第1章 魔術師のステンドグラス_1


 デイランド王国の王都キルハより、列車と馬車で四日もかかる小さな田舎町での暮らしは、ジルにため息しかもたらさない。

 自室の窓から見える小高いおかには、五年前まで暮らしていたしきが建っている。あの屋敷を手放したおかげで、ばく好きだったき祖父の借金は返せたものの、親族へのそれらがまだ残っており、男爵家とは名ばかりの暮らしはいまだ続いていた。

 ふと視線を庭へ向けると、母親が居間にかざる花をみ取っている。モスリンの古いドレスは、あざやかな色味をすっかり失っていた。と、立ち上がった母親が振り返り、ジルを見上げてやわらかく微笑む。ジルは窓を開けた。

「お母様、チューリップきれいね!」

「ええ、オレンジ色のチューリップがよく育ったわ。あなたのお部屋にも飾る? お部屋が明るくなるわよ」

「あとで自分で摘むわ。ありがとう」

 そう笑顔で答えてから、本を広げて窓枠に腰掛け、ジルはふたたび屋敷を遠目にした。

 生まれたときから貧しかったから、きりつめる生活には慣れている。それでもこんなときには、ゆうふくだったらと思わずにはいられない。

「お姉様、なにを見ているの」

 部屋に入ってきた妹のソフィの声に、ジルは本を閉じて笑みを返した。

「べつになにも。いい天気だなあって、思っていただけ」

とう会の花〟とうわさされる十五歳のソフィは、若いころの母親似で愛らしく、あいがん人形そのままの容姿だ。ふっくらとしたブロンドの髪に、長いまつげにいろどられた緑色の瞳。がらきやしやな姿は、だれが見てもうっとりするほどれんで愛らしい。

 一方、十八歳のジルはといえば、父親似の赤毛でせ気味なうえ、身長が女性にしては高かった。妹と同じ色のんだ瞳は大きいが、きりりとしており、そうめいさをうかがわせるのと同時に、生意気そうに見えなくもない。な愛らしさが女性に求められる田舎町では、ジルの容姿は誰の目にも規格外に映っていた。

 ──常に冷静で本ばかり読んでいる〝かべの花〟。

 そう噂されるジルを、持参金がなくともめとりたいと切望するしんかいだった。だが対照的な妹には、婿むこになってもいいという候補者がいる。

 こいけつこんは、相手とのえんがあってのことだ。自分にはまだ訪れないだけ。いや、もしかしたらしようがい訪れることはないのかもしれない。もしもそうであるのなら、その運命をまっとうしようと、ジルはひそかに心に決めていた。

 だからこそ仲良く育ったソフィには、なに不自由なく幸せになってもらいたかった。せっかくおとずれている縁を、大事に育ててほしいと見守っていたのだ。……それなのに。

ひとつき後、モーガン家のお屋敷で舞踏会が開かれるでしょ? それで、あなたにドレスを作ってあげたいと思っているんだけれど……」

 新しいを手に入れるための、先立つものがない。ため息をつくジルに、ソフィはほがらかに微笑んだ。

「行かないわ。お姉様だってそうでしょ? いつしよに物語でも読んでいましょうよ、ね?」

「そんなのダメよ。ケニー・モーガンにさそわれているじゃない。断るなんて許さないんだから」

 からかい気味にジルが笑うと、ソフィはポッとほおを赤くした。材木をあつかうモーガン家は、この町で一番裕福だ。次男のケニーは気だてのいい好青年で、ソフィも彼に好意を抱いている。きっと楽しくなる二人の夜を、ドレスごときでぶちこわすわけにはいかない。

「とにかく、あなたは行かなくちゃ。ドレスは私がなんとかするから」

「だけど……お姉様はどうするの」

 肩をすくめたジルは、にっこりして言う。

「もちろん、私は行かないわ。行ったところで私とおどってくれるのは、お父様だけだもの」



 その日の夜、ジルは亡き祖母のお下がりのなかで、もっとも上等なドレスにはさみを入れた。そうしながらも考えてしまう。自分が独身でいるのは、しかたのないことだ。でも相手のいるソフィには、ずかしい思いをさせたくない。

 持参金は無理でも、いつか結婚するソフィのために、誰よりも美しいウエディングドレスを用意してあげたい。母親にも、新しいドレスを着てもらいたい。

(家族を支えるために、やっぱり働きたいわ……)

