自宅巡り その三(4):命を供えよ、勇気を備えよ

 たねがしまん輪盤ルーレット、第3席。

 指宿は前回と同じくの長考だった。


 途中、何度か思い出したように電話で己の死後にまつわる指示を飛ばし、また悩むの繰り返し。

 しかし幾つか継嗣の耳にも届いたが、いずれも取るに足らない私事ばかりであり、特筆には値しない。


 電話の切り間に継嗣はひとつ気になっていた事柄を尋ねた。


「あの、ちょっといいでしょうか?」

「何ですか?」

「この大砲が発射された時の、騒音って大丈夫なんですか? 自宅の秘匿性の観点から見て、万が一、地鐸の在り処が外部に漏れでもしたら……」


 継嗣の疑問は至極当然のものであるはずだった。

 自宅は多くの住宅の中に紛れ込む為に建てられた隠れ神殿なのである。

 それがこんな大きな砲音を響かせては本末転倒ではなかろうか。


「……おかしなことを言いますね。それとも東都とうとは砲撃音くらいで騒ぐような神経質な方ばかりなのですか?」

「…………愚問でした。忘れてください」

 

 この土地では聞くだけ全てが無駄だった。

 それから、約二十分に近い時間を浪費し、指宿はようやくスイッチを押した。


 弾は出なかった。



 ■  ■  ■



 唐突だが確率の恐ろしさとは、決してその多寡に左右されるものではない。

 こんな実験話がある。

 

 スイッチを押した数だけ十円が貰える装置を前にした時、被験者はいずれも喜んでそのスイッチを連打したと云う。

 しかし、あるタイミングでその装置が五千分の一の確率で電流が流すことを知らされると、被験者は誰もが軽々しくスイッチを押すことが出来なくなった。

 当然ながら、電流が流れるという条件自体が嘘であるのだが、被験者がそれを知る余地はない。

 どんなに低い確率であっても被験者は恐怖によって立ち止まる事を余儀なくされ、結果、到達できる最高金額は一万円にも満たなかったと云う。


 この実験の最も興味深いところは、電流の流れる確率が千分の一、五千分の一、万分の一、十万分の一であれ、どれも大差のない実験結果を弾き出したことにある。

 人は確率の恐怖を前にすると、その数字の多寡は関係なく、恐れることで歩みを止めてしまうように出来ているのだ。

 

 最悪の結果が頭をよぎった途端、最良と最悪、二つの結果に心が囚われてしまう。

 これを『確率の魔』と呼ぶ。



 ■  ■  ■



 たねがしまん輪盤、第4席。

 弾が発射される確率は七分の一。決して高くない確率だが、その代償が死であれば人の足を容易に止める数字である。


 だが、覚悟を決めた継嗣に迷いはなく、『確率の魔』に囚われながら、歩みを止めることはない。

 死の恐怖に晒されながら、それでも前回と同じく、寸刻待たずスイッチを押した。


 重々しく装置が駆動する音を聞きながら、継嗣はまぶたを閉じていた。

 まぶたを上げて視界を開いても、以前、大砲には変化がない。――――弾は出なかった。



 たねがしまん輪盤、第5席。

 再び指宿の手順。またしても長考に入るかと思われた指宿が、ふいに声をかけてきた。


「……君は、遺書は書かないのですか?」


 また時間稼ぎの瞑想に入ると思われた指宿の提案に、継嗣は一瞬、面食らった。


「いえ、結構」

「君だって木の股から生まれた訳ではないでしょう。書いておきなさい」

「本当に、結構です。どうせ死んでも遺すものがない身の上なので」


 とっさに出た言葉だったが、それは事実だった。

 継承権を剥奪され、家に身の置き場を失った継嗣に遺すべきものなどない。

 その身と命だけしか持たず、徒手空拳の身軽さというやつで全国を巡っている。


 くだらない、と継嗣は思った。

 とうとう時間稼ぎのタネが尽きて、こちらにまでその言い訳を探しに来たのだ。

 その証拠に、この席での指宿はこれまでで最短、十分ほどの時間でスイッチに手をかけた。


 ここでも、弾は出なかった。




 ■  ■  ■




 たねがしまん輪盤、第6席。

 とうとう確率は五分の一。打ち目半分を残す後半戦となる。

 これまでも運よく弾が出なかったに過ぎないが、それでも数字はじわじわと這い寄るようにその重みを増していく。

 

