9-3

 風の抜ける音。

 湿った空気。壁には黒カビ。低い天井。蝋燭を照らし、視界を確保して先へ進む。

「本当に侵入できたな」

 エリオットが言った。「トマスは馬鹿でデブだが救われた」

 隠し通路を抜けると、見覚えのある場所だった。

「そもそもあのクソデブ野郎せいでこうなったんだぞ」とアンナ。

「今の感謝は訂正。やっぱりなしで」

 ローゼンベルク修道院の地下だ。

 二人は用意していた黒頭巾を被っている。ここの関係者に顔を見られて、元の時代に戻ったときに面倒を起こさないためだった。

「このことをルーベンは知っていたと思うか?」とエリオット。

「さぁな」

 とりあえず先へ進んだ。

「ん? なんだ」

 隠し通路から離れて風の抜ける音が消えると、代わりに規則正しい息遣いが聞こえてくる。エリオットは疑問に足を止める。アンナにも聞こえているようだ。

 肉と肉がぶつかるような音もした。

「そこの扉だ」とアンナ。

 耳を貼りつけて「奥から聞こえる」と言った。

「どうする?」

 エリオットが言った。

「元々、この扉の向こうに用がある」

 扉の四隅には鍵穴があった。トマスの言っていた魔導具の保管庫だ。

「誰かがいるなら鍵を探す手間も省けるからな」とアンナは続ける。

「わかった。入るんだな」

「行くぞ。剣を抜け」

「殺さないからな。脅すだけだぞ」とエリオット。

「一発くらい殴りたくないか?」

「二発いこう。俺とあんたで一発ずつ」

「よし」

 アンナが保管庫の扉を開いた。蝶番の軋む音。光が保管庫から漏れてくる。

 押し入った。

 中央に封印された棺と仰々しい意匠が施された保管箱が並ぶ。

 壁には杖、本、剣、外套が立てかけられていた。

 だがそれ以上に驚く光景が二人の視界に入る。

「おい、マジかよ」

 エリオットは剣を握っていた腕をだらりと下げた。

「貴様らいい身分だな」とアンナ。笑っていた。

 部屋には二人の男がいた。中央の封印された棺の前だった。

 一人は老人、もう一人は少年。

 どちらも裸で、少年は老人の前で四つん這いになっている。

「続けろよ、ルーベン。腰を振れ、クソジジイが」

 アンナが吐き捨てる。

「突然ですが、お前らの服は奪った」

 エリオットが床に脱ぎ捨てられた司祭服を踏みつける。「一生全裸で生きていきたくなけりゃ俺たちの指示に従ってもらう」

 老人はルーベンだった。少年は知らない。

 二人は驚き、動きと止め、口を開いていた。

「おい、ルーベンを見てろ」とアンナ。

 指示に従いエリオットはルーベンの首筋に剣先を向け「立て」と呟いた。

 醜い身体だ。首から鎖骨は皺だらけ。顎には親指ほどの腫れ物。色白だが、二の腕にはシミ。丸く出っ張った腹に、不釣合いなほど細い足。緊迫した状況なのに、股間は正直で勃起したままだ。

