The S.A.S.【6-2】


 マーク・ラッセル・ペイジとは、我々クラプトン四兄弟がSAS加入直後に派遣された、イラクで知り合った。俺より四つ年上のマークはネブラスカ出身で、口を開けば妻の事ばかり話すグリーンベレー(米陸軍特殊部隊群)であった。

 その性質は温厚の一言で表され、逞しくも爽快で優れた容姿には、巻き毛の濃いブロンドがよく映えた。現在は三歳になったばかりの娘を溺愛しているが、最近になってグリーンベレーを除隊したとの報せが入った。娘の為にも安全な職を求めたのかと考えたが、どうもそうではないらしい。どうやら妻がイギリス人で、その実家近くに越してくるらしい。しかも当人は軍籍を捨てた訳ではなく、何とそのままSASに入隊するつもりらしい。SASにも所帯持ちは少なくないが、まさかやつ程の家庭教信者でも、軍属を抜け出せないとは。この狂気の依存性こそが、特殊部隊から染み出る蜜の甘味を物語っている。

 マークは我々兄弟の属するD戦闘中隊に編入される運びであったのだが、神様は意地悪を為される。彼が引っ越しやアメリカでの残務に奔走する間に、『アラブの春』が吹き荒れた。俺は二人目の兄の到着を待たずして、ベビーブームよろしく四方八方で爆発が起こるアラビア半島へと空輸された。妻という、最愛のお荷物を抱えて――。止せよ、胃がねじ切れちまうぞ。

 車内のスモークガラスに呵々大笑するマークを思い描くと、脳味噌が急激に萎む錯覚に陥った。グリーンベレーを除隊する直前、やつはCIF中隊にいた。CIFは精鋭集団のグリーンベレーでも、トップの精鋭を集めた究極の戦闘集団だ。米陸軍の最高峰に足を掛けていた男であるからして、その実力は安易に言表出来るものではない。その第二の兄貴分が、今ここにはいない。心労から、目頭を揉まずにいられなかった。


 埠頭に詰まれた貨物コンテナの影に車を駐めて、一時間が経過していた。尿気を招く為に、不安を紛らわせる紅茶も飲めない。月明かりだけの夜間とはいえ、目標たる全長二百メーターに満たない小型貨物船から、三百メーターと離れていないのだ。小便を理由にこちらの存在が露見するくらいなら、このまま車内で漏らす。

 何度目かの嘆息を口の中で殺し、煩わしい焦燥とつばぜり合いを続ける。〇一三〇時に、埠頭をボートで発った潜入班が、貨物船への乗り込みを開始する。予定時刻まで、七分と二十三秒ある。洪水みたいな冷汗が下着を濡らし、密閉された股間で蒸気が上がる。天津のせいろから湯気が溢れる様に、俺のトラウザスから毒ガスが吹き出した。運転席と助手席に座るパーシーとデイヴは、削れ落ちた心労の臭いにむせ返り、無辜の同乗人であるダニーの放屁だと嘲った。不当な糾弾を受けているにもかかわらず、愛する舎弟は口をつぐんで堪え忍んだ。実に良い弟分に育ってくれたものだ。


 点眼液を両眼に注して、ぐうと眼球を押さえる。ヘッドセットの下の左耳に、不明瞭な音声が吐き出される。

〈オクトパスより全部署へ。右舷のケツに着いた。いつでも乗船可能だ〉

 海上からの潜入を担当する『オクトパス』の報告が、波音と共に届けられた。

〈シエラ・ワン、船首側に動きはない〉

〈シエラ・ツー、船尾も異常なし〉

 狙撃手を兼ねた偵察班――ショーンとマシューが、船上の警戒に高倍率の目を光らせている。

〈アルファより全部署へ。作戦を開始しろ〉

 二十四時間前に砂漠で聞いたのと同じ、女声の命令が寄越される。この声の主だが、実はショーンの現恋人である。

〈オクトパス、乗船を開始する〉

 いよいよだ。ここからは見えなくとも、潜入班の二人の動きが目蓋の裏で鮮明に描けた。ワイヤー製の縄梯子を貨物船の縁に引っ掛け、足裏にワイヤーが食い込む痛みを堪え忍んで、ゆっくりと船上に這い上がる。舟艇小隊はいつだって、冷たい海で歯を打ち鳴らす羽目を喰う。河童めいた黒いドライスーツで船内へひたひた侵入し、何らかの反社会的な物的証拠を押さえれば、潜入班の業務は終了である。ちょっと忍び込んで、写真を撮影するだけ。その最中に何者かの目についたとしても、彼らは対処法を熟知している。餓鬼のお使いめいた作業に、何を不穏に感じる必要があるのか。

