第5話 夫婦の小芝居

 柏木邸で、清人が同居を始めてまだ一週間ではあったが、既に清人は何年もこの屋敷の住人であるかの如く、周囲と和やかに会話しつつ、食堂で夕食を食べていた。しかしその最中に、小さな事件が起こった。


「……っ、きゃっ!」

 何やら真澄が小さな悲鳴を上げた為、長いテーブルの向かい側に座っていた両親が、怪訝な顔で声をかけた。


「どうしたの?」

「真澄、何をやっている」

「すみません。考え事をして、手元が疎かになっていました」

 皿にナイフを置こうとして、何かの弾みで取り落とし、テーブルと膝の上を経由して床に落としてしまったらしい事が分かった家族は、何事も無かったかの様に食事を再開したが、ただ一人、真澄の夫である清人は、硬い表情で問いかけた。


「大丈夫か?」

「ええ、服がちょっと汚れた程度よ。松波さん、すみませんが新しいナイフを持ってきて貰えますか?」

「はい、畏まりまし」

「いえ、結構です」

 食堂に控えていた使用人の名前を呼んで真澄が交換を頼むと、相手は即座に応えようとしたが、何故かそれを清人が遮った。その為松波と真澄双方が、怪訝な視線を清人に向ける。


「清人様?」

「清人? 新しい物を持って来て貰わないと、食べられないんだけど?」

「大丈夫だ。俺が食べさせてやる」

「え?」

 女二人は当然の疑問を口にしたのだが、清人はそれには構わず立ち上がって自分の椅子を真澄の椅子の近くに引き寄せ、更に自分のナイフとフォークで真澄の皿のミートローフを切り分けると、一口分をフォークで刺して、真澄の口元に持って行った。


「ほら、口を開けて。あ~ん」

 すこぶる真顔での、その行為を目にした他の者達は、黙って手と口の動きを止めた。そして一方の当事者である真澄は、盛大に顔を引き攣らせながら問いを発する。


「……清人? どうして私が小さい子供のように、食べさせられないといけないわけ?」

「また真澄の腹にナイフが落ちて、刺さったり切れたりしたら、子供が驚いて流産するかもしれないだろうが。今後一切、真澄は食器類を持つな」

「清人、変な冗談は」

「俺は本気だ」

 自分の隣の席の真澄とその奥に座る清人とのやりとりに、浩一は本格的に頭痛を覚えた。


(清人と同居し始めたこの一週間で、清人の姉さんに対する過保護っぷりは分かっていた筈だったが……。日を追う毎に悪化して、段々馬鹿になっている気がするのは、俺の気のせいだろうか?)

 浩一が心の中でそんな自問自答をしている間に、真澄は助けを求めて周囲を見回した。


「お、お祖父様……」

「……仲が良くて結構じゃの」

「お父様……」

「外ではするなよ?」

「お母さ」

「松波さん、ナイフは良いから私の携帯を持って来てくれる? お兄さん夫婦のラブラブっぷりを、是非とも清香ちゃんに送ってあげないと!」

 角の席の祖父には心なしか顔を逸らされ、父には真顔で釘を刺され、母親には助けを求める以前に、清人の行為を煽るような事を言われてしまった真澄は、最後に涙目で浩一を振り返った。


「……浩一」

 姉の、その情けない表情を目にして、とうとう浩一の堪忍袋の緒が切れた。


(何かもう、毎日忍耐力の限界を試されている気がするぞ。この脳天気野郎がっ!)

 そうして皿にナイフとフォークを置いてから、浩一は静かに口を開いた。


「清人……、今すぐ止めろ。姉さんが恥ずかしがっているから。松波さん、急いで新しいナイフを持って来て下さい」

「は、はいっ!」

 その有無を言わせぬ口調に、救われた様な表情で松波が食堂を出ていき、清人は不機嫌そうな表情を隠さないまま、浩一に文句をつけた。


「邪魔をするな浩一。真澄の世話は俺がする」

「それは止めん。ただ常識的な判断と行動をしろと、言っているだけだ」

「十分、常識的だろうが。ナイフとフォークは凶器になり得るんだぞ?」

「お前は食事時に、乱闘騒ぎが起きるとでも言うつもりか!? 第一、お前と姉さんの子供なら、腹の上から何が降ってきても余裕で弾き返すに決まっているだろう! ひょっとしたら姉さんに向かってトラックが突っ込んで来ても、気合いでトラックを跳ね飛ばす位は、するんじゃないのか!?」