 貴族のれいじようが尊厳を失わずに済む職業は、教師だけだ。そうなるかくは、もうできている。

 この国でその資格を得るには、二つの道があった。一つは女学校を卒業することだが、金銭面であきらめざるをえない。もう一つは、科目にった道をきわめている著名な人物に、一年間無給で従事して認められ、資格証明書をもらうことだ。しかしこれにも、あいさつわりの多額な謝礼金が必要だった。

(なんとかならないかしら……)

 手を止めてたんそくしたとき、ドアがノックされる。入ってきたのは父親だった。まだ起きていたのかと、父親は目を丸くする。

「舞踏会に着ていくソフィのドレスを、作ろうと思って」

 父親は哀しげにんだ。貧しいこと、男性に見向きもされない長女をおもんぱかっていることが、細められたまなしから伝わってくる。切なくなったジルは、父親を元気づけたくて笑ってみせた。

「モーガン家での紳士の集まりは、楽しかった?」

「まあ、そこそこにはな。王都から陸軍士官の親族が来ていて、アイリーン王女殿でんりんごくイルタニアの王太子殿下との婚約式のために、銀王宮は活気にあふれていると聞いた」

はなやかね、てきだわ!」

「そうだな。それから、彼が知人から聞いたという噂も教えてもらった。銀王宮の〝マスターズ・オブ・アーツ〟が、助手をほつしているらしい。なにやら次々とめていくんだそうだ」

〝銀王宮〟と呼ばれるキルハ王宮には、国王から特別に目をかけられた四人の芸術家が、三年前から独自のアトリエをかまえていた。この国の隅々にまで芸術を広め、また守護するべく、一年の半分近くをそこで過ごしているという。

 まさしく、芸術界のエリート。デイランドがほこる──芸術の守護者たちだ。

「お父様、五年前に見たエルシャム聖堂を覚えてる? あの修復を手がけたラングレーはくしやく様と、ステンドグラスをつくったロンウィザーこうしやく様が、〝マスターズ・オブ・アーツ〟のうちの二人よ」

 あれからジルは芸術熱にかされて、貸本屋へ行くたびに芸術雑誌を借りては読みあさってきた。少しばかりスケッチもたしなんだが、生み出すことよりも鑑賞したり学ぶことのほうが好きだと気づき、密かな夢を抱くようになっていた。

 ──いずれ教師になるのなら、美術教師になりたい。

 しかし、金銭面でその道はえたままだった。

 手の届かない思いを消すことができず、〝マスターズ・オブ・アーツ〟の新聞記事を見つけるたびに、スクラップしている。めいある記事のなかには、不名誉なゴシップ記事もまぎれていたため、助手が辞めていくというなぞも推理できた。

 ステンドグラスと絵画の第一人者、ライナス・オーウェン=ロンウィザー侯爵は、社交界一の遊び人として、ゴシップ記事の常連なのだ。そんな彼をうばい合う女性たちが、血みどろの争いをり広げているとかいないとか。父親にそう説明し、ジルは続けた。

「そんな人だもの。きっとあきれてあいをつかした助手が、次々に辞めていくんだわ」

 聖堂のステンドグラスはあんなに美しかったのに、才能とひとがらは別なのだろう。

(でも、そんなのはまつなことだわ。彼や彼らがどんな人柄であったとしても、私なら絶対に辞めたりしないのに)

 過去の助手たちをうらやましく思う。彼らの助手になれたなら、あのらしい芸術のそばにいて、美術教師の資格が得られるのだから。

「……彼らの助手も、芸術家の卵だったりするのかしら。お父様、知ってる?」

 なにげなくそうたずねると、父親は苦笑した。

「なり手がよほどいないのか、そうでもないらしい。条件はたしか……貴族の子息であること。それから頭の回転が早いこと、だったかな」

「頭の回転? ヘンな条件ね。たんてい真似まねごとでもさせるのかしら」

 ジルがじようだんめかすと、ベッドわきこしけた父親はにこやかに微笑ほほえむ。

「もしもお前が男だったら、素晴らしい助手になれただろう。謝礼金も必要ないそうだしな」

(──えっ! 謝礼金は必要ない?)

