その三 思わぬ協力者

 つぼねに一人残り、紀乃は物思いに耽る。

 頭中将から与えてもらった情報の取捨選択に、自分の知っていることを加え、計画の概要を組み立てる。

 未知数なことも多く、細部までとはいかないが、大まかな計画はできあがった。後はその場の状況で臨機応変、行き当たりバッタリだ。

 紀乃は文机に向うと、紙片にさらさらと和歌を一首詠んだ。そして、ふと考え込み、兄が下野しもつけにおりますと一行、和歌の後ろに書き加える。

 これで信憑性も増すことだろう。

 ニヤリと笑って紙片を懐に托し込み、足早に局を後にして対の屋にいそぐ。



 あの宮が相手では流石の二人組みも静かだろうと思いきや、しとみの隙間からは賑やかな二人の話し声に、ボソボソと応える藤の宮の声。

 紀乃が妻戸から顔を覗かせると、その声がピタリと止んだ。

 二人組みは真面目にやっていましたとばかりに、取り澄ました顔をまえに向けて姿勢を正している。藤の宮はそこまで図太くはなれない。視線を逸らし、黙り込むだけ。

 何だか陰口を叩かれている真最中、間の悪いときに顔を出してしまったみたいだ。だけど、宮が人の陰口の輪に加わっているとも思えない。これは問い質して確かめたほうがいいのだろうが、頭中将の言うとおり、時間は金と同じだ。

 些細ささいなことは後回し。紀乃は素知らぬ顔で、二人組みに歩み寄る。

「きょうはもう下がってもいいわよ」

 優しく語り掛ける紀乃に、二人組みは首をかしげて見せた。それもそのはず、まだ夕刻には間がある。しかし、紀乃は二人に笑顔だ。

「宮も疲れているみたいだし、今日は早く寝かせるわ」

 そして、欠伸あくびを噛み殺して見せた。

「わたしも今日は局に下がって、早く寝るとする」

 理由がわかってしまえば、二人も思わぬ休みにニンマリだ。意味ありげな笑みで藤の宮に一礼すると、いそいそと対の屋を後にする。

 紀乃は目を細めてその後姿をじっと見詰め、二人の姿が消えるまで見送った。

 そして、御簾のなかに潜り込む。

 


 藤の宮はバツが悪そうにうつむきがちに視線を逸らす。

「―――宮」と呼びかけると一瞬、身をビクッとさせ、いっそう身を縮こませた。

 何か、隠し事をしているな。直感でわかるのだが、それでなくても、今日は色々ありすぎだ。宮も混乱して疲れていることだろうし、今から問い詰めて問題を増やさずともよい。

 紀乃は口元に優しげな笑みを浮かべた。

「あんた、承香殿さまに文を書くのでしょ。大皇の宮さまの御意をお伝えするって、いつか話してたじゃない」

 藤の宮が振り向くように顔を上げ、小首をかしげる。紀乃の承香殿嫌いは、藤の宮も知るところだ。

「嫌なことは、さっさとやるに限るのよ」

 紀乃は硯箱を持ち出すと、何気なさを装って墨をる。

「ただこんな時だから、わたしが代筆して御傍勤めに届けるわよ。――いいわね?」

「う、うん……」

 藤の宮はそれでも訝しげにしていたが、姿勢を正して紀乃のほうを向いた。そして、不安そうに口篭くちごもる。

「でも……」

「―――大丈夫よ。あんたの文に、誰も文学性なんて求めてないから。書きたい事を言ってごらん。わたしが適当に直して書き留めるから」

 藤の宮は疑いもせずにコクリと頷き、顎に指を一本添えると心持ち小首を傾け、宙に目をやって、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。

「う~ん……え~と―――」

 ごちゃごちゃと余計な言葉も多いが、要約するとこんなところだ。

 

 まだ御会いすることも適わずに、このような文をお届けする無礼を御許しください。

さき程、東宮の元服の御支度について御使者をお立てになったさいは、その願いも叶わず、さぞや御気持ちを落とされたことと思います。わたくしもすぐ傍に居りながら、何の御役にたてず、心苦しいばかりにございます。しかしながら、伯母上さまは無下にお断りになられたのではなく、その胸中は東宮の将来を第一に考えてのこと。わたくしには及びもつかない、熟慮のうえでの御判断でした。

 そのことを承香殿さまにもお知らせしたく、面識もないままに御無礼と思われましたが、文を参らせましたしだいにございます。

 伯母上さまのお話によりますると、御位への階段は飛ばすことなく、先延ばしにすることなく、一歩ずつ地道に上がるようにとのことです。そして、東宮さまに措かれましては、分け隔てすることなく、有能な公達を身近に置かれますようにとの御言葉でした。

