【序】Ⅶ『二度とない縁なら』


「灰沢のダンナ、何で此処に居るんだ?」

「うん?脳と胃の栄養補給をしに来たのさ。」


 天才の頭脳は常に知識と栄養を欲しているのさ、と灰沢はオーブントースターのタイマーをセットしながら語る。


 オーブントースターの内部をじっと見守る灰色の人物に見覚えがあった陽介は驚きの声を上げた。


「い、医務室のおじさん!」

「やっほ~、また会えたね、陽ちゃん!あと私は『医務室のおじさん』って名前じゃないよ!ミューズでは知る人ぞ知る天才科学者、灰沢亨とは私のこt」


 チン!と間の抜けた軽快な音が調理場を包み込む不穏な空気を一変させる。


 灰沢はそそくさとオーブントースターから程好く表面の焼けたベーグルを1個取り出すと「アチチッ!」と騒ぎつつ一口大に千切って頬張り始めた。


「ダンナ、そのベーグルは明日の朝食用だぞ。」

「細かいことはナシだよ、ベンくん。」


 今この時こそ天才の頭脳は糖分を必要としているのさ、と口内に放り込んだベーグルをもぐもぐと咀嚼する。

 ゴクン、と嚥下してから灰沢は陽介へ視線を向けて口を開いた。


「あと、陽介くんに用があってね。」

「もしかして検査の結果が、」

「いやいやいや!そんな直ぐには結果は出ないよぉ!」


 直ぐにはね、と強調しながら灰沢は胡散臭い程に満面の笑みを浮かべてから陽介に近付いた。


「でも、それとは別に良い話があるよん。」

「い、良い話ですか?」

「モチのロンさ!見事な戦果を挙げた上、絶賛無職中の君に朗報だよ!」


 グサリっ、と灰沢の悪気の無い言葉が陽介の心臓を勢い良く刺し貫いた。


「な、何故それを。」

「我々の情報網を馬鹿にしちゃ困るよ!」


 一番聞きたくない単語を耳にした陽介の表情が雨雲のように曇っていく。青い瞳は瞬く間に濁り淀み、全身から放たれる負のオーラは毒気を彷彿とさせた。


「じょ、冗談ですよね?」

「その気になれば、君のとんでもない転職回数を誇る職歴が今此処で全部曝せるけど良いのかなぁ?」


 止めの一言に酷く落ち込む陽介をベンジャミンは不憫に思った。


 会話に割り込めず、傍らから無言で見ていた彼だが身上を暴露された陽介に心を痛めずにはいられなかった。


 対して灰沢は悠々とベーグルを頬張っては「君も色々と大変だね~可哀想だね~」と事の張本人にも関わらず陽介を面白おかしく慰めていた。


「でも、陽介くんは幸運だよ?だって、そんな悲しい苦労とは今日でサヨナラだからね!」


 如何にも悪徳商法的な殺し文句だ、とぼんやり思うベンジャミンを他所に灰沢は言葉巧みに陽介を誘導しようと試みる。


「具体的に言うと就職の斡旋さ。」

「マ、マジですか?」

「そりゃあ大マジだとも!」


 適材適所の逸材である君にピッタリな職種だよ、と灰沢は陽介が僅かでも自分の提案に食い付いたことをほくそ笑みつつ畳み掛けて説明する。


「社宅及び社員食堂完備!そして永久就職!個人情報は完全保護!今ならもれなく書類選考や面接は省略!書類データにサインしてくれるだけで即採用!」


 悪い話じゃないでしょ?と明らかに何かを企む悪人のような笑みを浮かべて早口で語る灰沢にベンジャミンは顔を顰めた。

 胡散臭い、とんでもなく胡散臭い。そんな怪しいにも程がある甘い話を信じて二つ返事で承諾する人間など、


「やります!やらせてください!」


 近くに、居た!


「うんうん、良い返事だ!じゃあ早速サインを」

「待て待て待て!ストップ、一旦ストップ!」


 灰沢がデータパッドと専用タッチペンをゴソゴソ取り出し始めた所でベンジャミンは制止を促しながら慌てて二人の間に押し入った。


「チッ、もう少しだったのに。」

「聞こえてるぞ、ダンナ!」

「あんまりじゃないか、ベンくん!陽ちゃんのチャンスを水に流す気かね!」

「いやいやいや!どう聞いても、その話は怪しいぞ!」


 ベンジャミンの指摘に灰沢は痛い所を衝かれた様子で大袈裟に狼狽する。


「ひ、酷いなぁ!陽ちゃんを想ってのことだよぉ!」

「信頼は互いに歩み寄って少しずつ積み重ねてこそ勝ち取れるもの。オレはアンタの息子さんからそう教わったぞ?」


 ベンジャミンの問い掛けに灰沢は大きく肩を揺らした。とんでもない弱点を暴露されてしまったように困惑する彼にベンジャミンは警戒を緩めなかった。


「ダンナ、さすがに早急過ぎるぞ。今回の戦闘でコイツが戦果を出したのは事実だ。けどよ、」


 出会って間もない相手を唆して巻き込むのは良くないぞ?とベンジャミンは灰沢に告げる。だが、


「こ、これで良いですか?」

「うんうん!パーフェクトだよ、陽介くん!」


 気付けば後の祭りであった。知らない内に物事が進み、そして終えていたのだ。


 いつの間にサインをさせていたのだ?それ以上に自分の目を盗んでデータパッドを渡していたのだ?