「お前らこんなことをしてどうする」とルーベンがやっと口を開いた。

「黙れよ」

 エリオットが言い返した。「ちんちん切るぞ」

 アンナは少年の目を隠し手足を縛った。

「用意できた。そっちは?」とアンナ。

「縛られた少年を見て興奮している」とエリオット。

「お前がか?」

「このジジイだ」

 アンナがルーベンの股間を見た。

「変態とは会話をしない主義だが今夜は違う。お前のような変態に私みたいな徳の高い人間と話す機会を与える。だから正直に答えろ。いいな? ルーベン」とアンナ。

「わかった――」

 股間が萎んでいく。

「どうしてここで少年を犯してる? 興奮したのか?」とエリオット。

「そんな質問はするな」

 アンナが言った。「おい、変態。惑星の書の下巻を寄越せ。どこにある」

「それが目的なのか」とルーベン。

「安心したろ。少年愛好家の殺害が目的じゃなくて」

 エリオットが剣先でルーベンの顎の下を叩いた。「口答えするなよ」

「言うとおりにすれば全部秘密にしてやる」

 アンナが言った。「破格の条件だと思わないか?」

「俺たちはここに来るまでに少女を甚振る親の殺害にも関わった。だがお前は見逃すと言ってる。運がいいな」とエリオット。

「それだけでいいのか?」

 ルーベンがためらいがちに言った。「そこだ。その壁に掛けてある」

 指差した場所に本があった。背表紙に鎖が繋がれている。

 アンナは鎖を引きちぎり、惑星の書下巻を手に取った。

「これがこの時代の惑星の書か」とエリオット。

 アンナの鞄に入っているもう一冊と合わせて二冊揃った。

「お前、惑星の書は使えるか?」とアンナ。

「使ったことはないが、使えると思う」

「わかってないみたいだな」

 アンナが言う。「そういうのは答えと言わない。股間の男性器がなくなって女になる前に答えたほうがいい」

「ちょっと下品だぞ」とエリオットはアンナに言った。

「ルーベン、私は下品か?」

 アンナが聞いた。

 何も答えない。

「そうでもないみたいだ」

「先をどうぞ。上品なアンナさん」

「それじゃ質問をもう一度。惑星の書は使えるか?」

「使える」

「使え。すぐにだ。行き先はイアド紀十四節一三六六年の霜露ノ月十九日だ。間違えるなよ」

「もし俺たちを別の時代に送り込んだら、すぐわかる。悪いことは考えるな」

「どうやってだ」とルーベン。「なぜ私が正しい時代に送り込んだかどうかお前らがわかる」

「悪巧みする気なのか?」

 エリオットが言った。

「ルーベン、お前はこれからイアド紀十四節一三六六年の霜露ノ月十九日に私たちを送る。そして惑星の書の性質上、私たちが送られる場所はこの保管庫だ。いいか? お前はその日、この保管庫にサウスタークのジュペールにいるニーナという女を連れてくるんだ。拉致してもいい。ただ拉致するときは殴ったり傷つけたりするな。優しく拉致しろ。デイジーとアントーニオの件で会わせたい者がいると言えば、きっとニーナはついてくる。名前はニーナ・アマドールだ。金髪で青い瞳、風の魔導を使える女だぞ。間違えるな」

 アンナが言った。

「長生きしろよ。一三六六年まで生きるんだ」とエリオット。「それでまでに死ぬことになったらしっかりと遺言でニーナ・アマドールを招待しろと指示しとけ」

「なぜその女を指定した日にここに連れてくることでお前らは私が正しい時代に送りこんだことがわかるんだ」

 ルーベンはしつこい。

「挑戦的だな、変態クソジジイ」

 アンナが言った。「したいなら誤魔化せばいい。お前の企みは崩れて、ここで素っ裸のまま死ぬことになる」

「やるのか?」

 エリオットが聞いた。

「わかった」

「よし、始めろ」

 アンナがルーベンにこの時代の惑星の書下巻を渡す。

「あ、待て。指定日を一日遅らせてくれ。一三六六年の霜露ノ月二十日だ」とエリオット。

「なぜ?」とアンナ。「理由は?」

「俺の我儘だ。聞いてくれ」

「わかった。おい、変態爺さん。私たちが行く時代は一三六六年の霜露ノ月二十日に変更だ」

「わかった」

 不機嫌そうにルーベンは答えた。

「とりかかれ」

 アンナの合図で、ルーベンは膝をついて座り込み、惑星の書下巻を開いた。

 指で文面をなぞり、呪文を呟いている。施術が開始された。

「儀式が始まる」

 エリオットがアンナに小声で言った。

「古代ラグリア語だな」

「わかるのか?」とエリオット。

「多少な」

「俺も大学で習ったがもう忘れた」

「そういう無意味な報告はいらない」

「雑談だろ? 楽しめよ」

「楽しくないのは雑談といわない」

 惑星の書が発光しはじめる。

 ルーベンの呪文が熱を帯びてきた。

 光が保管庫全体を包む。障壁が、ルーベン、少年、エリオットとアンナの四人を囲んだ。昼間のような明るさが保管庫を照らした。

「いよいよだ」とエリオット。「わくわくするな」

「子供か」

 アンナが脇で小突いた。

 宙に鏡のような輪が現れた。

 次第に大きくなっていく。

 開かれた穴。

 その向こうには同じ保管庫の風景が広がっていた。

「エリオット」

 ニーナが輪の中にいる。「エリオットなの?」

「あぁ、ニーナ」

 エリオットが黒頭巾を取って答えた。「俺だよ」

「ニーナ、今そっちはいつだ?」とアンナも頭巾を脱ぎ捨てる。

「え? なに?」

 ニーナが聞き返した。

「いつだ。ニーナ」とアンナがもう一度。「さっさと答えろ」

「こっちは霜露ノ月二十日」

 ニーナが言った。

「よし、戻るぞ」

 アンナが言う。「いいな? エリオット」

「もちろんだ」とエリオット。

「これで終わりだな」

「まぁそうだけどさ、俺たちが必死に追いかけてた惑星の書が元々使用済みだったなんて酷だよな」

「公に出来ない秘密の出来事だからな」

「そりゃそうだ」

 裸になり施術を試みているルーベンと縛られている少年を見た。

「行くぞ」とアンナ。

「あぁ」

 エリオットとアンナが輪に飛び込んだ。潜り抜け元いた時代の保管庫へ戻る。

 すぐに輪は萎んで消えた。

 そこにはニーナが立っていた。

「エリオット!」

 ニーナがエリオットに抱きついてくる。「本当に戻ってきたのね」

「あぁ、戻ってきた。あとニーナ、誕生日おめでとう」

 エリオットがニーナを抱えて呟いた。「今日だったよな」

「だから、一日ずらしたのか」

 アンナが言った。

「嬉しい――」とニーナ。

「だろ?」

「けど――、駄目ね」

「どうして?」

「私の誕生日は一ヶ月前の二十日だから」

「うそ――」

 エリオットは硬直する。

「もう一度、過去に戻ってやり直し」

 ニーナがエリオットの腕の中で言った。

「どこの女と間違えた?」

 アンナがエリオットの肩を叩く。「それくらいにしとけ。行くぞ、最後の仕事だ」

「慣れないことはするもんじゃないな」

 エリオットは呟いた。「けど気持ちは本物だから」

「そういう問題じゃない」

 ニーナがエリオットから離れた。「あとで話し合いましょ」

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