偶然は運命?

 今朝も電車は、満員御礼。押し合い圧し合いされながらも乗り込んだ私は、何とか自分の場所を確保してほっと一息つく。

 目の前に座っているサラリーマンは、どの駅で降りるだろう。今日は座れるだろうか?

 つり革に掴まりながら、降りろー、降りろーと念を飛ばす。なかなか届かない念に諦めて、ふと隣へ視線をやって息を呑んだ。

 なっ、何でっ!?

 思わずガン見したまま呼吸が止まった。

 だって、隣に立っていたのは、あのスマートで白い歯がキラリンと光っている落とし主の彼だったのだ。

 どっ、どうしよう。

 止めていた呼吸を再開し、パクパクと酸素を取り込む。視線をさりげなく前に戻し、ドキドキ言う心臓に鼻息が荒くなる。

 櫂君曰く、私の“一目惚れ様”ではないですか!

 どうしよう、どうしよう。櫂君、一目惚れ様が隣にいますよ。私、どうしたらいいの!?

 半ばパニックになって、ここに居ない櫂君へ助けを求めてしまう。けれども、私は今ここに一人。助けて欲しい櫂君は、いるはずもない。

 おかげで頭の中では、“どうしよう”がグルグルするのだけれど、電車に揺られて会社を目指しているだけなのだから、どうもこうもない。

 いつも通りにしていればいいのだけれど、興奮している感情を抑えきれずに、何度もチラ見してしまう。

 見たい欲求を抑えられないんだよぉ。

 今まで気がつかなかったけれど、もしかしたら同じ車両によく乗り合わせていたのかもしれない。

 毎日これだけ混んでいるのだから、気づくほうが難しいか。

 なんにしても、又出逢ってしまった一目惚れ様に、私は興奮状態だった。この現象を、一目惚れハイと名づけよう。

 今ならこの一目惚れハイの興奮が作用して、一〇〇メートルで世界新を出せる気がする。

 陸上なんて体育の授業でしかしたこともないのに、頭の中ではゴールテープを真っ先に切って観客席から沸く握手喝采に興奮している自分の映像が鮮明に浮んでいた。

 その観客席では、櫂君が涙を流して歓喜の拍手さえしているのだ。

 一目惚れ様は、私のドーピング剤だ。って、薬物違反じゃん。

 くだらない妄想にかられていると、電車は会社の最寄り駅に着き、私は押し出されるようにドドドッと車外へ雪崩れ出されてしまった。

 スーツとスーツにむぎゅうっとはさまれて、朝ばっちりしてきたメイクも台無しになるくらいだ。

 一目惚れさま~っ。

 サラリーマンの群れにサンドされるように雪崩れ出されながらも、愛しの一目惚れ様へと手を伸ばしてみたのだけれど、届くはずもなく。

 万が一に届いたとしても、わしっと一目惚れ様を掴んでしまった日には、駅員さんに連行されてしまうだろう。

 それにしても、毎回こんな状態の通勤で、よく今まで無事に生きてこられたよ私。なかなかにしぶとい自分自身を褒めてあげたいわ。

 愛しの一目惚れ様は、あっという間に見失ってしまったわけだけれど、この時間のあの車両に乗れば、もしかしたら又明日も逢えるかも。そう考えただけで、ウキウキと心が弾んでいった。

 会社に着き、半ばスキップ状態でフロアに入ると、櫂君が私の顔を見た瞬間にぷっと笑った。

「ちょっと、櫂君。人の顔見て笑うなんて、失礼じゃないのよ」

「いや、ごめんなさい。だって菜穂子さん、口紅が……」

 そういって、櫂君は私の口元に指を伸ばし、撫でるようにしてひと擦りする。どうやら満員電車のせいで、口紅が唇の端からはみ出してしまっていたらしい。きっと、サンドしてきたどこかのサラリーマンのスーツには、私の口紅がばっちりくっついていることだろう。