 大砲の前に陣取った継嗣は、これまでのように即断即決。とはいかなかった。


 ふいにスイッチにかけた指の力が弛緩していた。

 今更、怖気付いたからではない。

 指宿の言葉がしこりになっていた。


 ここで自分が儚く大砲の餌食となって散った場合。

 自分が死んでしまった場合、その後どうなるのか。

 

 こうした考えに捉われる事は、何も初めての経験ではない。

 人生の中で気が沈み、ふいに熱病に浮かされるように己の死を思う事は、誰にでもある平凡な経験である。

 だが、理路整然とした死を目前に、己の死を考えるのは継嗣もこれが初めての体験だった。


 思い浮かんだのは両親の顔だった。

 あの気丈な母は表立って取り乱すことはしないだろうが、陰では泣いてくれるだろうか。

 父は無様に敗死した息子に憤るだろうか。あるいは見事と褒めてくれるだろうか。


 どちらにしろ泣きはすまい。父の揺るぎない強さが指の重みを消してくれていた。

 スイッチを押す動作にさほど力みなく。

 継嗣が意識した時には、すでに壁向こうの装置が重々しく稼働していた。

 

 この『たねがしまん輪盤』には、スイッチ起動から装置の駆動までに、ほんの少しだが時間がかかるようになっている。

 それはおそらくスイッチを押した後にも挑戦者が逃げられるようにする工夫であり、同時にその心胆を試す仕掛けなのだ。

 逃げられる余地を残すことで、挑戦者は一層、大砲から逃げ出したい欲求と向き合うことになる。

 

 継嗣はさながらギロチンが高々と天へ向け昇っていく音を聞く虜囚の気分を味わっていた。

 しかし、すでに腹は決まっている。このまま死んでも悔いはない。

 その決意に呼応してか、あるいは反してか。

 弾は、出なかった。



 たねがしまん輪盤、第7席。


「君はどうも、この『たねがしまん輪盤』の趣旨を理解できていないようですね」


 指宿は出し抜けにそんなことを言って、継嗣を嘲笑った。

 だが継嗣は真面目に取り合わない。またしても時間稼ぎの盤外戦術と読んで、冷静に返す。

 

「仰っている事の意味が分かりかねます」

「そのままの意味ですよ。君はこの勝負を、死をどれだけ恐れないかを競うものだと勘違いしている」


 またぞろ指宿が妙な事を言い出した。

 この『たねがしまん輪盤』はどちらかが死ぬまで続く競技である故に、死は明確な罰であり、敗北を意味している。

 これは死の恐怖を克服し、スイッチを押す勇気と実弾を引き当てない天運を競う戦いではなかったのか。


 そこでふと継嗣は、指宿の問いを思い出した。

 

「指宿さん、そもそもあなたも言っていたじゃないですか。『勇気』を見せて欲しい、と」

「うん、言ったね」


 指宿は肯定しながら振り向くと、床の間から生える大砲と向き合った。

 呼吸二つ。精神統一する間をおいて、ようやく指宿は答えた。


「本来、この『たねがしまん輪盤』は部外の者にはやらせない決まりになっている。それはこの勝負が崇高なものだとか神秘めいた理由ではなく、外部の者はやる意味がないからなんだ」

