その五 物の怪退治

 うぅぅ、ちかいぃぃ……。

 燈を落とした西の対の屋にいるのは、紀乃と大夫の君の二人きりだ。

 藤の宮は昨晩のようなことがないよう、絵式部のつぼねに密かに移した。初めは不審そうに眉をしかめていた絵式部も、早朝に簀の子縁を調べる紀乃を目にしているのと、藤の宮自身の証言もあり、あっさり了承。今ごろは、二人で寝ていることだろう。

 後は物の怪が出てくるのを待つばかりなのだけど……。

 外のようすを覗けるしとみの隙間はいくつかあるが、前庭をすべて見渡すことができる隙間は、ここ一箇所だけ。

 紀乃が身体を丸めるように覗き込むと、その上から覆いかぶさるように大夫の君が隙間に張り付く。体重を掛けないように気を使ってくれているのだろうが、壁に伸ばした片腕が肩口に触れ、頭には大夫の君の吐息だ。長いこと待たされて、手持ち無沙汰なのだろう。時より髪をもてあそぶ、指の感触。

 これではまるで、後ろから抱きしめられているみたいで……。



 対の屋は蔀の隙間から零れる月明かりに、やっと顔が見えるくらいの薄闇。すぐ後ろの御簾のなかには、宮のために用意されたしとね

 頬を染めて身動みじろぎすれば、大夫の君の狩衣かりぎぬに焚きこめられた麝香じゃこうの甘い香りが漂う。

 こんなんで、意識するなって言うほうが無理だ……。

「―――なぁ……」

 大夫の君の小声に、紀乃はビクッと身をすくませた。

「な、なにっ―――!」

「ほんとに来るのか?」

 紀乃は裏返った声を落ち着かせるように、ふぅーと息を吐く。

「エサはいといたわ。それに―――」

 紀乃は言葉を切って、眉をしかめる。

「時間がないのは向こうも同じだもの……」

 このまま手をこまねいていたら、添い寝役は宮に決まり。それでは困るから、宮を怖がらせて、この三条邸から追い出そうとしているのだ。そうすれば、大皇の宮の計画の一角が崩れる。しかし、その制限時間もあと僅かとなれば、こんな絶好の機会を見逃すはずがない。

 それよりも考慮しておかなければならないのは、捕まえた後のことだ。どうやって交渉するかだ。

「―――なぁ……」

「こんどはなにっ?」

 思考を邪魔され、紀乃は不機嫌そうに唸る。

「おまえの髪、いい匂いがするな」

「――――――っ!」

 声にならない声で振り向きそうになった身体を後ろから抑えられ、耳元に唇を寄せられた。息を呑み、身を堅くすれば、大夫の君の緊張した声だ。

「―――来たぞっ!」

 別の意味でドキドキと高鳴る胸に手をあて、隙間から覗き見ると、対の屋へと渡る打ち橋に女の人影だ。

 無意識に大夫の君の袖口を握り、じっと目を凝らす。

 細身の身体に、長く引くうちぎは思った通りだ。御丁寧に髪をまえに垂らし、顔を隠している。初めの手筈通り、二人は息を殺して近づくの待つ。妻戸まで来たところで飛び出し、物の怪を確保したら―――はいっ、お終い! 簡単なものだ。

 物の怪は時より足を止め、対の屋をうかがうようにゆっくり歩を進める。

 まだかまだかと紀乃はうずうずした気持ちを抑えながら隙間を見詰め、もうちょっとで行動開始と思ったとき、目のまえが暗くかげった。

 何かと思って目を凝らせば、目前に向こうから覗く目だ!

 あまりのことに驚いて隙間から飛び退くと、頭に強い衝撃を受けた。足元には、顎を押さえて呻く、大夫の君が転がっている。どうやら、偶然、同じ隙間を向こうから覗き込んだらしい。

 その場でへたり込みそうなほど、頭はじんじん痛むが、このままにはしておけない。這うようにして妻戸に辿りつき、開け放すと、その横をヨタついた足取りで大夫の君が飛び出して行く。



 あちらも驚いて、その場にへたり込んでいたのだろう。大夫の君の出現に、慌てたようすの足音だ。

 紀乃は妻戸を手掛かりに立ち上がり、大夫の君の背を追うが、走るほどにしっかりとする大夫の君の足取りについていけない。しかし、大夫の君と物の怪の女との差はかなり開いている。

 このままでは逃げられると思った刹那せつな、大夫の君が前庭に飛び降りた。そのまま白砂を斜めに駆け抜け、物の怪の女のまえの高欄に手を掛けてヒラリッと飛び越え、女の目前に。

 紀乃はホッと息を吐く。

 あのまま逃げられていたら、面倒なことになるとこだった。

 まだじんじんと痛む頭に手をやりながら歩み寄れば、寝殿の影にちらりと桃色の袿の裾がのぞく。きっと助けに出るに出られず、迷っているのだろう。紀乃は袿の裾はそのままに、大夫の君の腕のなかでまだ暴れている物の怪の女のまえに立った。

