姉とは違う通学路

 その日、いつもとは違う道を通って小学校へ行ってみようと思いついた。目の前の道は、姉も使っているだからだ。私の、私だけの新しくてピカピカの道を手に入れたくて、いつもは素通りする空き地の方へと足を踏み出した。


 服はだいたい姉のお下がりだった。学校に入ってからは文房具もそうで、3つ上の姉が使わなくなった定規や色鉛筆を持たされた。母に「なんで私のはお古なん? 友達はピカピカのを使ってるのに」と聞くと、母は「もったいないから」「まだ使えるから」「新しければいいというものではないから」「よそはよそでうちはうちだから」などと、いろいろな説明をしたのだけれども、いつも決まってもの凄く不機嫌そうに答えた。だから、私はそのうち聞くのを止めた。無駄だからだ。


 習字セットや裁縫道具など、姉もまだ使うような道具の時だけは、私の、私だけの物を買って貰えた。しかし、それはいつも私の希望するものよりも、そして、姉の持っている物よりも、小さくて、なんだかぺらぺらの物ばかりだった。私が不満を漏らしても、大抵は、「お姉ちゃんもそんなに使わなかったからこれで十分」と一蹴される。私が悔しくて何も言えなくなっているうちに、強引にを押し付けられて母は去って行ってしまう。


 母は私の事を嫌いなのだ。私よりも姉が好きだという気持ちはわかる。私は姉を心から尊敬しているし、私と比べたら姉の事が好きなのは無理もない。母でなくても、誰だってそうだ。でも、だからといって私を嫌う必要があるのか。うまく言葉にできないが、私は、もの凄く怒っていた。母と、それと自分に対して。


 そして、今日の夕食後、姉の6本セットの彫刻刀よりも2本少ない4本セットの彫刻刀を渡された時、私は爆発した。


「こんなんいらん!」


 母が手渡そうとした彫刻刀を手で払いのけた。彫刻刀の箱は母の手から離れ、ばらばらと4本の彫刻刀が床に散らばる。背中から聞こえる「危なかろうもんが!」という声を無視して家を出た。でも、行く当ては無い。こんな時間に友達の家に行くわけにもいかず、私はとにかく家から離れたくて、小学校へと行くことにした。


 母は怪我をしていないだろうか、ふと、そんな思いが頭をよぎったが、怪我をしてても構わない。少しくらい指でも切っていればいい。知ったことかと唇を噛んだ。そして、空き地を横切って今まで通ったことのない道へと足を踏み出した。


 小学校の隣に立っている町内放送用の塔を目印にして、できるだけ今まで通ったことのない道を探してジグザグに進んだ。時々、知っている場所や友達の家を通り過ぎるのだけれども、いつもと違う方向から見るので、全然それとわからない。通り過ぎる時にはじめて、あ、ここは知ってる場所じゃん、と気が付いた。今まで良く知っているはずだった友達の家も、道が1本違うだけでまるで違うものに見える事が、新鮮で、面白かった。いつの間にか私は、むしゃくしゃした気分も忘れて、新しい道を歩くこと自体に夢中になっていた。


 学校の裏口に辿り着き、いつもと違う入り口から敷地内へと足を進める。グラウンドまできたところで、タイヤの跳び箱に腰かけて一息ついた。見上げると、だんだんと日も落ちてきている。母は心配しているだろうか。いや、構わない。心配していたとしても、それは本当の所は私が思うように動かない事を嘆いてるだけの、心配のポーズに決まっている。


 校庭に生えている木の数を数え終わる頃に、「あきこ」と私を呼ぶ声がした。振り返ると、ライトをぶら下げた姉が立っていた。姉は私の向かいのタイヤに腰かけると、私に何かを差し出した。薄明りの中見てみると、それは缶のポタージュだった。


「これ飲みん」

「でもこれ……ええの?」

「ええて。私も飲むで先に飲みん。振ってから開けてな」


 私は缶を受け取った。凄く温かい。しゃかしゃかと振って、プルトップをパキンと開けると一口飲んだ。おいしい。いつもなら絶対に味わえない味だ。母はジュースの類やファーストフードを嫌い、麦茶だとか、ごぼうだとかブロッコリーだとか、味の薄い自然な物ばかり食べさせたがった。そのせいか、缶のポタージュのしょっぱさは、喉というか、耳の奥の方から背中に何かがぞわぞわっと駆け抜けていくような強烈な感覚だった。


