第43話 清人流、矛の収め方

「はあぁ、良く寝たぁ! 早起きすると、気持ちが良いわね。今日も一日、頑張ろうっと!」

 試験期間突入の月曜日。まだ薄暗い、外の景色などお構いなしに、清香はこれ以上は無い位、爽やかに朝の五時にベッド上で体を起こした。そして手早く着替えてから机に向かい、今日試験を受ける予定の教科の最終確認を始める。

 そして時計が七時になった時、清香は無言で椅子から立ち上がり、リビングの方へ歩いて行った。


「おはよう、お兄ちゃん」

「おはよう、清香。朝ご飯はできているから」

「分かったわ。すぐ食べるね」

 そんないつも通りのやり取りをした二人は、ダイニングテーブルに着き、「いただきます」と挨拶をして食べ始めた。しかしそこから先は延々と無言で咀嚼する、微妙に気まずい雰囲気が漂う。


「……あの、清香?」

「何?」

「まだ怒っているのか?」

 昨夜帰宅してからは、あからさまに怒りをぶつけられた事は無かった清人だったが、時折チクチクと嫌味を言われ、結構神経をすり減らしていた。しかしそんな清人に向かって、清香が朗らかに笑う。


「怒るって、何が? 私がお兄ちゃんに? 有り得ないでしょう。詳しく言ってみてくれる?」

「……いや、見当違いなら良い」

(やっぱり、まだ怒っているな……)

 はっきり認識させられて、清人は密かに落ち込んだが、ふと気になった事があって清香の全身に視線を走らせた。更に座ったまま体を屈め、テーブルの下を眺める。


「……何やってるの、お兄ちゃん」

 冷え冷えとした声がテーブルの向こう側からかけられたが、上半身を起こした清人は、真顔で清香に告げた。


「清香、その服装で出掛ける気なら、着替えて行った方が良い」

「は?」

「ジーンズにスニーカー。荷物もリュックに詰めて、背負って行け」

「……何なの? いきなり」

「いいから、言う通りにしろ」

 そう言って清香から視線を逸らしつつ清人は食事を続行し、清香も怪訝な顔をしながら食べ続けた。


 それより少し後の時間帯、前夜から全く清香と連絡が取れなくなっていた聡は、清香達が住んでいるマンションの入り口付近で、通勤や通学の為に出て来る住人達から訝しげな視線を浴びつつ、清香を待っていた。

 辛抱強く待つこと、三十分近く。自動ドアが横にスライドして、清香が姿を現す。それと同時に清香は聡の姿を認め、一瞬立ち止まったが、聡はそれに構わず通路の真ん中で、上半身を直角に近い状態にまで折り曲げて声を上げた。


「清香さん! 全面的に俺が悪かった。何度でも謝るから、落ち着いて俺の話……、え? ……はあ? ちょっと!」

 パタパタと自分に向かって駆けてくる足音と気配を察知した聡は、罵倒されるか蹴られるか、または投げられるかと地面を見たまま一気に緊張したが、何故か背中から腰の間を突かれた感じがしてから、背後に走り去る足音を聞いて、慌てて上半身を戻して振り向いた。すると予想に違わず自分を馬跳びして乗り越え、軽快に駅方向に走り去る清香の姿を認めて、唖然となる。

 それに追い討ちをかける様に、中から出て来た清人が軽く拍手をしながら、棒読み口調で呟いた。


「冷静な判断力と、抜群の運動神経。流石、俺の妹だ。革靴のお前では、もう追い付けないな」

「兄さん! 他人事の様な事を言っていないで、少しは清香さんに取りなしてくれても、良いじゃないですか!?」

「他人事だからな。お前もさっさと出社しろ。遅れるぞ?」

「…………くっ!」

 怒りを露わにして文句を言った聡だったが、清人に手で追い払われる真似をされた上、軽くいなされて歯軋りした。しかしいつまでもその場に居るわけにもいかず、重い足取りで職場に向かった。