「意味が、ない?」

「そう、意味がない。なぜなら、これは籠島の自宅警備員がその代を継承するための儀式なのだから」


 自宅警備員、継承の儀式。

 継嗣は一瞬にして頭の中が真っ白になった。


「ちょ、ちょっと待ってください。俺は……」

「安心したまえ。何も君を私の後釜に据えようなどとは考えてはいない。さっきも言ったでしょう。私が死んだ場合は従兄弟がその後を継ぐのだと」


 疑問が晴れてなお疑問が湧く。

 継嗣が問いを発するよりも早く、指宿が言葉を継いだ。


「我が『史上最勇』とは、そもそもが籠島の自宅警備員が代々受け継ぐ異名なのです。――――もっとも、君は疑っているようですが」


 ふふ、と含み笑いを漏らす指宿に、継嗣は言葉も出ない。

 猜疑心を隠すつもりはなくとも、いざ言葉にして突きつけられると継嗣は動けなかった。


「これはその証を立てるための儀式。いつ死んでもおかしくない環境に身を置く自宅警備員、その『勇気』と『覚悟』を試す勇具」


 たねがしまん輪盤。

 その十の引き金に、籠島の歴代自宅警備員たちはその命を乗せてきたのだと云う。


「自宅警備員でない者には関係なし。だが、自宅警備員を目指す君を試すにこれ以上の方法はない。そうでしょう?」

「……仰ることは理解できます。しかし、それなら俺は真面目にこの勝負に取り組んでいます。主旨を理解していない、とはどういう事ですか」


 指宿の考えは理解できても、肝心の答えをまだ聞いていない。

 継嗣は真剣だった。真剣にこの狂気の試練に取り組み、その命を差し出したつもりでいた。


「…………だから、君は勘違いしているんですよ」


 しかし、指宿はそんな継嗣の問いかけを一蹴する。

 指宿はおもむろに眼鏡をかけ直すと、断言した。


「いや、君だけではない。多くの人が勘違いしている」

「何が言いたいんですか、貴方は」

「継嗣くん。一体、『勇気』とは如何なるものか?」


 指宿の問いかけに継嗣は即答した。


「恐怖に立ち向かうこと。危険を顧みぬこと。己の真実に背かぬこと」


 これはかつて父から教わった三箇条をそのまま述べたに過ぎない。

 しかし、それは継嗣の中においても揺るがぬ真実であった。

 だが、指宿にとっては違っていた。


「……一面においては正解。しかし、それだけでは不十分と言わざるを得ませんね」


 この言葉に、継嗣の脊髄に火が灯った。

 父が与えてくれた財産が間違いであるなどと、誰の口から出た言葉だとしても許す訳にはいかなかった。


「ではお教えください! 一体、何が『勇気』だと言うのですか!」


 面罵するように吠えながら、到底、教えを請う態度ではない。

 しかし、指宿はそんな継嗣の激昂を意にも介さずに言った。


「……『勇気』とは、備えることです」


 それは継嗣が耳にしたことのない摂理であった。

 勇気とは、燃える火のように刹那的で活力のある、とっさの衝動ではなかったのか。

 それから指宿は落ち着いた声色で、諭すように語り出した。


「恐怖を克服すること自体はとても簡単で、誰にでも出来ます。恐怖は認識されない限りは脅威にならない。つまり、目を閉じ、耳を閉じ、鼻を閉じ、口を閉じ、感覚も意識も閉ざしてしまえば、もうそこに恐怖などありません」

「……それでは、ただの臆病者ではないですか?」

「その通り。それではただ怯え竦んでいるだけ。私たちは目を開き、恐怖を直視しなければならない。しかしそれでも怖いものは怖い。出来るなら恐怖など見ずに、立ち向かわずに生きていたい。だが、人の一生にはいくつか、その恐怖と向き合う場面が必ずやってくる」

「ですから、その為の『勇気』でしょう。恐怖に向かってガムシャラに立ち向かい……」


 継嗣は己の知る一般論を唱えたに過ぎない。

 だが、その瞬間、指宿の声が熱を帯びて放たれた。


「それでは臆病者と変わらない」


 端から切り落とされて、継嗣は絶句した。

 ガムシャラに立ち向かう。それは即ち、無心という事である。

 無心とは心を閉じている状態。恐怖に立ち向かいながら、その実、心が逃げているではないか。

 指宿はそう説いているのである。


「誰だって恐怖などと向き合いたくはないし、立ち向かいたくはない。人はそこまで強くはないのです」

「では、どうしろと仰るんです」

「だから言っているでしょう。――――備えるのです」


 話が元の位置に戻っていた。

 指宿は順序立てて説明したつもりのようだが、察しの悪い継嗣には男の説く勇気の正体がいまだ掴めない。

 

「我々は恐怖に対しては成す術がない。怖いものは怖い。しかし、備えることなら出来る」

 