 危うく一人で全部飲み干すところだったが、姉の事を思い出して缶を渡した。姉もぐぐっとポタージュを飲むと、私の方を見てニッコリ笑った。


「あきこ」

「うん」

「あんな、たぶんうちな、貧乏なんよ」

「え」


 姉は唐突にそう切り出した。私は母が口うるさく節約だとかもったいないだとか言うのは知っていたけれど、貧乏という事は思いもしなかった。節約がしたいのもあるだろうけど、それよりも私が嫌いで、を付けていると思っていたのだ。


「そうなん?」

「本当の所はわからんのやけんが、たぶん」


 私が何を言っていいかわからずに黙っていると、姉が続けた。


「そんでな、お母さんは貧乏なんが悔しいんだと思うわ。……ちょっと違うかな。貧乏なんは置いとって、それを言うんも言われるんも嫌だと思うんよ。あきこも自分が気にしてる事言われるんは嫌やろ?」

「うん」

「だから、いっつも、ああいう時に怒るみたいになってしまうんと思うんよ」


 。姉は、やはりちゃんと見ていたんだ。私はその事に凄く驚いたというか、感心した。やっぱりお姉ちゃんは凄い。でも、それと母に対する感情は、別の話だ。


「ほんなら、そう言えばいいじゃん! 本当の事やきに」

「そやね。でも本当の事でも言わんであげた方がいい事もあるんよ」

「私はやだ!」

「うん。わかる。お母さんもあきこもやけんなあ」


 姉は困った顔で頷いていたのだけれども、その顔は母のそれとは違って、とてもやさしく見えた。この顔をされたら、私は尻尾を巻くしかない。


「わたしも、あきこが正しいと思う。でも、お母さんも頑張ってると思うんよ。だからな、お母さんを許したってな」


 私は返事をしなかった。許すとか許さないとか、そういうんじゃないんだ。それは私にとってはどっちでもいい。ただ、解らないのは嫌なのだ。解らないままの物に触れ続けなくてはいけないのは、とても嫌なんだ。それを姉に説明したかったのだけど、うまく言葉が出ない。その代わり、涙がポロポロ出てきてしまった。それでも私は姉に頷いた。


「うん。ありがとな。うちらのお母さんは、めんどいだでな。でも、私はお母さんの事、好きなんよ。あきこもそやろ?」


 私は大嫌いな母の顔を浮かべて、泣いたまま頷いた。


「ほんなら、いこまい。明日、彫刻刀は私の持ってく?」

「ううん。4本でいい」

「そか。そや、手繋いでこか」

「うん」


 姉の手を握りながら、私はいつもの道を通って家へと向かった。帰るまでには涙は止めなければならない。泣いた跡だって消さねばならない。来るときには新鮮に見えた建物や友の家は、いつもの帰り道ではいつもと同じように見えた。


 ふと、その違いが気になった。この建物のように、私の知っているはずだったものも、少し違う見方をするだけで、違う物に見えるのかもしれない。違う側面が見えるのかもしれない。そして、本当の事が見えるのかもしれない。本当の事でなくても、今よりはずっと解るようになるのかもしれない。


 だとしたら、私はいままでみたいに、姉のお古の道ばかりを通っていていいのだろうか。もっと、違う道を探したい。探さなくてはいけないのかもしれない。私はばかだ。今日の事だって、同じ物をみていたはずなのに、姉みたいに母の気持ちや貧乏かもしれない事に気づいていなかった。ばかな分、姉とは何かを変えなくては足りないんだろう。


 妹である私は、この先もずっと姉の使った物や、見てきた物、歩いてきた道を、なぞらなくてはいけない事が出てくるんだろう。理由さえわかれば、それはそれでいい。仕方がない。でも、それを受け入れた上で、なお、違う道を通ってみたい、そう思った。


 そうすれば、いつかは姉のように、母を許すという事ができるのかもしれない。できないまでも、解る事が。


 ぼんやりとそんな事を考えながら、姉の手を握って家へと向かった。私はきっと姉とは違う道を行く。そんな予感めいた思いが頭の中に渦巻いていた。でも今日は、せめて家までは、姉の手を放す気にはなれなかった。

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