〈オクトパス、乗船完了。船上のコンテナから調査する〉

 SASでの仕事は、これで何度目だ?夜間に襲撃を仕掛けて、それが想定外の展開に運ばれた前例は、今まで幾つある?被害の大小はあれ、今までこうしてやって来られた。何も心配は要らない。

〈一つ目のコンテナを解錠した〉

 潜入班が貨物船に乗り込んだ理由は、殴り込みではない。単なる捜査だ。穏便に済めば、誰も傷付かずに事が終わる。現に、潜入班は彼らの仕事を進めている。食品に偽装された武器弾薬、或いは麻薬の類が見付かれば、それでほぼ終わり。証拠を握って、またひっそりと現場を後にする。我々も一旦撤収し、態勢を整え、薄明と同時に貨物船を襲撃する。押収品は、きっと通常部隊や米軍が処理してくれる。長く見積もっても、正午までには基地へ帰れるだろう。上手くいかない筈がない。

「この分だと、一時間もしないで帰れそうだな」

 パーシーがレスピレーター(ガスマスク)を脇に放り、ハンドルに顎を預けた。すっかり一つ目のコンテナで不審物が発見されると、甘い見通しを立てている。緊急事態に車を走らせるのはこいつなので、正直なところ緩まないで欲しい。直帰するのに異論はないが。

 車内で自分以外が緊張を和らげたその時、潜入班から入った通信は意図しないものであった。

〈オクトパスより全部署へ。一つ目のコンテナは空だ〉

 その言葉に、デイヴが大袈裟な落胆を示す。

〈無線口に愚痴りたくはないがね、特別手当は出るんだろうな――〉

 無線と現実世界で、夜のしじまを割く破裂音が響き渡る。

〈全部署へ通達、船上で銃声!繰り返す、船上で銃声だ!〉

 にわかに通信の波が押し寄せ、指示とがなり声が方々から飛び交う。全景が把握出来ていないとはいえ、懸念が現のものとなってしまった。

「車を出せ!」

 面喰っているパーシーの座席を蹴り、すぐに車を発進させる。重装備のレンジローバーが低い唸りを上げ、コンテナの陰を飛び出した車体が貨物船へ猛進する。船上で赤白い光が瞬き、銃弾が我々のいる埠頭へ降り注ぐ。その一部が、エコー・ワンのレンジローバーの装甲を叩く。

「待機部隊は貨物船へ突入しろ!シエラ、状況報告!」

 胸に装着したPTTスイッチを押し込むも、偵察班の返答はない。助手席のデイヴはレスピレーターを慌てて装着し、ウィンドウを下ろしてフラッシュバン(特殊閃光音響弾)を前方へ投げる。化学反応の炸裂が起きると同時、ショーンが無線を寄越した。

〈シエラ・ワンより全部署へ!シエラ・ツーが負傷、貨物船から猛攻を受けている!〉

「冗談じゃねえぞ!」

 罵声を撒いたパーシーが、ハンドルに顔を叩き付けた。フロントガラスが一瞬で白く染まり、運転席の辺りが丸く穿たれている。助手席のデイヴが操舵を取り戻そうと、ハンドルへ手を伸ばす。車体が左右に振れ、慣性に振り回された乗員が重力から引き離される。銃弾を受けるフロントガラスは更に白く濁り、視界が失われる。デイヴは開いているウィンドウから頭を突き出し、それから身震いしたかと思えば、だらりと窓枠に首を預けて脱力した。

 制御を失ったレンジローバーはスリップし、正面からコンテナに衝突した。クラクションが鳴り渡り、エアバッグの作動が聞こえた。額を前の座席に打ち付けた所為で、目の前が真っ暗で星が散っていた。調子の狂った四肢でドアを手探りしていると、腕を左へと引っ張られる。

「おい、ダニーか?無事か?……ブリジットは?」

 車内から引きずり下ろされて数秒が経つと、網膜がおぼろげな像を結び始めた。俺の腕を引いていたのは、ブリジットだった。

「ダニエルさんはご無事です。少々、出血されていますが」

 先に車内から這い出ていたダニーは衝突の影響が小さかったらしく、既に戦闘態勢を整えて、コンテナを遮蔽に貨物船へ警戒を投げていた。擱坐したエコー・ワンは敵の関心から外れ、もう一台のレンジローバー――エコー・ツーへ火力が集中している。打ち付けた頭を押さえると、額から出血していた。ブリジットが散乱する車内から医療バッグを取り出して、傷の具合を診てくれた。