 既婚者ならもめる原因だよね。ごめん、ごめん。

 櫂君は、伸ばした指先で私の髪の毛も梳き、整えてくれた。

「これで、大丈夫」

 櫂君はにこりと笑うと、改めて「おはようございます」と朝の挨拶をする。

「うん。おはよ」

 自席に着いて抽斗の鍵を開けた私は、滅多に使う事のない手鏡を取り出した。櫂君に直してもらった口紅と髪の毛を、確認するためだ。

「大丈夫ですって。ちゃんと直ってますから」

 櫂君の行動を疑ったわけではない。

「うん。そうだね、ありがと」

 鏡を出して確認したのは、今朝の大発見にちょっとばかり色気づいてしまったからだ。

「なんですか、急に。いつもと変わらないですよ」

 いつもと変わらないのは、逆にまずいのではないだろうか。いつ一目惚れは様に逢ってもいいように、もっとおしゃれしなくちゃいけない。

 角度を変えたり、近づけたりしながら鏡を見ている私を櫂君が訝る。

「あのさー、口紅の色とか変えてみようかな」

「どうしたんですか、急に。その色、似合ってると思いますよ。僕は、好きです」

 櫂君が満面の笑みを向けてくる。

「そうかなぁ」

「あ、まさか……。一目惚れの人に、また逢ったりしました……?」

 あら。なんて鋭い勘。

「そうなのよ、櫂君。偶然とは、もしかしたら運命の始まりかもしれないよ」

 大袈裟な私の言いように、櫂君は頬を引き攣らせている。

「同じ時間の同じ車両に乗れば、明日も彼に逢えるかも」

 むふふ。と笑いを零せば、「はい。仕事してくださいねー」と今日もじゃんじゃんお仕事をまわしてくる。

 櫂君の容赦ないお仕事してください攻撃を素直に受け入れ、今日も私は黙々と机に向かうのでした。


「うぅ。肩が凝る」

 PC画面を睨みっぱなしでいた午前中。仕事ははかどったけれど、肩がひどく凝ってしまった。頭を左右に動かし、肩をとんとんと叩いて気休めをしてみる。

 なんだか私、お婆ちゃんみたい。

 そういえば、私が小さい頃。縫い物をしていたお祖母ちゃんも、よくこうして肩をトントンなんてやっていたっけ。私のために、浴衣を縫ってくれていた時もあったなぁ。

 小さかった私は、縫い物をしながら背を丸めて座るお祖母ちゃんの後ろに回り、肩をトントンなんて叩いてあげてた。

 最近、肩叩きしてあげてないなぁ。今度行ったらやってあげよう。

 それにしても、肩が痛い。

「カイロとか行こうかな」

「カイロですか?」

 首を傾げてコキコキ鳴らす私を、櫂君が見る。

「整体の方がいいと思う? そもそも、カイロと整体って何が違うの?」

「さあ? 僕、そういうの行ったことないんで。よく体を動かしているせいか、肩凝りには縁遠いんですよ」

 そうなのか。運動するって、大事なんだね。体育の授業がない社会人じゃ、駅の階段を上り下りするくらいしか動かないもんなぁ。

「羨ましいね」

「あとは、若さですかね」

「喧嘩売ってる?」

 唇を突き出して睨むと、櫂君は顔の前で両手を開いて慌てて振っている。

 そんな櫂君は、私の睨みなど難なく直ぐにかわして、話題を変えてしまった。

「あ、そうだ。部屋のこと、訊いて貰えました?」

 そうだった、そうだった。昨日飲んで帰ったから、お祖母ちゃんに連絡するのをすっかり忘れてた。

「ごめん。忘れてた」

「頼みますよぉ」

 楽しみにしていたのか、櫂君がとっても残念そうな顔をする。まるで遠足当日に、雨が降って中止になったときのような落ち込み具合だ。

 大丈夫、降り止まない雨はないのだよ、うん。

「ごめん、ごめん。今日帰ったら訊いてみるね」

「よろしくお願いします」

 小さく頭を下げる櫂君を見ながら、帰りも会えないかなぁ、なんて私は一目惚れ様の顔を思い浮かべていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る