幻滅イクリプスは夜空に消える

本陣忠人

幻滅イクリプスは夜空に消える

 一体…現在時刻は何時だろう?


 鈍く重たい頭に――居心地の悪い疼痛を伴って不意に過ぎったのは極めてありふれた疑問。

 そして後悔した瞬間にはもう遅い。乾いた目線は――今更直視したくもないのに――液晶の右下に抗い様なく無様に吸い寄せられた。


 飾り気の無い白地のデジタル表示は何処までも無慈悲にその役を従順に果たす。

 無機質なY/M/Dの上に行儀良く座る文字列。一度目を閉じ、意を決して再度注視。


【03:01】


 つまり僕が出社してから、かれこれ四十一時間が経ったと言う事だ。

 何ならば今日出社する時刻まで後七時間と言い変えても良い。


 更に加えて言うならば今日は土曜日――ひと月前の予定では恋人とデートすることになっていたのに…まあそれは本来ならばの話なのだが。


 今日中は疎か、明日を費やしても片付くかどうかも怪しい案件を解決に向けてキーボードをカタカタと叩き続ける。痛む頭を指先で抑えながら。


 日中のワーキングタイムは怒号やタイプ音、電話の呼び鈴なんかで騒がしい室内も今となっては虚しいばかり。

 広々としたオフィスは僕を除けば無人であり、部長が約五時間前に退社する際に電気を消していった為、灯りと言えば目の前のデスクトップが発する冷たいものだけ。その事実により一層孤独を深める僕の顔が薄く映る。


 敢え無く日付が変わる前までは通りにも人の気配を多少なりとも感じたのだが、現在のオフィス街は砂漠の様に寂寞としていて気分は星の王子さまの様だ。尤も、彼と違い孤独なだけで何処にも行けないのだけど…。