 売り言葉に買い言葉の末、真顔で力説した浩一に(流石にそれは無理だろう)と他の者達は半ば呆れたが、清人は少しの間黙り込んでから、小さく頷いて納得した。


「それもそうだな。分かった、真澄。注意して食べるんだぞ? また落としたら、それ以降真澄の食器類は、全てプラスチック製で揃える事にするからな?」

「分かったわ」

 うんざりしつつも清人が取り敢えず納得して席を戻した為、真澄は浩一に目配せで感謝の意を伝えた。それに浩一は苦笑いで返しつつ、密かに溜め息を吐き出す。


(全く……。姉さんと結婚できて嬉しいのは分かるが、いい加減そろそろ落ち着いてくれ)

 そんな小さな騒動を含む夕食が終わり、各自がそれぞれの部屋に引き上げてから、雄一郎の書斎を真澄が訪れた。


「お父様、今、お時間は大丈夫ですか?」

「構わんが……、どうかしたのか? 真澄」

 ドアの陰から控え目に顔を覗かせた娘を雄一郎が怪訝な顔で招き入れると、書き物机の横に立った真澄が、神妙に口を開く。


「実はお父様に、お願いがありまして」

「うん? 何だ?」

 取り敢えず手近な椅子に座らせてから促すと、真澄は凄く言いにくそうに話し出した。


「浩一の事ですが……、その、最近親戚筋から、色々言われているのではと思いまして。上の私が漸く結婚しましたから……」

「ああ……、確かにそういう話はチラホラ聞くが。それが?」

「お父様は私に関しては、東成大合格で賭をして負けた為、ずっと縁談を勧めたりしませんでしたから、それなのに浩一にだけ勧めるのは不自然だと考えて、今まで浩一に縁談を勧めてこなかったんですよね?」

 そんな風に真澄が確認を入れてきた為、雄一郎は少々意外に思いながら、真澄に問い返した。


「勧めてこなかったのは事実だが……。真澄、お前清人から、浩一の事について、聞いていないのか?」

「清人から? 何の事をですか?」

「……いや、何でもないんだ」

 不思議そうに問い返された雄一郎は、慌てて誤魔化しつつ、清人について改めて頼もしく思った。


(ほう? てっきり真澄にベタ惚れらしい彼の事、とっくにあの事情も真澄に筒抜けかと思っていたが……。やはりそれとこれとは別、と言う事か。確かにそれ位信用が置ける人間でないと、家に入れるわけにはいかんがな)


「お父様? どうかしましたか?」

 急に押し黙った父親を不審に思った真澄が声をかけ、それで我に返った雄一郎が、慌てて話の続きを促す。


「あ、いや、何でもない。それで頼みとは何だ?」

「その……、他所から色々言われても、浩一には無理に結婚を勧めないで欲しいんです。浩一はもう判断が付かない子供じゃありません。これまでは偶々縁が無かっただけで、これから幾らでも良い結婚相手と出会える機会は、あると思いますから」

 どこか後ろめたそうに口にした真澄の態度で、雄一郎は真澄の考えを薄々察し、小さく笑いながら問い返した。


「自分が結婚したせいで、今度は弟に矛先が向きそうで気が咎めるのか?」

「はい、そんな所です」

 神妙に真澄が頷いたのを見て、雄一郎は笑って請け負う。


「そんな事を、一々気にするな。それこそ浩一は子供では無いんだから、うるさ方が何を言って来ようが、今更気にもしないだろう。勿論私も、無理強いするつもりは無いから安心しろ」

「そうですか。それを聞いて安心しました」

「話はそれだけか?」

「はい、お邪魔しました」

 ここに来た時の神妙な顔付きとは一転して、明るい表情で出ていく真澄を笑顔で見送ってから、雄一郎は真顔になって考え込んだ。


(浩一の縁談か……。今まで意識的に避けて来たからな。確かに真澄が片付いた以上、周囲からの話が増えるのは確実か)

