三の幕 夏祀り、九十九集いて、煙りゆく

浮世に奏でる早春は、流れるが如く過ぎ去る物と存ずる。

ひと月程に小判は一枚もたらされ、やがて九十九となって消えてゆく。

それらは春の桜に例えられるように、儚く巡り円と成る。


煙管を持ち、煙の薄くに感じる事は夏の訪れ。

しとしとと風が吹き、また長い雨が日を陰らせて、裸一つの身に纏うは、茶に蒸した色合いの薄衣。

立ち返るかのようなひと時はまた、夏のように過ぎて行く。


縁は円、輪と成し間に和、話を語る。


縁は巡り廻る物。また、立ち返るかのように、戻って来る。

長い雨が過ぎるのを、煙管片手に待ちぼうけ。


…。

…。

…。


「…はぁ」


唐傘「女、四十二。ささやかな幸せに告げるは寺の鐘じゃ。ぐわんぐわんと、祇園精舎の唄にある様、遂に終わりが訪れん」


桐「親方様。注ぎましょう」


「いや、いい」


唐傘「愛し愛され、身の辿った道を振り返れば、なんと物の無き事か。男は死に至り、また、自らだけが残された。家と畑とは、己を満たす事など程遠く、ただ涙枯れるような虚無に染まる。誰じゃ。誰がこれを作り上げた。二十も昔に同じ雨の中を逃げ去って、何が何となったのであろうか?子も無く、夫も亡く、ましてや金も無い。その一生に意味を問うばかりじゃ」


桐「…親方様?」


「いや、なに。煙が目にな。それに退屈な話に睡魔が寄る。唐傘、続けよ」


唐傘「…寝んのか?」


「いい。聞いてから寝る」


桐「唐傘、気を悪くしないよう。…泣いておられるのです」


「誰が泣くか馬鹿馬鹿しい。ほれ、続けよ」


唐傘「…そして、女は何もかもを売りに出す。実家を訪れ、果てた家系に涙して。決めていた事。何も無ければ仏の道に縋るまで。明日は何処へ足を向けるか、それは人とて分かるまい。剃髪し、いずれ迎うる死だけを全うするだけなのだろう。かの日に雨を凌ぎ見守った、祖父代々の唐傘は売られゆき、悲しき背のみ送り見ゆ。悲しき背のみ…送り見ゆ」