 このように、伯母上さまの御心はその厳しい御言葉とは裏腹に、東宮さまと共にあります。このことが承香殿さまの御心に、どうぞお伝わりますようにと筆を取ったしだいでございます。

 いつの日にか、ご対面かないましたおりには、この日のことを笑顔でお話できることと思うてります。今しばらくは、お忙しい日々が続くと思われまするが、御身体をどうぞ御厭おいたわれますように。承香殿さまに幸多きことを心より御祈りしております。


「こんなものかしら……」

 紀乃はさらさらと筆を進め、書き留める。

 宮らしい相手のことを気遣った優しい文だが、あの承香殿なら、きっとチラ見しただけで丸めてポイッだ。だからこそ、気兼ねすることもない。

 承香殿の中宮をめる!

 紀乃は新たな決意で、自分の書いた文を読み返す。


 まだ対面したこともございませんが、それが伯母上さまの御内意とありますれば、わたくしから文を差し上げましょう。

 先程、東宮の元服の御支度につきまして御使者をお立てになりましたようですが、わたくしからしてみれば、伯母上さまを煩わせる所業としか言いようがございません。

 まったくもってその御意を理解しておられないのでしょう。

 伯母上さまの御命令は熟慮を重ねてのうえでの御判断。それも、おわかりになられてはいないのでしょうか。

 伯母上さまがわたくしにお話になられた御言葉では、御位への階段は既成事実の積み重ね。だれもが覆すことのできぬ、今の有りようをつくることにあるそうです。そして東宮においては、わけ隔てなく多くのもの身近に集めることで、次代の御位に立つ者が、誰であるのかを周知の事実として知ら締めることにあるそうです。

 このように伯母上さまはその厳しさとは裏腹に、その御心は東宮とともにあるのです。それもおわかりになられていないとは、心苦しいばかりにございます。

 近々、わたくしが宮中に入りましたおりには、伯母上さまの目となり、耳となり、伯母上さまの御内意を逐次、御教えできるものと思うております。

 その日が早々に訪れますことを、今は思うてなりません。ご対面したおりには、ごゆるりと御話いたしましょう。


 紀乃は満足そうに目を細め、その後ろに数行書き足す。

 この文は大皇の宮さまも御存知であり、承香殿さまの御機嫌を損ねることを気にして揉み潰したりすれば、その御癇気ごかんきに触れるであろうことを。

 これで、この文を承宮殿は必ず目にすることになる。そのとき、承香殿は……。

 きれいに文を畳みながら、

「―――書けたけれど、改める?」

 藤の宮はぼんやり物思いに耽っていた顔をゆっくりこちらに向け、小さく小首を振り、また物思いに戻った。

 文や和歌のことになると、すべて紀乃に任せきりなのはいつものことだ。

 いつもなら署名ぐらいは自分でやりなさいと小言を言うのだが、今回に限ってはそれもない。はなから見せる気などないのだ。

 宮はこの文の一言一句たりとも知らなくていい。

 紀乃は綺麗に畳んだ文に、隠すようにふところに忍ばせていた和歌の紙片を重ねて礼紙らいしに包む。宛名をさらさらと書き記せば、できあがりだ。

 紀乃は無言で文を見詰めた。

 この文はことが露見した折には、確たる裏切りの証拠品となる。承香殿は自らを守るためなら、躊躇わずにこの文を差し出すことだろう。大皇の宮に言い抜けなど通用するはずもない。そのときは、一人で勝手にやったこと。宮は何一つとして知らないで押し通す。

「ちょっと文を渡してくるわ」

 紀乃は静かに座を立った。



 流石に相手先が宮中ともなれば、ちょいと小僧を使いに走らせるとはいかない。邸の家令かれいに渡して、届けてもらわなければ。

 対の屋を出て、重い足取りで簀の子縁をとぼとぼと歩く。

 御咎おとがめは、大皇の宮の胸先三寸。しかし、このままで済むはずがない。いつかはお別れだとは思っていたが、こんな形で迎えようとは……。

 寝殿まえの長い渡殿わたどのを歩いていると、前から来るのは大夫の君だ。

 こんな時間に邸にいるとは、きょうもサボったのだろう。

 どうしようもない奴だ!