 疑問を抱くベンジャミンの黄色い瞳が捉えたのは灰沢にサイン済みのデータパッドを渡す陽介の姿であった。


「こういうのは『縁』だからね!『善は急げ』だよ!」

「でも、ダンナ!」

「確かに信頼は積み重ねが大事さ。だが関係を築く『先』か『後』かの話でしかないよ。」


 この流れは絶対に変えないぞ、と言わんばかりに詭弁を弄すると灰沢は驚き呆れているベンジャミンの目を盗むようにオーブントースターに収められていたもう一つのベーグルを素早く手に取った。


「じゃあね、陽介くん!上の人達に報告しなきゃならないから私はこれで失礼するよ!」


 グッバイ!とデータパッドを肌身離さず抱えると灰沢は食べかけのベーグルを自分の口内に突っ込むと、忍者のような足取りでその場から退散した。


「やったあああ!これで無職卒業だあああ!おばちゃんに胸張って報告出来るぞおお!」

「なぁ、青年。嬉しいのは分かるが書面、最後まで読んだか?」


 それを理解して承諾したのか?と訊ねるベンジャミンに陽介は首を傾げる。灰沢の話を鵜呑みしてサインしたであろう陽介にベンジャミンは深い溜め息を吐いた。


「あのな、オレも君と似たような状況でサインしたんだ。それが今現在、この状態だ。」


 何とも言えない複雑な表情で語るベンジャミンに陽介は理解出来ずにきょとんとしていた。




〇 〇 〇




「こんなのが証明になるわけ無いでしょ?」


 ミランダは険しい表情を浮かべて自用のデータパッドを睨み付けていた。送り付けられた契約書の署名欄には紅い青年の名前が書き記されている。


 署名を促した犯人は間違いなくデータの送信者だ。青年を言葉巧みに言い包めてサインさせたに違いない。

 そのような代物を「はい採用!」で許可する程、司令官としての自分は未熟者であっても愚か者ではない。


「ミラ姉の気持ち、スッゴく分かるわ。もう伯父様ったら何を考えているのかしら、本当に。」

「アンタが此処に居るのは、おっちゃんの根回しってことでしょ?レイ。」


 栗色の瞳を向けて問い掛けるミランダにレイモンドは苦笑しながら肩を竦めた。


「私は反対したのよ?」


 でも伯父様は一度思い立ったら直ぐに行動しちゃう人だし、とレイモンドは溜め息を吐いて愚痴を零した。


 レイモンドを不憫に思いつつもミランダは栗色の瞳を再びデータパッドへと向ける。

 画面に表示された契約書にサインをした彼は理解しているのであろうか?とミランダは眉間に皺を寄せた。


 この書面に記載された文章の意味を。

 これから歩もうとする茨道の存在を。

 この先で開演を迎える殲滅の舞台を。


 しかし、どんな形であれ『陽介を戦力として加える』という第一段階はクリアした。

 陽介には悪いが今更どんなに拒否しようとも見過ごすわけにはいかなかった。【秘匿の対象として対処すべき一般人】の青年は『普通』から逸脱している。


 3年前の出来事によって起きた大災害の被害者であり、唯一の生存者。

 搬送先の病院で異常な回復力を見せ付け、軍事関係者の妨害騒動を掻い潜って脱走した重傷患者。

 逃走先の日本にて一般人から仮初の名前を授かり、日常を懸命に生きた記憶喪失の青年。

 そして《アンノウン》に立ち向かい、形勢逆転の勝利を導いてくれたスピリチュアル・サウンドの保有者。


 だからこそ放ってはおけなかった。そのためにも先ずは戸籍などの身辺を整える必要があった。

 今の陽介には足りないものがある。それは彼自身を示すための【氏名を得る権利】だ。


 身元を証明出来る情報が無いならば、一時限りであっても【陽介】という青年を確立させなければならない。

 ミランダはデータパッドから視線を逸らすと、特別措置への対応を可能にする書類の作成を開始した。


「まぁ、おっちゃんのことだ。腹黒い企みでも何でも考えがあってのことでしょ?」

「さっすが、ミラ姉!話が早いわ!」

「レイ、アンタはアンタで持ち込み企画があるってことで良いんでしょ?」

「あら?バレちゃった?」


 彼女の指摘にレイモンドは予想していたように口元を上げて降参のポーズをすると、手にしていたファイルから幾多の用紙を取り出した。


「はい、陽介くんのお披露目ライブ用新曲よ!もしミラ姉が承認してくれたら即行でレコーディングを進めるわ!」

「アンタ、この短時間で作詞作曲したって言うの?」

「それは勿論!だってプロですから!」


 無駄に意識したポーズとともに宣言するレイモンドの無駄な眩しさにミランダは引き攣った笑顔で生返事した。





〇 〇 〇





「あの人が新メンバーになるんだね?カレン。」

「あの人が新メンバーになるんだよ、アレン。」


 緑色の男性と会話する紅色の青年を物陰から窺うのは黄緑色の双子であった。金色を帯びた黄色の瞳を青年に向けながら双子は顔を合わせて互いに己の考えを言葉にする。


「きっと苦労するだろうね、アレン。」

「きっと苦労するだろうよ、カレン。」

「「でも、」」


 双子は己の片割れに訊ねる。


「「サーはどうするのかな?」」

「世話焼いちゃうだろうね?アレン。」

「世話焼いちゃうだろうよ?カレン。」

「「きっと、」」


 無意味になるかもしれないのに、と双子は彼が青年に焼くと思われるお節介を想像する。

 そして憂鬱な表情を浮かべると、互いの片割れを横目で見合ってから双子は同時に小さな溜め息を吐いた。

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