 おどろくジルをしりに、父親は「冗談はこれくらいにしよう」と腰を上げた。早くねむりなさいと付け加えつつ、ジルのかたに手を添えてからドアに向かっていく。

「……お父様、待って。彼らの助手になるための、謝礼金はいらないの?」

「そう聞いたぞ。謝礼金には、ていねいに教えることや生活の責任を負うことを、約束させる意味がある。それをほうしているということは、いっさいの責任を持たないと公言しているのと同等だ。おそらく、彼らから芸術に関することは、なにも教えてもらえないのだろう。彼らの助手は、自分で自分の責任を取り、自ら学ばなくてはならない。誰もたよれないということだ」

 ジルはなつとくした。とはいえ、彼らは著名人のなかの著名人。一年従事すれば、確実に美術教師の資格が得られる。しかも、お金はいっさいかからないのだ。そのうえ。

「助手の生活の責任を負わないということは……もしかして、お給金がもらえるのかしら」

「もちろんだ。彼らから、二週間ごとにな」

 ジルは目を見張った。

(助手として従事しながら、家族を支えることができるなんて、最高だわ!)

「その……助手になるためには、どうすればいいのかしら。試験はあるの?」

「ないようだ。毎週水曜日の午後、銀王宮で面接をしているらしい」

 れんあいがどうであろうとも、芸術や文化を重んじるこの国で、彼らはだれよりも尊敬されている。そんな彼らに従事できたら、夢を現実にできるのだ。ジルは胸を熱くした。

(お給金をいただきながら、美術教師の資格も得られるのよ!)

 こんな一石二鳥の機会は、二度とないだろう。ただし、問題がある。

 ──彼らの助手は、男性でなければならない!

 ジルはどうだにせずに考えた。そんなジルを、父親がいぶかしむ。

「ジル、どうした?」

「……お父様。教師になって働きたいって、私が前に話したことを覚えてる?」

「もちろんだ。だが……本当にすまなかったな、ジル。この町で一番賢かしこむすめのお前を、女学校へ通わせてやることができなかった」

 近づいてきた父親が、ジルの肩に両手をそっと置いた。

「ううん、それはいいの。だけどやっぱり私、働きたいわ。できることなら美術教師になって働いて、家族を支えたい。そのための資格がどうしても欲しいの。だから、お父様──」

 ジルは父親の目をまっすぐに見返した。

「──私を〝息子むすこ〟として、銀王宮に行かせてくれない?」

 その言葉の意味を察した父親は、笑みを消してどうもくした。

「なにを言う。バカげたことを言うな」

「わかってるわ。銀王宮に行ったって、彼らの助手になれると決まってるわけじゃない。だけどこれは私にとって、二度とない機会よ。それにけてみたいの」

 王都に親族はいない。銀王宮は馬車から見たことがあるだけだ。田舎いなかまちのごくささやかな領地をおさめる男爵家なのだ。その家の内情をせんさくするひまなど、国のちゆうすうの場にいる人々にあるとは思えない。

 裁判所の刻印が入った貴族証明書には、〝シルベスター男爵家の者と証明す〟という一文が記されているだけ。ジルという名前は男性でもめずらしくはないから、めいを使わずに済む。うまく立ちまわれば、不可能なことじゃない。父親にそう説明して、ジルは続けた。

「私のことは〝知人に預けた〟とでも言っておいて。それ以上誰も詮索しないでしょう。助手になれなければ、すぐに帰って来るって約束します。なれたとしても、一年経ったら教師の資格を得て必ずもどって来るわ」

 お前は女なのだぞと、父親は声をあららげた。正体をかくす危険は、家族にもおよぶからだ。ジルはうなずいた。

「もしもなにか知られたときには、私とえんをきって」

 父親のいきどおりが痛いほど伝わる。それでもジルはがんとしてゆずらなかった。

「ねえ、お父様。わかって。私は働きたいの。このままなにもせずになんていられないのよ」

 ジルのこんがんに、父親はくやしげに目をすがめた。

「ジル、お前の気持ちはうれしい。だが教師になるということは、この国ではしようがい独身でいると決意したれいじようを、意味するのだぞ?」

「たとえそうであったとしても、家族を支えられるのなら、私はかまわないわ」

 ジルはいままで誰からも、小さな花束すらおくられたことがない。ずっと独身かもしれないと、口にしそうになってやめた。まだかすかな希望を、いだいていたかったから。

「……お前は誰よりも賢くてそうめいだ。そんなお前に、この町の若いしんたちはじ気づいてしまうのだよ。けっしてお前に、りよくがないわけじゃない。むしろその逆だ。わかるね?」