 しかし、内心はどう思っていようが、相手は家人だ。紀乃は端により、その場で膝を着いて道を譲った。

 遠慮会釈ない足音が近づいてくる。

 紀乃が顔を伏せて通り過ぎるのを待っていると、前を通り過ぎる瞬間、さっと手にしていた文を取り上げられた。

 驚いて顔を上げれば、大夫の君が足を止めて文を片手に唇の端を上げている。

「―――御返しください」

 思わず立ち上がって手を伸ばすと、大夫の君は文を頭の上に差し上げた。

 右に手を伸ばせば左に、左に伸ばせば右にニヤニヤ笑いで手を動かす。

「さすがは伯母宮さま御気に入りの宮姫さまだ。昨日の琴もだが、文の手まで御上品だな」

 紀乃は込み上げる怒りに、足を踏み鳴らした。

「よく見なさい!その字はわたしのものよ。昨日の琴だって、弾いていたのはわたし」

 こんな事くらいで―――八つ当たりなのは、わかっている。しかし、口をついて出てしまった言葉は止められない。

「あんたたち兄妹は、何かと言っては宮を目のかたきにしてっ!顔も写るくらい薄い水粥も食べたことない、甘ちゃんのクセに!」

 紀乃は目の端に涙を浮かべ、大夫の君を睨みつける。

「宮はね、文句の一つも言わず、ありがとうって笑ったわよ。あのは、自分のためにしてくれたことなら、素直にお礼が言える娘なの。可愛いと思われるのが……気に入られるのが当り前でしょ!」

 大夫の君は鼻白んだ顔で眉を寄せていたが、その顔をぐいっと近づかせて紀乃の顔を覗き込んだ。

「おまえ、やっと元気が出たと思ったら、何で泣いてるんだ?」

「泣いてないっ!」

 紀乃はその顔に叫んで、手の甲で目をこする。そして、さっと手を伸ばして文を掴んだ。

「いいから、返しなさいっ」

 強引に文を引っ張ると、音を立てて礼紙が破れた。その隙間からひらひら舞い落ちるのは、紀乃が忍ばせた和歌の紙片だ。

 大夫の君が空中で紙片を掴むと、何気なく目を走らせ、首をひねって目を細める。

 あっと思って手を伸ばすと、紙片を放り出し、大夫の君はクルリと背を向けてその手を避けた。礼紙の破れた隙間から指を差し入れて文を引っ張り出し、素早く文に目を走らせる。

 ひらひらと舞い落ちる紙片を、紀乃は唇を噛んで見詰めた。


   かつ見れど

      うとましくなり

            朧月

          いたらぬ里を

            つくらばと思う


 美しく見える朧月も、うざったく感じることでしょう。見えない場所を作りましょうか?

 ご先祖さま、紀貫之の古今和歌集にも編まれた有名な和歌のもじりだ。

 この和歌と藤の宮の高圧的な文。そして、真実味を出そうと最後に書き足した一文、『兄が下野に居ります』を読めば、頭の回るものなら、その意味は一目瞭然。

「おまえ、承香殿と取引するつもりか?」

 大夫の君が堅い声で問う。

 ここで騒がれてもしたら、すべては御流れ。また計画から練り直さなければならない。

 こんなところで、こんなぐーたら大夫に邪魔されるとは……。

 紀乃は無言で顔をしかめた。



 しかし、振り向いた大夫の君の顔は優しげだった。しかも紀乃を気遣う心使いさえ感じられる。

「やめとけって!承香殿なんか、信用できないぞ。弱みに付け込まれて、利用されるだけだ」

「そんなこと、わかってるわよっ!」

「―――なら、なぜ?」

 文さえ取り返せれば、後はどうにでもなるのだが、その文は手の届かない背後に隠されたままだ。

 どうせ大皇の宮の御名が出たとたん、その自慢の逃げ足でいなくなるくせに……。

 紀乃は苛立ちを隠さず、ぷいっと顔をそむけて理由を話した。

 藤の宮が東宮の添い寝役に選ばれそうなこと。それに反対なこと。大皇の宮に抗議したが、その意思は変わりそうも無いこと。計画を邪魔するために、承香殿を利用しようとしていること。

「―――わかったなら、早く文を返して立ち去りなさい。これ以上、わたしに係わると巻き添え食うわよ」

 紀乃はそっぽを向いたまま手を差し出す。しかし、その手には何も乗せられず、微かな笑い声だ。

 不審に思って目をやれば、大夫の君はいたずらっ子が新しい玩具おもちゃを見付けたようにニンマリだ。

「それを早く言えって!」

 目を丸くしてポカンとする紀乃を余所よそに、大夫の君は一人で話を進める。

「この文はおれが直接届けてやる。この文を読んだ承香殿の顔を見逃せないからな」言うが早いか、文を紀乃の手に乗せる。「おまえはこの文を直して来い。おれは着替えだ」

 返事も待たず、元来た方へとドカドカと足早に歩いて行く。

「車宿りに居るからな。早くしろよ」

 紀乃は身動みじろぎもできずに、その背を見送った。

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