 応答がいよいよ禅問答じみていた。

 備えろ備えろと言うが、一体、何に備えるというのか。あるいはこれも時間稼ぎなのではないか。

 継嗣の混迷はいよいよ深みを増していく。


「例えば、私たち自宅警備員の恐怖が『死』であったとしましょう。継嗣くん、君はなぜ死ぬのが怖い?」

「なぜって……それは、死んだらそこで終わりですし、今までの積み重ねの無駄になって、それにやり残した事も……」


 返答の間に突如、乾いた音が被さった。


「そう、未練」


 正答。

 そう言わんばかりに指宿が柏手を打ち鳴らしていた。


「思い残し、やり残した事があるから人はその命を惜しむ。だが、誰だって備える事は出来る」


 備える勇気。

 それこそが単純明快な指宿の理屈だった。

 

「勇気とは備えること。危険を顧みないことではない。理由なき行動は蛮勇でしかない」


 死を恐れ、死を忘れて飛び込む事は無理無謀でしかない。

 指宿の説く勇気とは、継嗣の知る勇気とはまったく質を違えるものだった。


「最悪の未来を顧みて万全を期した末にやっと湧き上がるもの。――――それこそが『勇気』であるべきだ」


 死を恐れるならば、その死の先にあるものを見て行動する。

 死に、備える。死後の未練を出来る限りに断ち切る。

 そうする事で人はやっと恐怖に向かっての一歩を刻める。


「この『たねがしまん輪盤』は死をいかに忘れるかを競うのではなく、いかに死を見つめながら、そこに近づけるかを競う勝負」


 その一言でこれまで指宿が行ってきた、不可思議な言動に対する全ての疑問が氷解していた。

 あの一連の時間稼ぎに思えた行動が、その実、己の死に向かう準備に費やされていた事の意味に、継嗣はようやく気がついた。


「『たねがしまん輪盤』に制限時間を設けられていないのはその為です。死に備える時間はいくら掛けてもいい。代わりに恐怖から目を背けぬ事。それこそがこの勝負に掛けられた意味です」


 対する自分はどうだったか。継嗣は自答した。

 身を投げ出すつもりでスイッチを押しながら、その瞬間に我を忘れて恐怖から逃げ出してはいなかったか。

 自問自答を繰り返すたび、目の前で大砲に向き合った細身の男がみるみる内に肥大していくかのように思えた。


「主旨は理解できました。…………最後に一つだけ、よろしいでしょうか?」


 圧倒されながら、それでも継嗣はどうしても問わねばならない疑問があった。

 乾ききった口中に残ったわずかな唾を飲み込んで、言った。


「この勝負は代々、籠島の自宅警備員が行ってきた儀式、ですよね」

「その通りです」

「なら、貴方は先代の自宅警備員と……」


 その言葉を舌の先に載せるだけで悪寒が走った。

 それは指宿が血を分けた実の父と命をかけ、『たねがしまん輪盤』で競い合った事実を示していた。


 そして今、こうして指宿はここに座っている。

 その事実に継嗣は心底、震え上がっていた。

 野蛮と云うよりもっと血生臭い。ひたひたに血で濡れた布を首筋に被せられたような、言い知れぬ不快さがまとわりついていた。


 あるいは、自分がその立場であったとして同じ事が出来るだろうか。

 尊敬する父を殺し、その自宅警備員の座を譲り受ける。

 想像するだけでもおぞましい出来事が、この狭い一室にて行われていた。

 その恐怖が言わずもがなの一言を出させていた。


 指宿もすぐには答えなかった。

 少し悩んだのか、腕を組んで首の骨を鳴らしてから、ようやく答えた。


「今、私が着ている服は、かつて父が身につけていた物です。……ひとまずこれを答えとしておきましょう」


 指宿が身に着けている陽気なアロハシャツ。

 あまりに当人の気質とは裏腹で、見るからに釣り合わない異物の正体。

 それは継嗣の恐るべき想像を肯定しているに等しかった。


「もう、質問はないですか?」


 指宿に声をかけられても継嗣は答える事が出来ない。

 その無言を返答と受け止めて、指宿は再び大砲へと意識を集中させた。


「では、続けますよ」


 言うが早いか、今度は迷わなかった。

 指宿は懐に抱えたスイッチを押していた。


 その確率、四分の一。

 常人ならずとも尋常ならぬ、すでに狂気の数字である。

 真っ当な神経の持ち主ならば逃げ出す事も決して恥とは言い難い。

 そんな苦境を前に躊躇なく、指宿はそのスイッチに手をかけたのである。


 意思なき鉄のからくりが、その勇気を認めたように。

 弾は、出なかった。

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