しゃらくさいこと

 公募、出しました。

 質はともかく(念のため、手は抜いてないです。書く手と見る目が不均衡なので)2週で10000字近くの小説を書けるようになり、終わらせることができた、というのが、何よりでした。変な話ですが、わたしも回復するんだな、と驚いています。いくつになっても傷は治るんだ、みたいな、あたりまえのことが自分にも起こって、自分もそれに漏れないヒト科だったのか、と遅れて感じられるような。


 発想力があって、思ってもみない飛躍があって、文章がたくみな書き手さんは、世の中にもう、ほんとうにたくさんいる。短時間ですごいものを書いてこられる。


 ただ、それをあまりうらやましいと思わない場面も正直ある。それは、うまいが故の自動筆記や、筆の納めぐせのようなものを感じる時。もちろん、筆は納めないと小説は終わらないので、どういった形であれ納めねばならぬのですが。あ、念のために言いますと、いわゆる開かれた物語の終わり方の話ではなくて。あえてオチをつけるなというテクニカルな話でもなくて。

 例えるなら、毛筆で筆を丸めた瞬間、作品のサイズとか懐が決まってしまう感じがあるのだけど、その丸め方が意図的にすぎると感じるとき。世界が決まって、狭くなってしまったと感じるとき。

 わかる人にだけわかればよいという態度を感じるときも、たとえそれがかすかでも、とれない冷凍臭のように思える。その点商業作家は、臭みを抜くのに腐心しているのだと思うし、実際、長けている。編集者と共に作り上げていっていることもあるだろう。紙になった本を読んで、冷凍臭を感じる機会はほとんどない。もちろん、わたしの力不足で読めなかった本はたくさんある。むしろありすぎる。ただ誤解してもらいたくないのは、自分が読めなかったからこの作品は読者を拒否しているとか、そういうレベルの話ではないということ。もっと、ふわっと匂いたつようなことがらについて、話している。


 たくみで、評価も高い人で、だけどその作品が上記の理由で自分にはあまり良いと思えない時、かなり高い確率で出る第一声は「しゃらくさい」。読めていないときに出る第一声は、「わからない」。合わないときは、数行で「無理」。


 こんな調子だから、講評などいまの自分ではできそうもない。されている方、ほんとうに凄い。これは決して揶揄ではない。柔軟な土台をつくる教養と、磨かれた審美眼、開かれたまなざし、言語化のむずかしいような繊細なところも微細な味わいの違いも表現できる力、それらのなせるわざだと思っている。


 自分には絶望的に読書量がたりていない自覚があって、好きな本の話で盛り上がりはじめるといますぐ荷物をまとめて帰りたい気持ちになる。そんな読者はお呼びでない世界に首を突っ込んでいるのかもしれない。だが、自分の深部が訴えてくる感覚を信じてもいる。それを信じているから、この目に手が追いつくぐらいに書き続けなければという思いがある。

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粗品ですが 和泉眞弓 @izumimayumi

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