「ありがとう。親の贔屓ひいきだとしても、最高のめ言葉だわ」

 じゆうの表情で、父親はたんそくした。

「とはいえ、お前の現実離ばなれした提案に、首を縦にるわけにはいかないな。どうしたんだ、ジル。りよ深いお前らしくないぞ」

「ええ、そうね。でも、教師の資格を得る方法がそれしかないのなら、ぼうにもなるわ。それに彼らの助手になれたら、そのときからお給金がもらえるんだもの。こんなに嬉しいことはないわ! お父様、これが最初で最後のわがままだと思って、どうか許して。家族を支えるために、お願いだから行かせて!」

 ジルの必死のうつたえに、父親は息をのんだ。一度もわがままを言うことのなかった娘を、びんに感じているのが手に取るように伝わる。

「……お前の気持ちはわかる。しかし正体を隠す心配よりも、よめり前の娘が四人の紳士としんしよくを共にすることのほうが気がかりだ。親として心配するのは、当然のことだろう」

 ジルは明るく笑った。

だいじようよ、お父様。私は男性として行くのよ。誰も私のことなんて、気にも留めないわ」

 ため息をついた父親は、ソフィや母親にはないしよのまま、しばらく時間をくれとつぶやいた。

「お前にこんなことを言わせるなんて、ほとほと自分が情けなくなるな」

「誰のせいでもないわ……って、おさまのせいね。でも苦労させられたけれど、お祖父様のこと好きだったわ。ごうかいで楽しくて」

 ジルの言葉に、父親は「私もだ」とささやき、やっと小さくんだ。

「ねえ、お父様。男性になりすますのって、悪いことばかりじゃないって思わない? いいことだって、ちゃんとあるわよ」

 なんだい? と父親は切なげに聞く。ジルは笑顔で言った。

「切ったかみを売ったら、ソフィのドレスのが買えるわ」



 連日の説得が功を奏したひとつきはん後、ジルは二度目となる王都キルハの地をんだ。

 きらめく春のしに目を細めながら、トランクを手にして王宮への道のりを急ぐ。

 いしだたみの通りに連なる街路樹はき、すがすがしい風に枝葉をらす。石造りの優美な建造物が立ち並ぶ通りを馬車が行きい、がさをさした女性たちがゆったりと歩き過ぎて行く。

 にぎやかではなやかな通りを、ジルは急いだ。そうしながら、窓に映る自分の姿を横目にし、ときおり立ち止まる。

 耳もうなじもすっきりとあらわになった、短い赤毛。髪型のせいかひとみの色がいっそうきわち、なかなかに魅力的な青年に化けている。男性にしてはがらで細身な中性的な姿体に、サイズを合わせた父親のお下がりがみように様になっていた。

 うっかり女性言葉が出ないよう、いちにんしようは〝僕〟と決めている。愛読している物語の紳士を真似まねながら、日夜ソフィを相手に練習してきた。そんな妹や母親のことを思うと、心は痛む。別れぎわまでなげいていたからだ。

 ジルは父親との約束を、頭のなかで何度もり返した。

 銀王宮ではなにがあろうとも、男性として生きること。

 もしも正体が知られそうになったときは、教師の資格をあきらめてすぐにめ、戻ること。

(これは墓場までもっていく秘密よ。絶対に隠し通すわ)

 そう強くちかいながら、絵画のような美しい街並みを歩き続けること一時間。

 近衛このえ兵の立つはくの門を前にしたとたん、しかしジルの決意は揺らぎそうになった。

 王都の南東に位置する、広大な庭園。そのずっと奥に、〝銀王宮〟とうたわれるキルハ王宮がそそり建つ。王族の住まう国の中枢、別世界だ。ジルはゴクリとつばをのんだ。

(前は馬車から見ただけだったけれど、やっぱりすごいわ。どうしよう……)

 小さな村がすっぽりとおさまってしまうほどのしきを目前にして、ジルはトランクを持つ手に力を込めた。

(ううん、ここで怖じ気づいてどうするの。私が自分で決めたことよ。この門をくぐらなくちゃ、なにもはじまらない)

 そうねんの近衛兵と目が合い、貴族証明書を見せてから訪問の理由を伝えた。うなずいた近衛兵は、ジルを門のなかへ招いた。

「ようこそ。我が銀王宮へ」


 四大天使をあがめる、デイランド王国。

 西は大国ロドナていこく、東は宗教を同じくするイルタニア王国。二つの国にはさまれたこの国は、文化と芸術の国として他国に知られていた。

 銀王宮をはじめそうれいな建築物がいたるところに点在し、それに負けじとしよみんの暮らす家々までもが、細やかなそうしよくいろどられた石造り。実際この王都は、目にするすべての景色が見事に調和し、天上界のごとき優美さをほこっていた。

