彼と彼女が恋をしたワケ。

一乃

―ゆりかの場合―

 ヒールの音をカツカツと鳴らし、彼女は颯爽と歩く。


 朝の通勤ラッシュでごった返した駅の構内。

少しでも足を止めれば人とぶつかり、周囲の人は迷惑そうな顔をする。

人の波に乗るように、むしろ人の波をかき分けるように、早足で歩く。

この朝の光景も社会人2年目となり既に日常と化していた。


 彼女の手には折り畳まれた経済新聞、肩にはブランド物のバッグ。

ボディラインが綺麗な黒のジャケットに、ベージュのマーメイドラインのスカート姿で、彼女が足を動かす度にスカートの裾がヒラヒラと揺れた。

いかにもキャリアウーマンといった雰囲気だが、ゆるくパーマをかけた茶色の長い髪や、ボディラインのはっきりしたスーツ、身のこなしからは女性らしさを感じさせられた。


 彼女が階段を下りていた時だ。

急に視界がカクンと落ちた。

正確には足を滑らしたのだ。

気づいたときには、5段ほど階段から滑り落ちていた。

それと同時に彼女が手にしていた折りたたんだ新聞と、履いていた片方の黒のパンプスまでもが人混みに転げ落ちていった。


 周囲が一瞬騒然とする。

「いったぁ~…」

膝を擦りむいていた。

彼女は痛がりながらも慌てて立ち上がると、周囲は彼女を避けながらまた何事もなかったかのように歩きだした。


 切ない。

なんて切ないんだ。

……でも都会とはこんなものだ。


 そう自分に言い聞かせながら、とりあえず、近くに落ちていた新聞を拾う。

しかしパンプスが見あたらない。

人混みの中のどこかへ行ってしまったのか。

もしや、人に蹴られて遠くへ行ってしまったのか。

そう考えたら気が遠くなり、酷く重い溜息を吐く。


 辺りをキョロキョロ見渡していると、人の流れを抗うようにかき分けて、彼女の目の前にやってきた男性がいた。

そして黒のパンプスを差し出す。

まさしく彼女が探していた物だ。


 「私のパンプス!」

彼女はガッチリとパンプスを掴んだ。


 「澤井ゆりか…さん?」

突如、自分の名前を頭の上から呼ばれ、彼女は顔を上げた。

「………?」

澤井ゆりかと呼ばれた彼女は、そう呼んだ男性を見て、なぜ自分の名を知っているのかとばかりに不思議そうに小首を傾げる。

そして数秒し、「あ!」と声をあげた。

「みしま君?」

真島ましまだよ」

男性が即座に言い直す。


 目の前にいたのは会社の同期の男性だった。

先日、他の支店から異動してきた同期入社の総合職の男性――

自分は今年25歳なので、おそらく同じ歳の頃だろう。


 「大丈夫?」

「なんとか……膝をちょっと擦りむいたみたいだけど…」

ゆりかは靴を履きながら、膝を指差した。

真島が目を向けると、彼女の膝部分のストッキングは破け、血が滲んでいた。

「血が出てる。絆創膏は持ってる?」

真島に聞かれ、ゆりかは首を振った。


 残念ながら澤井ゆりかという女子は、見た目こそ女性らしいが、そこまで女子力を持ち合わせていない。

すると真島がポケットからハンカチを出した。

何をするのかと思えば、真島は跪き、ゆりかの膝に巻きだしたのだ。


 「え!ちょっと、ハンカチ汚れちゃう!」

ゆりかは焦って真島の肩をポンポンたたく。


 「構わないよ。このハンカチあげるから」

「で、でも!」

「いいからいいから。

スーツのスカートが汚れたら、困るんじゃない?」

「あ」

ゆりかが膝元に目を下ろすと、ちょうどベージュ色のスカートの裾が傷に触れそうになっている。

「…ありがとう」

ゆりかは申し訳ないが、好意を受け入れることにした。

「どういたしまして」

真島はニコリと笑う。

目尻に皺ができ、優しい笑顔だった。

ゆりかは思わず見入ってしまう。


 「さあ、行こう。

ゆっくりしてたら遅れる」

真島が時計を見ながら立ち上がり、ぼうっとしているゆりかの背中をポンと押す。

真島の手に促され、ゆりかは歩きだした。


 パンプスのヒールがカツカツと鳴り響く。

ゴムが擦れて、ヒール部分の金具が出てきてしまったのか。

金具が出て、音があまりにも大きいのは、靴の手入れできてないようで、みっともない。

仕事が終わったら早く修理したい。

音が真島に聞こえてしまうんじゃないかと思うと、なんだか恥ずかしくて、いかに音をさせないように歩くかに悩んでしまう。


 恥ずかしい。

