてよ! 私の無遅刻無欠席の大記録が途絶えるかもしれないじゃん!」

「起こしたわよ~。ほら、牛乳だけでも飲んできなさ~い」


 まるで緊迫感の無い母の声に、かく乃は思わず天を仰ぐ。諦めて店舗の方の台所に向かうと、べーコンエッグトーストと牛乳とヨーグルトが用意されていた。熱々のトーストの上にはカリッと焼けたベーコンと半熟の卵がででん! と乗っており、のっぴきならない香りを放っている。駄目よかく乃と思いつつも、その濃厚な香りには逆らえない。そう、恐らくはべーコンの下に塗られたバターが溶けだしているのだ。


 牛乳だけを飲むつもりだったかく乃のグラグラの心に止めを刺したのは、ぷるんぷるんの黄身の上に散りばめられた魅惑の黒い宝石。擦りたての黒コショウだった。これを目にしてしまっては、もう食べないわけにはいかない。


 かく乃は、がしっとトーストを掴んでかぶりつくと、母に手を上げそのまま走り出そうとした。すると母から、


「いってらっしゃ~い。そうそう、なんだかこの地域に通り魔が逃げ込んできてるらしいから気を付けていくのよ~」


という声がかかった。かく乃は思わず振り返って応じる。


「ほほひは? ひのひひははくて?」

「そうなのよ~。イノシシだったら珍しくもないのにね~。かく乃もパン咥えたまま走って、角で通り魔にぶつかったりしてね~、あ、ひょっとしてイノシシに?」


 暢気な事を言っている母に、呆れ顔で2・3度適当に頷くと、ひらひらと手を振って走り出した。


 バタバタもぐもぐと、バターたっぷりジュワとろベーコンエッグトーストを味わいながらまっしぐらに中学校へと駆ける。家を出る時には8時10分前だった。かく乃の足でも走ればギリギリ間に合うだろう。大丈夫だ。かく乃が唯一の自慢できる記録である無遅刻無欠席も継続する事ができるはずだ。


 トーストを食べ終え、もう一段ギアを上げて走り出そうとした時だった。道路脇の木陰から、ふらりと何かが飛び出してきた。


 何? と思って慌てて立ち止まって見てみると、それは、妙に青白い顔をした一人の青年紳士ジェントルマンだった。紳士はうつろな目をしたまま、ゆっくりと顔だけをかく乃の方に動かし、視線を合わせてきた。その両手には、雨も降っていないのに傘がステッキのように握られ、あろうことか、その先端には包丁が紐でくくり付けられていた。


――やばい……まさかコイツが……?


 かく乃は驚きすぎて身動きが取れない。すると、その高校生くらいと思われる紳士は、槍のように傘を抱え、ゆっくりと体をこちらへ向けた。その動作を見て、やっとかく乃の体が動くようになった。


「と……通り魔!!」


 かく乃がありったけの声で叫ぶと、紳士は驚いたようにあたりを見渡し、よろよろとあらぬ方向へ身構える。そして、弱弱しい声で叫び始めた。


「どこだ通り魔! 出て来い! この竹川たけかわ家次期当主、竹川哉多たけかわかなたが相手だ! ささ、お嬢さん、私の背中の方へ。私がいるからには何も心……配は……」


 そこまで言うと、ぱたりと前のめりに倒れた。かく乃がわけもわからず立ち尽くしていると、スーツを着込んだ紳士のお腹からは、ぐぐぐぅううう~と派手な音が鳴り響いた。


 8時20分。かく乃はふくれっ面で自宅に併設されている定食屋のカウンターに座っていた。隣では哉多が背筋をピンと伸ばしたまま優雅にご飯をがっついており、カウンターを挟んだ厨房では、父と母が朝の仕込みを行いながら、物珍しそうにその食事風景を眺めている。


 哉多のひとつひとつの所作は流れるように優雅だった。優雅だったのだが、全体的にはどこかはしたない。余程腹が減っているのだろう。かく乃は意味が分からないこの紳士のせいで自分の記録が途絶えたことにブーたれていた。


 哉多は相変わらず物凄いスピードで箸を動かしていたが、一口ひと口が上品で少ない。その動きの早さの割には全然減らない様子が、ますますかく乃を苛立たせる。


「ねえ、ちょっと!」


 思わずかく乃が声をかけると、哉多は片方の眉だけを上げてかく乃を制し、ゆっくりと紙ナプキンで口を拭ってから父と母に丁寧に礼を延べた後で、やっとかく乃の方に向き直った。