 さらに、現国王であるアンドレアス二世がそくした十年ほど前から、大小の美術館が国中に増えた。その結果、国民のだれもが気軽に芸術に親しむようになり、貧しい家庭でも居間に絵画がかざられるほどにしんとうしていた。

 芸術の才能があれば、国王が引き立ててくれる国。美を推進し、おうするアンドレアス朝。

 そのいつたんになっているのが──銀王宮の〝マスターズ・オブ・アーツ〟だ。

 近衛兵のうしろを歩きながら、ジルは門をくぐった。

 白鳥がつばさを広げるかのごとく築かれた、銀王宮。国への忠誠をしめす純然たる白の王宮は、りゆうれいかつ誇り高く青空にえ、日射しを浴びて銀さながらにかがやいていた。

 近衛兵は慣れた足取りで、西せいよくへと歩みを進めていく。

 ちようこくがいたるところにほどこされた庭園。せんていされた樹木やふんすいの合間には、がみや天使の彫像が配されている。廷臣たちが静かにかつする姿を遠目にしながら、ジルは円柱に支えられたかいろうに足を踏み入れた。

(なにもかも、雪みたいに真っ白!)

 鏡のようにみがき上げられた大理石のゆかに、くつおとが小気味よくひびく。どこまでも続く回廊の奥に、開け放たれた両開きとびらが見えてきた。そこが、芸術棟とう──彼らの活動拠きよてんだという。

「あそこです。ラングレーはくしやくが面接します」

「わかりました。ありがとうございます」

けんとうを……いのっておいたほうがいいのでしょうな」

 えっ? とジルがたずねる間もなく、近衛兵は妙にふくみのある語調を残して去った。なんだろう、このいちまつの不安は。いやいやただの気のせいだと、ジルが思い直そうとした矢先、芸術棟から一人の青年が飛び出した。

 トランクを手にして、げるようにけて来る。びっくりして立ち止まったジルに近づくと、

「まさか君、助手の希望者か」

 ぜいぜいとかたで息をしながら、ずいっとめ寄ってきた。

「ええ、はい。そうですが……」

「やめろ。悪いことは言わない、このまま帰ったほうがいい! ラングレー伯爵はまともだし、マイペースなロンウィザーこうしやくは他人に興味がないからほうっておいてかまわないが、彼を訪ねてくるご令嬢たちがおそろしいったらないんだ。俺は何度も平手打ちされた。それにな、もしもこいびとや姉妹がいたら、彼にしようかいしちゃダメだ。うばわれるぞ! 現に俺は、幼なじみを奪われた。ずっと片思いしていたのに……ああ、クソッ!」

 あ然とするジルをしりに、彼はまくしたてた。

「けどな、そんなのはまだ序の口だ。ほかの二人は本気で手に負えない。バクスター子爵は根暗でどくぜつ。おまけに男のくせに、古ぼけた気色の悪いぬいぐるみをコレクションしてる。そいつをバカにしたり、手でもれてみろ、首をめられて殺される! だが誰よりも最悪なのは、ベイフォード公爵だ。へきえきするほどえらそうなうえに、身なりを整えていないやつあくあつかいされておとしめられる。俺の自尊心はもうボロボロだ。かわぐつのこのちっさな傷がなんだっていうんだ。こいつを見つけられて、俺は三時間も説教された。三時間だぞ!」

 言葉をきった彼は、うっと目になみだかべた。

「いいか、あそこの扉をくぐったしゆんかんから、味方はいない。誰もだ! 画家として引き立ててもらいたくてなんとか一週間勤めたが、もう俺はごめんだ。彼らの作品はらしいし、いろいろあっても尊敬はしてる。けど、助手になんてなるもんじゃない。絶対に、もう二度と、ごめんだ!」

 そうさけぶやいなや、あらしのように走り去った。

「ちょっと、あの! もっと冷静に教えてください、待って!」

「引き止めるな! 自由だ、俺は自由だ───!!」

 そのぜつきようが、庭園にむなしくこだまする。ジルはぼうぜんとした。

(……なにごとなの!?)