「…そうか。そうかそうか」


唐傘「これが…私の長き九十九話じゃ…。つまらんかったろう」


「何を言うか」


唐傘「…」


桐「茶を淹れましょう。唐傘の分も」


唐傘「有難うな」


「…後は九十九屋の主人にこき使われ話すのみ…か。ふん、余程、今の方がつまらんだろう」


唐傘「主様よ」


「なんだ」


唐傘「…これで身の上話は仕舞じゃ。春に申した通り、雨が止めば穴の開いた傘に場など無し。…如何にする?」


「…」


唐傘「ほれ、煙管など吸ってごまかすな。私をどうしたい。長き世に生れ落ち、桐の如く大した未練も無い物ぞ」


「…そうだな。ふむ…お前は恨みの積る物では無い。朽ち捨てられて売られた訳でも無し。ではあえて問うぞ、人世に恨みは残るか?」


唐傘「人が私に魂を込めるが如く作り上げ、人が私に頼り、そして、人が私と話している。何も残らん。人世こそ、私にとっての仏よ」


「…よく言った。それでは、お前はしばらくこき使わせてもらおう」


唐傘「ふむ。店に置いてくれるか」


「おおそうよ。…うむ、見る目は齢三十四十。良い熟れた女である。つまりは俺の好みでもあると言ふ事よ。誰が捨てるか」


唐傘「ふはは。なんじゃ、女の趣味も残り物か」


「上手い事を」


唐傘「で、あれば共に寝るか?私は逆らわん。人に使われてこそ生きる物じゃ」


「…ふむ、それは確かに面白い。だが怖い。止めておこう」


唐傘「うん?桐がか?」


「ああ桐だ。今も俺を睨んでいる事であろうぞ」


唐傘「冗談…おい、冗談じゃろ?障子が僅かに開いたぞ」


「…俺は嘘を言わん」


唐傘「…おおぉ…!ぞっとしたぞ。身の毛もよ立つばかりじゃ…!」


「まあな。桐は特別よ。人に惚れるが如き恨みを抱えておる」


桐「惚れはしませぬ。ただ、恨むのみ」


「…だと。茶はまだか?」


桐「ただ今、湯を沸かしております。火の燃えが悪く」


唐傘「…桐は箪笥じゃろう。何を恨んでおる」


「さあな。奴は話さん。分からぬわ」


唐傘「ん?なんじゃ、九十九話はせんのか?」


「うむ。まあ、そっとしておいてやれ」


唐傘「…ふむ」


「さて、唐傘よ」


唐傘「なんじゃ」


「共に生きようぞ。人を恨まぬ変わり者は大いに好きだ」


唐傘「なっ!?め、夫婦か!?」


「それでも良いが、浮世を楽しむ九十九屋の一人となるのだ。恨むのでは無く、楽しむのだ」


唐傘「なるほど。それは愉快極まれる」


「して、その変わり者の一団を俺はこう呼んでいる。手を舞わせ、浮世踏み抜く、九十九集」


唐傘「つくも…しゅう。九十九集か」


「うむ。悪事だろうが関係無し。ただ楽しみ死に向かうだけの、儚き一団よ」


唐傘「…乗った!」


「いよし!それでこそよ!」


唐傘「…して、桐とはどこまでいったのじゃ?」


「さてな」


唐傘「もったいぶるで無い。男女事情は花の歌。それほど面白い事も無かろうに」


「俺はあまり好かん」


唐傘「なんじゃなんじゃ。いや、待て。熟いた女の好きな事。つまりは主。攻められ優しく抱きしめられる…などが好きか?」


「冗談じゃない。何故俺の趣向を語らねばならん」


唐傘「面白いからよ」


「はぁ…。なんだ、遂に悪事に目覚めたか」


唐傘「何が悪事じゃ。これくらい」


桐「お茶を…やはり止めましょう」


「ああ桐。行くな行くな。こいつは一人だと手に余る」


唐傘「甘えおってからに」


桐「私とて手に余ります故。一人で二杯の茶を飲みます。ごゆるりとされては?」


「越えぬ越えぬ。桐、お前ともゆるりと話したい事がある。行くな行くな」


桐「はあ…そう言われては仕方ありません」


「さて…」


唐傘「童貞か?」


「黙れ。真面目に話をしたい」


唐傘「ほう…」


桐「改まった顔を。いかがしました」


「…先日、雨の中訪れた金物屋を覚えているか?」


桐「ああ…あの」


唐傘「どうも食えん男か」


「あ奴は報を売り買いする者でな。九十九屋の看板の話をつけた」


桐「はあ、それはどうも…。また盗みですか?」


「いや、客こそ来れど満たぬ酒。買う物は一握りだが…」


唐傘「…なんじゃ、物々しい顔を」


「…その金物屋がな、曰く付きの下駄を売ろうと言うのだ」


桐「曰く…?」


「履けば病に侵され死ぬ…と言われる、数紀も前の下駄よ」


唐傘「…」


桐「…」


「社に奉納しろ。とは言えん。むしろ喜々として買おうと言った。だが、今になって思い出した話があってな」


桐「…あ。狐」


「そう。狐の件だ」


唐傘「狐…。化け狐は聴けど、下駄とは如何に」


「うむ。石遊下駄…と言ふ物を知っているか?」


唐傘「石遊下駄…。石下駄か?」


「そうだ。だが、その石は軽く長持ちし、漆で黒に塗られた万に通ずる女物の下駄よ。砕き、彫り、装飾し遊んぶ石下駄を石遊下駄と言ふ」


桐「はぁ…石下駄…とは聞きましたが、女物とは」


「木よりも軽く、まるで妖のように惹きつけるでな。若い女に流行したそうだ。だが、呪いの話を聞いてからはとんと見なくなった」


唐傘「…のお。石、狐ときて、ようやく身震いしているのじゃが…」


「ああ…」


桐「玉藻前の殺生石…」


「うむ。まさにそれだ。平安の宮廷崩しの女狐が、近づく者皆殺し絶えたあの石よ」


唐傘「それは方々に飛散したと聞くが…?」