 上司や同僚なんかが置いていった栄養剤及び缶コーヒー、エナジードリンクも残す所あと二本…いや、今飲み切ったから残りは一本か……。


「あ"あ"あ"…あぁ?」


 長年座れば痔を発症しそうな安物の事務椅子、その薄い背もたれに後頭部を乗せる。ぎしりと油の切れた値段相応の安っぽい音がした。


 睡眠障害を起こしそうな陳腐なブルーライトを発する画面から目を離し、規則的な線の入る天井の全容を眺める。

 当初こそ暗順応し切れない粗末な眼球だが、それでもやがて暗闇に慣れてぼんやりと視界が広くなる。


 現在の僕の曇った眼に見えるのは閉鎖的な檻に似た良く知る低い天井。

 それに反応して、その心情に順応して。心の中の極楽鳥が機を見て話しかけた気がした。


【こっちに来いよ】


 普段であれば切って捨てる程に幼稚で些細な気の迷い。


 しかし、上司から謂れの無い責任と仕事を押し付けられ、頼りになる同僚や可愛がっていた後輩にすら見捨てられた現在の僕からすれば天啓に等しい典型的な啓示。


 オラクルを得てからは迅速だ。すぐさま身体を起こし、ラスト一本――黒いラベルのエナジードリンクを飲み干した。

 コピー用紙に殴り書いたのは思いの丈を込めた汚い言葉。百円均一のサインペンをその辺に投げ捨てる。


 くたびれたジャケットを羽織り、薄っぺらいカバンを持って速やかにオフィスを去ることにしよう。


 荷物を抱えた僕は防犯システムを立ち上げてからビルの外に出た。


 十月の空気は良い。

 身を切るほどでは無い緩やかな寒さと仄かに香る金木犀の涼やかな匂いが僕の背中を更に後押しをする感覚があった。


 生憎の曇りで星空は見えないが、そもそも田舎と違う都会の空では占星術的な掩護は期待出来ないし、せいぜいマッピングの為のスクリーンと言ったところだろうか。


 終電なんか最早一考の余地すら無いので、車道に近付きタクシーを拾う事にしよう。


 疲労の為かふらふらと覚束無い足取りで歩きながら適当に考える。


「このまま車道に飛び込んだら楽になれるのかな?」


 勿論チラリと過ぎっただけで実行する気はさらさら無いが、何となくそんな破滅的な考えが刹那に瞬いて消えただけだ。


 希望的に考えれば―――漫画的かつ小説的及び映画的に考えを広げれば、車に轢かれそうになった瞬間にヒーローないしヒロインなりが救助してくれて。

 そこから二時間位のドラマが始まるかも知れないが、生憎僕の人生においては実現可能性が望み薄なので辞めておこう。


 散文と収束を繰り返す思考。

 細かく開閉を続ける目蓋の奥で捉えたのは一瞬の目眩。


 ハイビームが下向きになったことで車体の輪郭が掴める。

 黒っぽいセダンの上に乗ったハート型の行灯。幸いにも空車の様だ。


 手を挙げて乗車の意思を示す。若いドライバーがいそいそと降車して後部座席のドアを開けてくれた。


 そのせいでまるで自分が重要人物の様に感じられるが、仕事を放り出して帰宅する人間をVIPとは呼べないだろう。


 自宅の住所を告げてレースのかかったシートに疲弊した身体を預ける。ルームミラーに時折映る顔はまるで歩く死体の様だ。マネキンだってもう少し表情があるというのに。


 そんな乗客を慮ってか、或いは彼が無口な性質なのか、車内は深夜のFMが静かに流れるのみで居心地は悪くない。

 パーソナリティの男が低い声で流暢な英語で曲紹介をした後にノイズ混じりで聞こえてきたのは嗄れた男の声。聞いたことあるなコレ…。


 回らない頭で記憶を掘り起こしたが思い浮かばない。その内に運転手の男が未成年の様に高い声で呟いた。


「ルイ・アームストロングの『What A Wonderful World』ですね。歴史的楽曲スタンダードです」

「ああ、そうか…そんなタイトルでしたっけ?」

「ええ…まあ。偉そうに言いましたが、昨日映画で見たんですよ。『グッドモーニング, ベトナム』って言う…ご覧になったことは?」


 先程までの静謐が嘘の様に、もしくは堰を切ったように溢れる言葉。

 彼の言葉を受けて再び記憶の海を放浪する。

 今しがた耳から入ったばかりのタイトルには聞き覚えがある。内容も何となく思い出せる…そうだ、大学生の頃に当時付き合っていた女性と見たことがある。彼女はつまらないと零して直ぐにベッドに入ったが、貧乏性の僕は最後まで見たはずだ。


「昔に一度…レンタルDVDで。細かい所は覚えてないですが、この曲が流れた記憶は辛うじて」

「そうですか、『この素晴らしき世界』…。陳腐ですが素敵なタイトルです」

「まるでSFやUMAの様に荒唐無稽でロマン溢れるタイトルだ」

 

 目の端に消えていく景色を眺めながら吐き捨てるように答えた。

 深夜の道路は交通量も少なく、滑らかに車は先に進む。


 ミラー越しに見えるのは同年代と思われる運転手。美しいメロディに顔を少し綻ばせた。


「それでも、戦争よりはマシじゃないですか?」

「は?」

「私には妻と娘がいます。仕事は面倒ですが、そこそこ不自由に――それなりに平和に暮らしています。きっとそれは、その生活は戦争より…多分マシですよ」


 突然出て来た物騒な単語や訳知り顔で上から目線な説教臭い台詞。唐突な身の上話に面食らい、小さく息を吐き出す。


 しかし、そうした偶然の深呼吸が呼び水となり少し冷静になったのも事実であり、改めて彼の言葉を反芻する。


 自身の置かれた現状の暮らし、自身の直面する現状の処遇。

 それらを曖昧な映画の風景と歴史で習った光景と比較分析して優劣を問う。


「まあ、少なからずマシかも…しれない」

「でしょう? 随分とマシなはずですよ」


 室内鏡を通じて目が合う。彼は自説が肯定された小さな優越感を含めて笑い、僕はと言えば上手く言い包められた気がして些細な敗北感を噛み締めた。


「でも、微妙。辛うじて…首の皮一枚って感じです」

「首の皮だって何百枚も積み上げれば結構な厚さになりますよ」


 信号待ちにかこつけて彼は後部座席を振り向いた。街灯の下に晒された運転手の顔には瘡蓋の様な傷痕が見える。目の下から垂直に五センチ程。刀傷?

 自分の顔を同じ様に指でなぞってから、溜息と共に行き先の変更を口にする。


「少しでも厚さを足そうかと思います。元の場所に戻ってくれませんか?」

「はい、喜んで!」


 深夜料金で割増になっているメーターが運転手の機嫌を代弁しているかのように軽快に回っていく。何とも現金なその姿を目の端に収めながら僕は思う。


 ケリがついたら恋人と映画を見よう。

 彼女が退屈して寝てしまわない様に昼間の内に。


 そうすれば、よりマシになるかもしれない。今よりもずっとマシな気持ちに。

 そう祈ることに決めた夜の精神は多分、過去よりもずっと前向きなものであれば良いと思う。

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