 難しい顔つきで幾つかの事項について考えてから、雄一郎は内線用の受話器を取り上げた。

 それから少しして、雄一郎の書斎を出て廊下を歩いていた真澄は、前方からやってくる清人を見つけて声をかけた。


「清人、どこに行くの?」

「早速、お義父さんに内線で呼び出された。上手く誘導できたようだな、真澄」

「それなら良かったわ。じゃあこのままもう一人、引っ掛けてくるわね?」

「ああ、宜しく頼む」

 すれ違いざま互いに笑顔で短く言葉を交わし、二人はそのままそれぞれの目的の場所へと向かった。そして清人はつい先ほど真澄が出てきたばかりの、書斎のドアをノックする。


「失礼します」

「ああ、入ってくれ」

 そうして入室した清人は、そ知らぬふりで呼びつけられた理由を尋ねた。


「何かご用でしょうか? お義父さん」

「清人……、お前真澄には、浩一の事を話していないようだな」

 それを聞いた清人は、如何にも心外といった表情を見せる。

「……話す理由が有りますか? 真澄に余計な心配をかけたくはありません」

「いや、文句を付けているわけではないんだ。黙っていてくれて、寧ろ感謝している」

「そうですか」

 そこで会話が途切れ、何とも気まずい空気が室内に漂ってから、雄一郎が控え目に問いを発した。


「それで……、どうだろうか? 最近の浩一の具合は?」

「幾ら男同士でも、そういう事は明け透けに語る内容ではありませんし、主治医は確かに私と浩一共通の先輩ですが、医師としての守秘義務がありますから、そう簡単には漏らしてはくれません」

「確かに、そうだろうな。すまん、無理を言った」

 困った様に答えた清人に、雄一郎もそれは道理だろうとあっさり引っ込んだ。そこで逆に清人が、一歩踏み込む形で話を進める。


「ですが……、もう日常生活には全く支障はありませんし、ここら辺で環境を変えてみるのも良いかもしれません。先輩には近いうちに俺の方から連絡を取って、医師の判断でできるアドバイスとかを貰ってみます」

「そうか。宜しく頼む」

 神妙に頷いた雄一郎を慰める様に、ここで清人が控え目に提案をしてみた。


「それから……、見合いとか縁談の話を持ち出す位なら良いのではないでしょうか? 取り敢えず意識を向けるだけでも、違うと思いますし。どう反応するのか見ても良いかと」

 それに幾分救われたように、雄一郎が僅かに表情を明るくしながら、清人に同意を示す。


「そうだな。そうしてみよう。あれから軽く十年は経過しているし、案外、前向きに話を聞いてくれるかもしれん。清人、これからも宜しく頼む」

「今更ですよ、お義父さん。それで、お話はこれだけですか?」

「ああ、戻って良いぞ?」

「それでは失礼します」

 最後は互いに笑顔で会話を終わらせてから書斎から出た清人は、眉間を指先で揉み解しながら自室に向かって廊下を進んだ。


(さて、これで事態がどう動くかだな……。浩一の方も上手くやってくれよ? 真澄)

 そんな風に清人に期待をかけられた真澄は、雄一郎の書斎から直に浩一の私室へと足を運び、室内に招き入れられていた。


「一体どうしたんだ? 姉さん」

「ちょっと浩一に話があるんだけど……、何? その変な顔は?」

 椅子を勧められて落ち着いたのも束の間、思いきり不審な顔で眺められた為、真澄は気分を害して顔を顰めた。すると浩一が困惑気味にその理由を説明する。


「いや……、ちょっと意外だな、と。せっかくの休日だから、清人が姉さんを離さないで部屋でベタベタしてると思いきや、フラッと俺の部屋に来て、話があるなんて言い出すから」

(私達、周囲にどれだけバカップルだと思われているわけ?)

 真顔で弟にそんな事を言われた真澄は項垂れたが、何とか気を取り直して顔を上げた。


「そんなに始終、くっ付いているわけじゃ無いわよ? 全くもう」

「ごめん姉さん。それで? 話って何かな?」

 そこで真澄は、申し訳なさそうな表情を取り繕いつつ、話し出した。


「その……、さっきの食事の時もそうなんだけど……、最近清人の言動が一々非常識過ぎて、浩一にしたら色々気分を害する事が有るんじゃないかと思って……」

(ああ、確かに気分を害するどころか、神経を逆撫でされてる気分だがな。でもこれは姉さんには全く責任は無い事だし……)

 しかし浩一はそんな風に思った事は口には出さず、苦笑いしながら真澄を宥める。


「確かに清人の言動には、色々思う所はあるけど、昔からの付き合いで、あいつの非常識な所にはある程度免疫が付いているさ。第一清人の一連の行動について、姉さんが責任を負う事は無いから」

「そう? でも、私が結婚した事で色々言われるようになっていない?」

「言われるようになったって……、何を?」

「だから、その……。親戚筋から『早く結婚しろ』とか『見合いしろ』とか……」

(……ああ、そういう事か。なるほどな)