 とにかく、個性的な四人だということだけは伝わった。いや、少なくとも一人は常識人か。

 めいある立場だというのになり手がいないだなんて、なにかあるのだろうとかくはしていたのだが。

(ロンウィザー侯爵様のゴシップ記事は、やっぱり真実なんだわ。ほかの方々も気難しそう)

 さて、どうしよう……なんて考えているゆうは、ジルにはない。

(山ほど説得してわざわざここまで来たのに、面接もしないで帰るなんてできないわ)

 旅費だって工面してもらったのだ。とにかく、会ってみて自分の目でたしかめなければ。

 ふう、と深呼吸をしたジルは、歩き進んで両開き扉の奥に入った。

 純白の世界は一転、じゆうこうな気配が満ちる。けんある美術館といった風情ふぜいで、床はしつこくの大理石。けのロビーは広く、真正面には、草花のテキスタイルが華やかかつ上品なじゆうたんきの大階段。ルビー色のかべ一面に、さまざまながくぶちにおさまる絵画が飾られ、シャンデリアが下がる高いてんじようには、空をう天使がえがかれていた。個性の強いそれぞれが見事に調和している。

 ほのかにただよう、油絵の具のかおり。アンドレアス朝の美をけんいんする場にあつとうされながら、ジルは無数の絵画を見上げた。

 田舎いなかまちにも二件の美術館があり、無料の展覧会にはよく通った。しゆや手習いが高ずる人々の作品が展示されていて、ひたすら感心したものだ。

 けれど、いま。壁に飾られている大きな風景画、果物や花々の色どりのみずみずしさに、ジルは目の覚める思いがした。

(いままで私が見てきたものと、全然違ちがう……!)

 心の底からかんたんした直後、絨毯にしずむかすかな足音が大階段の奥から聞こえた。はっとしたジルは、顔をそちらに向けた。

 階上に、一人の男性が立った。年のころは三十代前半。しん然とした上品な身なりで、少し日焼けしたせいかんな顔立ちに、くりいろたんぱつがよく似合う。どことなく野性的な気配をにじませており、芸術家というよりも、けんうでけた近衛師団の団長のようなふんだ。

「一人か。上等だ」

 そう言うと、大階段を下りて来た。面接をしてくれるらしい彼が、〝たん守護者マスター〟との異名を持つ、カーティス・スタン=ラングレー伯爵だろう。

 そうは、この銀王宮の建築と装飾にたずさわったという、建築界のエリートだ。祖先がつちかってきた才覚と技術をあますところなく受けいだ彼の設計は、しかし複雑かつ難解。簡素になりがちな石造りを、自然界の草花が生み出す優美さで包み込むためのみつなそれは、これまでの常識をはるかにえるものらしい。

 美を生み出すための、〝異端〟な設計。それを実現させる職人たちは、高給を得る代わりにあせと涙を流しているという。

 職人泣かせの〝異端の守護者マスター〟。その彼が、ロビーに下り立つ。

「ジル・シルベスターと申します。今日は助手の面接に……」

 来ました、と言うよりも早く、つかつかとジルに近寄った伯爵は、さぐるように眼光を強めた。

「女か?」

 もうバレた!? ぎょっとしたジルが否定しようとした矢先、てのひらを広げた伯爵は、その指先をジルのまえがみにぐいっと差し入れた。

「わっ!」

(い、いきなりなにをするの!?)

 がくぜんとしてのけぞると、伯爵はジルの前髪をはさみ上げたまま、ニッと笑った。

「カツラじゃないな。ちょうど一人辞めたところだ。いいだろう、合格」

「えっ……え!?」

 合否の決定が早すぎる! 伯爵はジルのかみから手をはなした。

「ど、どういうわけですか? ご説明をお願いいたします!」

「お目当ての侯爵殿どのといちゃつくために、カツラで男装したごれいじようが来ることがあるのでね。きやしやなお前を目にした瞬間、またそのたぐいかとがっかりしたぞ!」

 そう言うとごうかいに笑った。バレたわけではないらしい。ジルもなんとかみを返したが、心臓はいまにも止まりそうだ。ドキドキするジルを視界に入れながら、伯爵は続けた。

「男になりすますためだけに、女性の命をあっさり切る令嬢が存在しているわけがない。そういうわけで、お前は男だと私は判断した。男であればだれでもかんげいだ。ちなみに出身は?」

「イ、イーゴウ地方です」

 展開の速さについていけず、めずらしく言葉がつっかえる。ジルは貴族証明書を見せた。

「ずいぶん遠くから来たんだな。キルハにはいつからいるんだ?」

 返されたそれを受け取りながら、ジルは今日着いたとなおに答えた。

「なに? 着いたばかりなのか」

「はい。ここで助手を探しているという話を、父から聞いて来ました」

 まるで建物の不備をのがすまいといわんばかりの、伯爵のするどまなしに身がすくんだ。あんなにソフィと練習をしたのに、頭のなかが真っ白になっていく。バレるかもしれないというきんちようで心臓はね上がり、うまく言葉が出てこないのだ。