恥ずかしい……。


 胸が小さくトクトク鳴る。


 その時、横を歩いていた真島がゆりかの方を見る。

「足、痛い?」

「え?」

「なんか歩き方が、痛いのかなって…」

「歩き方……?」

ゆりかはふと足を止めてしまう。

ヒールのカツカツ音が気になって、不自然な歩き方になっていたのを、それを指摘されたのだ。


 ゆりかは恥ずかしくなって赤くなってしまった。

自分の顔がのぼせるように、熱くなるのがわかる。

それがより、ゆりかの羞恥心を増長させ、慌てさせた。


 「真島君、先に行ってて!」

「え?」

「ごめん、先に……」

「それは無理」

真島がはっきりした口調でゆりかの言葉を拒否し、遮った。

そしてゆりかに向き合う。

「怪我人で、ましてや知り合いで、行先まで一緒の人を置いていけるわけない」


 ゆりかの目が見開き、真島を見つめる。

真島の言葉に胸がまたトクンと鳴る。


 「とりあえず、会社に遅れるって連絡するよ」

真島が携帯電話をポケットからさっと取出し、会社に電話をしだした。


 ゆりかが駅で転んで怪我をしたこと。

そして自分も一緒に付き添っているため、遅刻するという旨を伝える。


「…さてっと、これで遅刻しても問題なし」

真島が携帯電話を再びポケットにしまい、目尻に皺を寄せてニコリを微笑む。


 素早い対応にゆりかは見入っていた。

気付けば、初めて『真島』と名前を認識した同期の男性に、すっかり心を奪われている。


 「ゆっくり行こう」

そう言い、真島は手を差し伸べた。

ゆりかは差し伸べられた手に一瞬戸惑ってしまう。

それに気づいたのか、真島がイタズラ気に笑いながら言った。

「足痛いんだよね?つかまってよ。

俺、杖変わりになるよ」

「ぷっ…杖って…ずいぶん大きな杖ね」

ゆりかもクスクス笑う。


 そっと真島の腕を借りる。

確かに一歩踏み出すと、膝の傷がチクチクズキズキするが、足は……正直そんなに痛くない。

相変わらずヒールの音がしないように、庇いながら歩いてしまう。


 たぶん真島君はこれを、足を庇って歩いていると勘違いしているんだ。


 歩きながらハタとそのことに気付くものの、それは口にできなかった。

騙して真島を遅刻させてしまう罪悪感を感じながら、不意にやってきた胸の高鳴りに、ゆりかはどうしたらいいのかわからなかったのだ。


 どうしたらいいのかわからないがゆえに、一先ひとまずお礼を言う。

「真島君…色々ありがとう」

「どういたしまして」

真島の優し気な顔にゆりかはさらなる罪悪感と、トキメキを覚えた。


 駅の構内を抜け、外に出ると朝日がキラキラし、まぶしい。

「役得だな」

「え?」

ふいに真島がつぶやいた言葉にゆりかは理解できなかった。

「いや…さ、ずっと澤井さんと話したかったんだよ。

でもなかなか機会なくて。

これで俺の名前と顔を覚えてもらえたよね」


 少し照れながら前を見て話す真島をゆりかはじっと見つめた。

日の光に透けた髪の毛が焦げ茶色に光る。

真島は誠実そうな雰囲気の好青年といった言葉がぴったりの風体をしていた。

改めてまじまじ見た真島の姿が思いのほか、恰好よく感じた。


 この人、こんなだったっけ…?

ますます胸の高鳴る。


 ゆりかはドキドキしながらも、真島の顔がもっと見てみたくて、さらに覗き込む。

すると真島と目が合い、一瞬驚いたような表情をされた。


 真島の視界に、真島の瞳に、自分が映ったことが嬉しくなり、ゆりかはにっこりと無邪気な笑みを浮かべる。

「真島君、これからよろしくね」

「……あ、ああ、よろしく」

真島は言葉に詰まりながら、はにかんだ笑顔をゆりかに返した。


 目尻に皺ができた優しそうな笑顔。

その笑顔にゆりかの胸が温かくなる。


 苦く感じていた筈の真島への罪悪感も彼の言葉によって、すっかりかき消されていた。

それと同時に真島もふいに訪れたゆりかとの接点に、戸惑いながらも嬉しく感じていた。


 二人の心に淡い恋心が生まれた瞬間だった。



 これが二人の出会い。

この後、二人は付き合い、数年後には結婚し、家庭を持つことになる。

そして数奇な運命を辿ることになる。


 これはその二人が若かった頃のお話――ずっとずっと昔の――――

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