「いいかげんにしなっ、鈴鹿!」

 いきなり名を呼ばれ、驚きに固まった物の怪の女の髪を掻き揚げてみれば、目をまるくした鈴鹿の顔だ。

「な、なんで……」

「宮が教えてくれたわ。御傍勤めの人間は足音を殺して歩くって。そう教育されてないのは、あんたと小夜の二人だけよ」

 紀乃は鈴鹿の茫然とする顔に、指を突きつけた。「物の怪の正体があんただってことは、初めからわかってたの。ただわたしには、あんたの言い訳に付き合う時間はない。だから、現場を押さえたのよ」

「でも―――」

 紀乃はその場でドンッと足を踏み鳴らし、言葉を遮った。

「―――だから言ったでしょ!わたしには、あんたの御託ごたくを聞いてるヒマなんてないの」そして、顔をぐいーっと近づける。「難波参議なにわのさんぎとは、どうやって連絡を取り合っているの?

―――答えなさいっ!」

「どうして、それを……」

 茫然としてつぶやき、鈴鹿はハッとして口を閉じ、目をきょどきょどと動かした。



 小夜が助けに入ってくれるのを期待しているのだろうが、そうはさせるもんか。

「小夜なら、来ないわよ」

 紀乃は寝殿の端にも聞こえるように、通る声で言い切った。

「宮とわたしが外出したあと、対の屋であの娘が昼寝しているのを常磐ときわさんが見ている。

 常磐さんは御簾みすのなかも静かだったから、あんたも昼寝していたのだろうなんて言ってたけど、ほんとうはカラッポだったのでしょ。

 あんたは難波参議のもとに、わたしたちの外出を知らせに走ってたからね。

 小夜は、あんたと相部屋で仲がいい。いかにも怪しいけど、証拠がないもの。白を切られたら、それまで。

 こうして捕まっている、あんたと違ってどうこうできないわ」

 ちらりと寝殿の端に目をやれば、桃色の袿の裾がこそこそと隠れる。きっと胸を撫で下ろしていることだろう。

 紀乃はニヤリと笑い、唇の端を上げた。

「あんたが難波参議のことを素直に答えたなら、里心が出て急に帰りたくなったことにしてあげてもいいわ」

 紀乃は一度言葉を切り、わからせるようにゆっくりと続ける。

「それとも、今すぐに絵式部を呼んで来ましょうか?」

 鈴鹿は口惜しそうに目を細め、唇を噛んだ。

 もし絵式部をこの場に呼ぶような事態になれば、厳格な絵式部のことだ。即刻、クビを言い渡されることになるだろう。上京して一月も経たずにクビだなんて、実家に帰っても居場所がないに違いない。

 鈴鹿は目の端に浮いた涙を隠すように顔を背けた。しかし、何をできるでもない。やがて、ポツリ、ポツリと話し出した。



 その話によると、出会ったのは上京して間もないころ。

 ヒマを持て余して頻繁に都見物に繰り出していたとき、清水寺きよみずでらに参詣する途中だったそうだ。

 清水寺は五条大路を東に車を走らせ、鴨川かもがわを渡って真っ直ぐに清水坂を登った、東山ひがしやまの中腹にある。都のすぐ隣と立地もよく、道も広くて鴨川には五条橋が架かっているから車を降りることもなく行ける、絶好の観光地だ。

 二人はちょっとした小旅行に、遠足気分で浮かれていたらしい。途中、六波羅ろくはらの地蔵堂と珍皇寺門前ちんこうじもんぜん六道りくどうつじを見物したころには、もともと雲行きが怪しかった空から雨粒が落ちだした。

 春先の冷たい雨のぬかるみに車が嵌まり込んだのは、清水坂に差し掛かる手前だったそうだ。

 そのときにたまたま通りかかり、手を貸してくれたのが難波参議ということだが、はなはだ怪しい。たぶん、最初から後を追けられていたのだろう。

 しかしながら、難波参議は人の良さそうな笑顔を浮かべ、車を引き出す手伝いをするよう配下の者たちに指示したうえに、二人のために清水寺の一坊をまるまる借り上げ、冷えた身体を温め、着付けを直す手配までしてくれたそうだ。

 至れり尽くせりの優しさに、人の良い笑顔で身分の違いも感じさせずに話しかけられ、二人はすっかり信用してしまい、三条邸での生活を愚痴ったらしい。難波参議は大層同情してくれ、優しげな言葉を掛けたうえに、新しい職場まで紹介してくれると言ってくれたそうだ。

 それが、二人の憧れの宮中だった。ある女御が公達きんだちたちの注目を集めるため、見目のよい、若い女房を募集しているという。二人だったら絶対だと、太鼓判を押してくれたらしい。

 しかし、今の職場をすぐに辞めたとなると体裁が悪い。だから、今しばらくは我慢し、体裁が整うのを待つように言われたそうだ。

 そのあいだ、難波参議の言葉を借りれば――

「見聞きしたことをちょいちょいと知らせ、ちゃっちゃっちゃと御用を済ましてくたらいい。無理に話を聞きだしたり、悪事を働くわけでもなし、ちょっとイタズラするだけや。それだけで、いいんや」と

 紀乃からしてみれば、笑顔で人を騙したり、盗みを働くやからを、御内侍ごないしさまが亡くなったときに身をもって体験し、見てきた。しかし、田舎から出てきたばかりの世間知らずの二人は、難波参議にとっていいカモだったにちがいない。カモにされたほうも悪いのだろうが、こんな孫みたいな小娘を騙すなんて卑劣だ!