(落ち着いて、だいじようよ。会話だけでバレたりしないから)

「ぼ……僕の父は男爵ですが、あまりゆうふくではありません。それで、こちらのみなさんに助手として従事したら、美術教師の資格を得られると考えています。けんめいに勤めますので、どうぞよろしくお願いいたします」

 ん? と言いたげに、伯爵はまゆをひそめた。

「……教師だと? まるで独身を決め込んだ令嬢みたいな希望だな」

 しまった、とジルは息をのむ。たしかにそうだ。あせりのせいで、額に汗が浮いてくる。

「そ……ういった資格があったほうが、いずれ父の爵位を継いだときも、なにかしらのかてになると思っております!」

 しんけんおもちでうつたえるジルを見て、はくしやくはまた笑った。

「そうにとるな、じようだんだ!」

 本当に? いぶかしむも、伯爵の表情はからりとしている。本当らしい。

「ハ……ハハ……冗談、なんですね。冗談、ですか、そうですか」

 気弱に笑ってみせると、ガシッと伯爵にかたをつかまれた。ひっ、とジルは身をかたくした。

「まあ、がんばれ。一年従事できたあかつきには、美術教師の資格を約束しよう。もっとも、それまでいられるかはなぞだがな。ともかく、よろしくたのむぞ。ジル少年!」

「は、はい。ありがとうございます……」

 返事をしたものの、勢いがありあまる彼の言動に、ついていける気がしない。

 常に気を引きめていなければ、小さなほころびからバレかねない。

(しっかりしないと。しょっぱなからこれじゃ、ぜん多難もいいところだわ)

 内心でしつしながら、ジルは伯爵についてロビーを歩き、大階段を上った。



 西せいよくの奥に位置する芸術棟とうは、ごうしやしきほどの広さがある地上三階建てだ。

 大階段を上りきると、四方をぐるりと囲んだ二階のろうにつながっており、吹き抜けの広間が見下ろせた。壁一面の窓からしがやわらかくそそぎ込み、グランドピアノをかがやかせている。観葉植物や花々が置かれ、やテーブルなどの調度品がぜつみように配されていた。

 上品さとゆうさをあわせもった、このうえない美の空間だ。

(……なんててきなの。まるで楽園みたい)

 目を見張るジルに、伯爵は説明した。

「お前は私たちの助手であって、従者でも使用人でもない。ここにいる間は、私たち全員を名で呼ぶこと」

「わかりました」

「ロビーを入って、大階段の奥に広間のとびら。一階右側のドアが食堂。その奥に紅茶がれられる程度のちゆうぼうがある。食堂の反対、左側のドアが応接間だ。その廊下の奥に洗面室と浴室がある。私たちは屋敷で湯を浴びるが、お前がそうしたければ王宮の使用人に前もって伝えるといい。よくそうに湯を用意してくれる」

「はい」

「二階は私たちそれぞれのアトリエやしよさい西側突きあたりのドアは、ライナスがステンドグラスをつくこうぼうだが、使われていないからかぎがかかっている。三階にしんしつがあり、お前の部屋も三階だ。さて、まずはライナスに会ってもらおう。こっちだ」

 いよいよ新聞をにぎわせていたこうしやく様と、ご対面できるらしい。

「本当にライナス様をお目当てにした女性が、男装をして面接に来ることがあるのですか?」

「ああ、あるってもんじゃない。ちなみにだが、お前には姉妹やこいびと、もしくはこんやく者はいないだろうな」

 すれ違ったあの青年も、しようかいするなと言っていたはず。

「いたとしても、ライナス様にご紹介はいたしません」

 伯爵はしようした。

「それがいい」

 助手が辞めていくのは仕事のこくさもさることながら、それも問題の一つなのだと伯爵は言った。助手の姉妹や恋人、婚約者たちは、ロンウィザー侯爵に会ったが最後、彼にごしゆうしんとなって仲がこじれ、けんもしくは破談となる。かくして傷心となった助手たちは、とうぼうさながらに去ってしまうのだそうだ。

(きっと興味のない女性にも、甘い言葉なんかを無自覚にささやいて、女性をほんろうしてしまう方にちがいないわ)

 さぞかし、ニヤニヤヘラヘラしていることだろう。そんな自分の予想が当たっていたらおもしろい。むしろ会うのが楽しみになってきた。

「ここがライナスのアトリエだ」

 開け放たれているドア口に、カーティスが立った。ジルも立ち止まり、カーティスのうしろからなかをうかがう。無数のカンバスやイーゼルがかべに立てかけられている広い室内の中央には、画材の散らばる大きなテーブルがある。

 その奥、真正面の壁を目にしたのと同時に全身があわち、ジルは立ちすくんだ。

 一面をくす森──。

(──じゃ、ない。カンバスにえがかれた絵だわ!)