「……縫う程ではない様ですね」

「俺の傷はいいから、パーシーとデイブを診てくれ」

 小隊長の指示に、ダニーが視線を貨物船へ固定したまま首を振る。

「逝っちまったよ」

 舎弟の言葉に、血の気が引いた。助手席のデイヴは最後に見た時と同じく、頭部を車外へ放り出していた。彼の顔に張り付いたレスピレーターを引き剥がし、そして元に戻した。デイブの顔面は鼻の部分から崩壊し、頭骨の破片が後頭部から飛び出していた。大口径弾の貫通銃創による、即死だ。奥歯を噛み締めて運転席に回り、パーシーの容体を確認する。我々の運転手は、萎んだエアバッグに突っ伏していた。上半身を起こすと、やかましいクラクションが止んだ。胸の中心におぞましい射入口が穿たれ、背中の抗弾プレートに弾丸が食い込んでいる。邪悪に変形した鉄塊は、対人間を想定していない口径であった窺い知れる。パーシーとデイブは死んだ。自分が死んだと気付く間もなく、最後まで連隊を守って散った。

「こちらエコー・ワン、二人やられた。敵は対物ライフルか、或いは重機関銃を装備している。防弾ガラスを抜かれるぞ」

 デイブが最期の根性で運転を制御したお陰で、我々はうずたかく積み上げたコンテナの後ろに位置していた。遮蔽には事欠かないが、コンテナ群が邪魔で射界が狭い。ややもすると、スタックしたレンジローバーから燃料が漏れて、炎上する可能性もあった。ダニーを引き続き周囲の警戒に当たらせ、ブリジットと俺で爆発物を車内から取り出した。これで爆死の危険性はぐっと落ちたが、予断を許さない動勢に変わりはない。

 間断ない発砲を割いて一際鋭い音の波が鼓膜を打つ。直後に〈一名負傷〉の報告がエコー・スリー――ヴェストの分隊から為された。奇襲による優位は、元より存在しなかった。我々の行動は、端から敵に筒抜けであった。

〈アルファより全部署へ。ロメオが偽装された重機関銃を確認。オメガがそちらへ向かった〉

 ロメオは高空を旋回するリーパー無人偵察機、オメガは二機のピューマ・ヘリに割り当てられたコールサインだ。だが、作戦本部からの通信で背筋に悪寒が走る。

「ヘリを下がらせろ!」

〈こちらオメガ・ワン。心配するな、もう大丈夫だ〉

 程なくして、聞き慣れた力強いローター音が飛来する。平生であれば、こうまで信頼の寄せられる代物はない。

〈敵影多数、吹っ飛ばせ!〉

 ヘリ機長の勇ましい通信音声を皮切りに、四門のミニガンから猛獣の咆哮が吐き出される。一秒あたり百発射出される曳光弾が、赤い鞭となって貨物船の上甲板を襲った。船上からの発砲が途切れ、テロ支援集団の阿鼻叫喚が沸き起こる。頭上から降り注ぐ空薬莢が、スタックしたレンジローバーの屋根を叩いた。ダニエルが左腕を振り上げて、オメガに鼓舞を掛けていた。

「いいぞ、やっちまえ!」

〈ミサイル警報!〉

 全てが一瞬であった。白煙の尾を曳いた飛翔体が、船尾から緩いカーブを描いて片方のヘリを追尾し、その脇腹へ勢い喰らい付く。舟艇小隊のを載せたヘリは爆轟と共に火の玉へと変じ、空中で舵を失って錐揉みを始めた。炎の塊は見る間に高度を下げてコンテナにぶつかり、我々から数十メーター離れた地面に墜落した。テイルローターが落下の衝撃でねじくれ、機内は化学燃料の引火で溶鉱炉と化していた。ブリジットが医療バッグを抱えてそちらへ駆け出そうとしたが、ダニエルがその肩を掴む。墜落地点まで遮蔽物はなく、燃え盛る惨状から這い出る人影もなかった。無線では、観測ヘリがSAM(地対空ミサイル)によるオメガ・ワンの墜落を繰り返していた。

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