「だけどっ!わたしよりも―――」

 涙目のまま早口で言いかけた鈴鹿を、紀乃は睨みつけて黙らせる。

 真面目に勤めてさえいれば、憧れだった宮中がすぐそこにあったなんて知ったら、どんなに傷つくだろうか。それを思うと、ずっしりと気が重い……。

 聞かねばならないことはもう聞いたし、余計なことを口走るまえに、早々に切り上げたほうがよさそうだ。

「―――小夜っ! まだ、そこにいるのでしょ」

 おどおどしたようすで寝殿の影から出てきた小夜に、紀乃は高圧的に言付ける。

「この娘を局に連れて行って、謹慎させな」

 そして、小夜の顔の前に指を突き立てた。

「あんたはその見張りよ!いいわね、局から一歩も出るんじゃないわよ」

 こうしておけば、小夜も謹慎しているようなものだ。

 小夜は目に反抗的な光を見せたが、すぐに顔をうつむかせ、鈴鹿の腕に手を掛けた。鈴鹿が乱暴に、その手を振りほどく。涙を光らせて紀乃を睨んでいた目をぷいっと逸らし、足音も荒く背を向けた。足早に遠ざかる鈴鹿を、小夜が小走りに追う。

 紀乃は二人を見送って、重いため息を吐いた。



「あれで、いいのか?」

 いつの間にか並ぶように立った大夫の君が、いつもの軽い調子で問う。

「―――いいのよ……」憮然ぶぜんとして答える。「わたしが悪役でいいの。どうせ実家に帰るのだから。知らないほうがいいことってあるもの」 

「そんなものか……」

 意味有り気に見下ろす大夫の君の顔を、紀乃は下から睨み上げる。

「―――何よ! 言いたいことがあるなら、言いなさいよ」

 目下の者なら気も使うが、大夫の君ならちょっと八つ当たりだ。

「ちょっとな、おまえってどこまで知っているのかなって思っただけだ」

 大夫の君が鼻白んだように視線を逸らし、小鼻を掻いた。

「たとえば、あの二人って初めの火の玉騒ぎのときは、おまえと一緒に居たんだろ?」

「あぁ、あれね……」脱力し、肩を落とした。「あれは見たまんま常磐さんよ。たぶん朱鷺姫ときひめと一緒になって、宮を怖がらせようとしたのでしょ」

「そう言えば、二人でごちゃごちゃやってたな……」

 思い当たることがあるらしく、大夫の君が眉間にしわを寄せて頭を掻く。

「常磐は朱鷺の姉みたいなもんだからな。

 伯母宮さまのお気に入りの宮姫とおまえが来るんで、教育係りの常磐が罷免されるんじゃないかと心配してたっけ―――許してやれよ」

 何だかんだと妹には甘い奴だ。

 紀乃が鼻をならしてじっと睨む。

 大夫の君は視線を逸らし、誤魔化すように話題を変えた。

「それじゃ、あの二人の裏に難波参議がいるって、どうしてわかったんだ?」

 今は問い詰めている時間も惜しい。紀乃は車宿りに向けて足を進め、後から追いてくる大夫の君に顔を向けた。

「市で宮を襲った、あの野伏のぶせりみたいな二人が難波参議の罠だったとしたら、簡単なことよ」

 頭中将はわからないと話していたが、内部の事情を知っていれば答えは一つ。

 たぶん難波参議は宮を誘拐しようなんて、大それたことなんか考えていない。ちょっとだけ宮の姿を人前から消させて、左馬守さまのかみと一緒にあらわれるだけの時間があればよかったのだ。

 宮と左馬守の間に何かあると、世間がかってに誤解してくれたら儲けもの。他の殿方と噂になったような姫が、東宮の添い寝役になれるはずがないのだから。

「きっと難波参議は焦ったはずよ。後腐れないよう、あの辺のお金で雇った男たちに襲わせたはいいけど、貧乏宮と聞いていたのが東宮だったのだから。慌てて止めに入らせたはいいけど、いきなり変更を迫られた計画は穴だらけのズタボロ。だから、わたしでも簡単に逃げられたのよ」

 紀乃は車宿りの入口で足を止めて、大夫の君を待つ。

「宮が市に出掛けたのを知っていたのは、常磐さんと二人組みの三人だけ。―――だけど、常磐さんなら貧乏宮がほんとうは東宮だと知っていたもの」

「常磐なら、そんな大事なことを伝え忘れるはずがないか……」

 大夫の君が紀乃を追い越し、車宿くるまやどりに足を踏み入れる。すでに出掛けることは伝えていたので、牛車の準備は整っていた。二人が乗り込むと、牛車は一度車輪をきしませ、滑るように動き出した。

 目指すは、難波参議の邸だ。

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