 一瞬意味を捉え損ねた浩一だったが、重ねて説明されて真澄の言わんとする事が分かった。しかしそれに気負う事無く、浩一は再度真澄を宥める。


「別にその手の話が激増したって事は無いし、そもそも姉さんが気にする話では無いから」

「でも……」

「もし今後増えるって事なら、今までは未婚の姉さんが矢面に立って、俺の分まで色々言われてたって事だろう? 不甲斐ない長男で、悪かったと思ってる」

 これは以前から思っていた事であり、浩一は真澄に向かって神妙に頭を下げた。すると真澄が慌て気味に話を続ける。


「そんな事は良いのよ。でも浩一に誰か好きな人が居るんじゃ無いかと、最近心配になって。そういう人が居るなら周りから縁談をごり押しされないように、早目にお父様に言っておいた方が良いんじゃないかと」

「姉さん?」

「何?」

 急に自分の話を遮った浩一に真澄は怪訝な顔をしたが、浩一は負けず劣らずの、どこか探る様な視線を真澄に向けた。


「清人から……、俺の話を聞いてないのか?」

「聞くって……、何を?」

「……いや、何でもない」

(意外だったな……。あのベタ惚れぷりっからすると、とっくに俺の事情も姉さんには筒抜けかと思っていたんだが。こんな事を口にしたら『見損なうのも大概にしろ!』とあいつに怒鳴られそうだ)

 思わず清人を見直しつつ、密かにその反応を想像して失笑した浩一に、真澄は怪訝な視線を向けた。


「どうかしたの? 急に黙り込んだと思ったら笑い出して」

「ごめん、ちょっと思い出し笑いを。それで、何の話だったっけ?」

「だから、もし交際していないまでも気になっている人が居るなら、ちゃんとお父様に話をしておいた方が良いんじゃないかと思うの。はっきり聞いてはいないけど、お父様とお母様が見合いをさせるとかさせないとかの話をしていたみたいだから、気になってしまって……」

 そう言って神妙に、嘘八百を並べた真澄に浩一は完璧に騙され、申し訳なさそうに言葉を返した。


「そうか。姉さんに気を遣わせてしまったみたいで、悪かったね」

「ううん、そんな事は良いの。ただ……、浩一は真っすぐな性格だから、今までそんな事は無かったけど、お父様と本格的に揉めたりしたら即刻家を飛び出しそうだし。私達の事で居心地が悪くなっているなら尚更かと思って、ちょっと心配になったのよ」

(そうか、それで心配して様子を見にきたわけか。あんなバカップルぶりを披露した後だしな)

 真澄の訪問の理由が納得できた浩一は、一瞬脳裏にある人物の顔を思い浮かべながらも、笑って言ってのけた。


「大丈夫だよ。今のところ特に好きな人は居ないし。もしそんな人ができたら、真っ先に姉さんに相談を兼ねて報告するから安心して」

「そうなの? それなら嬉しいわ」

「勿論、縁談の一つや二つ父さん達から持ち掛けられたって、即座に揉めたりしないよ。もう良い大人なんだし」

「それを聞いて安心したわ。急に押し掛けてごめんなさい」

(俺も嘘を吐くのが上手くなったな。昔は姉さんに対して嘘を吐くなんて、想像も出来なかったが)

 安心した様に微笑む真澄を見ながら、浩一はどこか自嘲気味の笑みを浮かべた。


「じゃあ話が終わったのなら、早く戻らないと清人が『真澄を独り占めして良いのは俺だけだ』って怒鳴り込んで来るんじゃないか?」

「もう。清人の事をどんな人間だと思ってるのよ?」

「これ以上は無い位的確に、あいつの人間性を表現してみたと思ったけど?」

 そんな事を言いつつ、浩一は首尾良く真澄を自室に引き上げさせてから、椅子に座り直してひとりごちた。


「縁談、か……」

 そして何も無い壁にぼんやりと視線を向けながら、考えを巡らせる。


(いい加減、三十過ぎたしな……。確かに今までは姉さんの存在が防波堤になってて、周囲からさほど言われて来なかったが)

 その事実を確認して、浩一は思わず重い溜め息を吐いた。


(父さんもそろそろ痺れを切らしたって事か。……まあ、無理はないし、責めるつもりは毛頭無いがな)

 そしてゆっくりと眼鏡を外し、額に手をやって前髪を指で軽く横に流しながら、目を閉じて考え込む。


(家、か。でも姉さんと清人には、安心して任せられる。本人達は確実に嫌がるし、文句の一つも言われるだろうが。それだけは気が楽だな。あいつが姉さんと結婚してくれて、本当に良かった……)

 そしてそのまま暫く考え込んだ浩一は、ある決意を固めた。

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