「飛散したのならば、その石を使った下駄のある事に可笑しきは無い」


唐傘「…とんでもないのぉ…」


「今になって悩んでおる。流石のソレは、唐傘以上に手に余るだろう」


唐傘「なんじゃと?」


「いや、むしろ桐よりも…」


桐「…なんです」


「…思ふてみろ。現界した途端に九十九屋ごと江戸を乗っ取るやも知れん」


唐傘「ならば履けばよかろう」


「殺す気か」


唐傘「おや、主様なら恐れず…とはならんのか。そうか、それほどの物か」


「…俺とて楽しみ半分、畏怖半分よ」


桐「拒まぬのですか?」


「なんでも買うのが九十九屋の銘だ。看板に嘘書くにもいかず」


唐傘「八方塞じゃの」


「…まあ、明日になれば分かる。今日は酒は控えて備えるばかり」


唐傘「そうじゃの。何かあるのは明白じゃ」


「はぁ…。恐ろしきかな」


桐「…親方様」


「うん?」


桐「何かあれば私が仕舞いましょう。九十九屋よりも、何も拒まず受け入れるのが箪笥にございます」


「馬鹿を言うな。女一つ守れず何が親方だ」


桐「…ほう。これは…」


唐傘「ああ、歯がゆい歯がゆい。恰好付けおって…!」


「煩い。もう寝るぞ。明日に備えよ」


「…戦う謂れもあると思へ」


…。

…。

…。


客「では、これにて」


「うむ。帰りは気を付けろ」


客「はっはっは。死にませんよ。これで死んでいたら命がいくつあっても足りない」


「そうだと良いが」


客「では…。む…雨か」


「…」


桐「死相が見えますね」


「ああ。看板は出ないと見える」


唐傘「盗まんで良いならそれに越した事は無いがな」


「…はぁ。ああ、恐ろしい」


桐「…まるで玉手箱のようですね」


「開けて老いるだけならどれだけ楽か。これを現界させるなど、命知らずだろうな」


桐「では何故引き取ったのです」


「…看板屋のあの顔を見て心が痛んだ。いや…もしくは…」


唐傘「…魅せられたか」


「…桐。どう見る」


桐「恨みは絶えずして、人世牛耳る九重の、尾々は往々、忌らえる…と言いましょうか」


「…唐傘。暖簾を外せ」


唐傘「良いのか。まだ昼じゃぞ?」


「どうせ客は来ん。この雨はコイツが降らしているに違いない。人除けもしてる事だろう」


唐傘「…外してこようぞ」


桐「…経文らを起こしますか」


「いや、恨みを買われて寝返るとも考えられる。弓は当ててこそよ。返されては言葉も無し」


桐「…」


「よし…開けるぞ」


唐傘「…主様」


「まあ待て、話は後だ」


唐傘「外が騒がしい。どうも、筒抜けのようじゃ」


「うん?石下駄の話がか?」


唐傘「違う。なんの拍子か分からぬが、刀の鞘から身の飛び出す奇事よ」


桐「鎌鼬の類…妖の仕業に違いありませんが…もしや…」


唐傘「…誰が斬られたかは見もせんわ。胸糞悪い」


「…今聞きたくなかったな」


唐傘「…よもや。とも思わぬ。コイツの所業じゃろう」


桐「…これ程までに近づく者へと不幸を招く物も珍しいですね」


「…どうする。看板屋はおおよそ戻らぬ。さりとてこれを売ろうものなら、俺とて筒抜けやも知れん」


桐「…現界し、恨み晴らさはいかがに…」


「無い。恨みなど、根絶やしだけだろう」


唐傘「…」


桐「…」


「よし、開けるぞ。備えよ」


桐「仕舞の準備はとうに」


唐傘「守ってやろう」


「…っ」


桐「…まあ、何も起こらないとは思いました」


唐傘「…流石に現界させねば何も起きぬか」


桐「そうでしょう。祟り殺す為には、魅せて手に取らせる必要がありましょう。見れば牙、なぞ、誰も取りませぬ」


「ふぅ…。だが、これだけでかなりの気心をすり減らした」


桐「後は現界させるのみ…」


「まあ待て。まずはじっくり見てやろう。ふむ…なるほど、石遊下駄とはこう言ふ物か…」


唐傘「漆黒に塗られ、鼻緒は赤。うむ、綺麗なもんじゃ」


桐「花の模様も美麗にございますね」


「…だと言うに、この軽さはなんだ。履いてくれと言わんばかりだ。履けば身も軽く感ずる事だろう」


桐「惑わされなきよう」


「ああ。…桐。それでは呪文を語ろうか」


桐「かしこまりました…。あっ」


唐傘「ん…」


「なんだ。どうした」


桐「…申し上げにくいのですが…」


「言え。怖い」


桐「…親方様は今、呪われました」


「…はっはっは。嘘を言え」


唐傘「…これは…洒落にもならんの」


「…本当なのか…?」


桐「ええ。黒い糸がしっかりと、はっきりと見えまする」


「…」


「はぁ…なんという…」


唐傘「主様。これは本当に危うい。命に関わる位の物ぞ」


「…丁度、経文らの浄化に…と、あの寺へ行く算段があった。乗じようぞ」


桐「…ああ、恐ろしい声がします」


「…俺には聞こえんが」


桐「深く深く、ただただ親方様を地獄に引きずり込む声にございます」


「…明日、早速向かうぞ」


唐傘「…流石の物好きもこれは喜べんか」


「死の告を喜ぶのは仇のみよ」

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九十九集 ドリメタ @dreammeter

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