「お待たせお嬢さん。こんなおいしい食事ができる素敵なお店まで届けてくれて、本当にありがとう。いやあ……執事の真野まのが留守の間に食べるものがすっかり無くなってしまってね。これはもう自分で狩るしかないと思って彷徨っているうちに完全に迷子になってしまったのだよ。はっはっは、君は私の命の恩人だ。この恩には必ず報いよう」


 すっかりと血色の良くなった哉多は、かく乃の手を取って礼を言う。かく乃は、慌てて手を引っ込めて赤くなった顔を隠すように背けるが、哉多は、そんなかく乃の姿には頓着せず、父に向ってこんな事を聞いていた。


「シェフ、このご馳走になったお肉。豚肉だとは思うのですが、このうえなく美味しくいただきました。どこかのブランド豚をお使いになっているのですか?」


 “シェフ”と呼ばれた父は、母と顔を見合わせて笑った。


「そりゃあ、ありがとう紳士さん。これはね、って言うんだ」

? いえ、デザートの事ではなく、この豚肉の事をお聞きしたいのですが……」


 かく乃はまだ真っ赤なままだ。しかし、先ほどとは理由が違った。


「ハッハッハ。そうじゃあないんだよ紳士さん。この豚がね、“ヨーグルとん”って名前なんだよ。ヨーグルト状の飼料を食わせて育てる豚だから、ヨーグル豚ってわけさ」

「ヨーグル豚! つまり! この素晴らしい味の豚の名に……駄洒落を?」


 父がどうだと言わんばかりに頷くと、哉多はしばし無言であったが、やがて高らかに笑い始めた。それにつられて、父と母も笑う。しかし、クラスメイト達にいつも、「ダジャレ豚の店」とからかわれていたかく乃は面白くない。


「ちょっと笑いすぎ! もう! だいたいね、竹川さんのせいで私の誇り高き大記録が失われたっていうのに、まだ笑うとか失礼すぎ!」


 コイツ嫌い! そう感じたかく乃が思わず声を荒げると、哉多は笑うのを止めて首を傾げた。


「これは失礼、お嬢さん。ところで、君の誇りが失われたとはいったい?」


 竹川の求めに応じて、かく乃は渋々といった風に事情を説明した。


「……ってまあ、こういうわけ。別にいいんだけどね、遅刻くらい。あっ……じゃあ私学校行くよ。まだ無欠席狙えるしね!」


 思わず声を荒げてしまった恥ずかしさもあり、かく乃がそそくさと席を立つと、哉多もすっと席を立った。


「私もご一緒しよう。そして、私から君の担任に事情を説明しよう。そうすれば君の遅刻認定は取り消され、誇りも取り戻せるでしょう」

「えっ、いいよいいよそんなの。めんどくさいだろうし恥ずかしいし、たいした記録でもないし、竹川さんは休んでればいいから」


 かく乃がぶんぶんと手を振ると、哉多はゆっくりと首を振った。


「いや、お嬢さん、誇りというのは大切な物だ。たとえ、どんなに小さなものでもね。いつか、それが君の力になる。そんな大切な物を傷つけてしまったとは、私としても耐え難い。本当に失礼な事をしてしまった。そして、誇りを傷つけてまで助けてくれてありがとう。その恩に報いられるのであれば、何、君の学校へついていく事など造作もないさ。さあ、行こうか」


 哉多はつかつかと店の入り口まで歩いていくと、ドアを開け、かく乃をエスコートするように手を差し出した。その姿を見て、かく乃は、この人、根は悪い人じゃないのかもしれない、と思い直した。


「どうぞ、お嬢さん。おいしいヨー……ヨーグルふふ……ププッ……よーぐる豚を……駄目だ、たまらん」


 ヨーグル豚がツボに嵌った様子の哉多は、ドアを押さえながらまた笑い出した。前言撤回。やっぱコイツ嫌い。かく乃はそう思い直して、哉多の顔を見ずにさっとドアから外に出た。


 その後、哉多とかく乃は、ルイビとん萬幻豚まんげんとんといった、朝霧高原の誇る新たな豚肉たち、それに、本物の通り魔にも出会う事になるのだが、それはまた、別の話。

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