 一歩でも歩けば、みきった風にあわい新緑がれる、光り輝くげんそう的な森のなかへ吸い込まれてしまいそうだ。カンバスのサイズがそんなさつかくをもたらすのだろうか。いや、大きさのせいじゃない。

 本物と見まがうほどの精密さに、どこかロマンチックな夢想が加わっている。それをいとも軽々と表現して見せる、あつとう的な筆力がそうさせるのだ。

(──すごい……!)

 きようがくのあまり、ジルは身動きがとれなくなった。と、その横でカーティスが言った。

「……いないようだ。さては、またてるな」

 室内に入ったカーティスは、奥のドアを開けた。ジルも彼のうしろに続く。まどぎわに置かれた長椅子に横たわり、かたうでで顔をおおってねむっている人物がいた。

「おい、ライナス。新しい助手だ、起きてくれ」

「……ああ……」

 貴族らしからぬラフなシャツ姿で、その人物はもぞりと動く。めんどうそうに腕を解き、寝返りをうってから起き上がる。ぐったりとした様子でかみをかき上げると、こちらを向いた。

 柔らかな日射しを浴びたその姿に、ジルは言葉を忘れた。

 ねんれいはカーティスの少し下、二十代後半だろうか。黒に近いアッシュグレーの髪は、神秘的でこうごうしい。まえがみからのぞく灰青色のひとみしくかつすずしげで、きりりとした眉には知的さがうかがえる。せいひつふんただよわす美青年が、そこにいた。

〝幻想の守護者マスター〟との異名を持つ、ライナス・オーウェン=ロンウィザー侯爵。

 教師たちの助言を無視する、キルハ王立芸術学院の問題児。自身の内面を絵画に込めるというてんこうな作品群に、教師たちはさじを投げていたらしい。しかし、卒業制作のステンドグラスと絵画を国王に見いだされ、いっきに芸術界へおどり出た。それらは現在、学院のロビーにかざられている。

 彼が得意とする絵画のモチーフは、静物と風景、そして神話世界だ。淡く柔らかな色合いを何層にも重ね、光とかげを表現するしゆわんは、ステンドグラスとともにゆいいつ無二とうたわれる。

 見た者をいやおうなしに引き込んでしまう、この世のものとは思えない幻想のステンドグラスと絵画。彼の作品をはじめて目にした国王は、〝これぞじゆつわざ〟ときようたんしたという。

 そんな名声の一方で、女性をめぐうわさばなしにこと欠かない難点もある。

 それは彼の容姿が──まさしく〝幻想〟でもあるからなのだと、ジルはどうもくした。

(この方は、人間じゃない。こんな方、見たことがないわ。あまりにも美しすぎる)

 息をのむジルに、彼はほのかな色気を漂わせるまなしを向けた。

「コーラル・レッドか。めずらしいね」

「……え?」

「君の髪の色。いい色だ」

 ジルのほおがカッと熱くなった。いままで一度だって、容姿をめられたことがなかったからだ。とたんにカーティスが、からかうように笑った。

「どうした、少年。顔を真っ赤にして、女みたいな反応だぞ?」

「わっ、わた……僕は褒められたことがないので、お、おどろいただけです!」

 ここへ来てからずっと、しどろもどろだ。うまく男性になりすませると思っていたし、自信だってあった。それなのに現実は、うまく立ちまわれないでいる。

(もう、なんだっていうの。自分らしさの欠片かけらもないじゃない。落ち着いて)

 思い直したジルは赤い顔にもかまわず堂々と、自己紹介をすることにした。

「ジル・シルベスターと申し──」

「いや、そういうのはいい」

 あくび交じりで立ち上がったライナスは、ジルをいちべつすると冷たくき捨てた。

「すぐにいなくなる助手の名前を、覚えるつもりはないんだ。面倒だから」

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