 そして翌日。

 朝に再び清香を待ち構えていると、清香に先んじて清人が現れた。それに警戒心ありありの表情で、聡が声をかける。

「……おはようございます」

「ああ。……しかし夜に押し掛けず、朝だけなのは誉めてやろうか」

「年度末の決算期で、何かと忙しくて連日残業なんですよ!」

「それは良かった」

「……嫌みですか」

 前日同様、聡が歯軋りした所で、清人がさり気なく移動して聡の横をすり抜けようとしながら素早くその背後に回り込み、羽交い締めにした。


「兄さん、いきなり何を!?」

「うるさい。大人しくこっちに来い」

 そのままの体勢で、清人がズルズルと出入り口から離れた場所に移動すると、壁の向こうから清香の声が微かに伝わってくる。

「お兄ちゃん、行ってきまーす!」

 それを耳にした聡は、怒気を露わにして叫んだ。


「兄さん! 何で邪魔をするんですか!?」

「俺は清香に嫌われたくない」

「本当に血も涙も無い人ですね、あなたって人はっ!」

 盛大に文句を言いつつ、何とか清人の拘束を振り払った聡は、憤然として駅に向かって歩いて行った。


 次の水曜日は、駐車場へ内側からのみ開く扉を使って清人の車に清香が乗り込み、待っていた聡の目の前を無情にも通り過ぎて行ったが、木曜日はいつまで経っても、清香が出掛ける気配が無かった。

 自らの出勤時間も近付いている事から、じりじりしながら聡が待っていると、悠然と中から清人が現れ、信じられない内容の事を口にする。


「清香なら、一時間以上前に出掛けたが?」

「え?」

「早く行って、試験開始前に、友人と一緒に図書室で勉強するそうだ」

 それを聞いた聡は一瞬黙り込んでから、苦々しげに呻いた。


「……兄さん、よくも今まで黙っていましたね?」

「人聞きの悪い。ギリギリには教えてやっただろう? さっさと行かないと、本当に遅刻するぞ?」

「ご親切にどうも!!」

 腹立ち紛れに吐き捨てた聡は、駅に向かって駆け出し、間に合わないと判断したのか流しているタクシーを捕まえて、慌ただしく乗り込んで去って行った。


 そんな四日間が過ぎた金曜日。いつも通り朝食を食べながら、清人は慎重に問い掛けた。

「なあ、清香……」

「うん? なあに? お兄ちゃん」

「その……、あいつに連絡とかは……」

 恐る恐るそう口にした途端、清香の目が物騒に光った。


「え? お兄ちゃん、『あいつ』って誰の事? 浩一さん? 友之さん? 正彦さん? それとも修さんか明良さんか玲二さん? ちゃんと誰なのか、分かるような言い方をしてくれないとね~」

「いや、いい。何でもない」

「そう?」

 そうして黙々と食べ続ける清香を見て、清人も黙って食事を続けた。


 そしてその日は聡の待ち伏せは無く、清香と清人は肩透かしを食らった気分でマンションの出入り口で別れた。そして清人は台所を片付けながら、しみじみ考え込む。


(清香もな……。普段温厚な分、一旦怒るとなかなか収まらないタイプだから。そう言う所は、流石あの香澄さんの娘だ……)

 そんな事を考えつつ、自分は比較的あっさり清香に許して貰った分、聡への当たりがきつくなっている事を自覚していた清人は、この間多少後ろめたい気分を抱えていた為、濡れた手をタオルで拭きながら深い溜息を吐いた。


「仕方がないな……」

 そう心底嫌そうに呟いてから、清人は時計で現在時刻を確認しつつ携帯電話を取り上げた。そして使う事は無いだろうと思いながらも、真澄から一応教えて貰っておいた番号を、多少躊躇しながら選択し、電話をかけ始める。


「……はい、角谷ですが」

 大して待たされる事無く応答があったが、名乗られた名前で相手の居場所が特定できた。


「ああ、やっぱり今の時間は職場か。俺だが、今大丈夫か?」

「……少々お待ち下さい」

 聡が幾分険しい口調で断りを入れ、少しだけ待たされてから再度声が伝わってくる。

「何の用ですか?」

 隠す事無く冷気を伝えてくる聡を、清人は微塵も気にせず話し始めた。


「お前、今日の午後に早退して、一度家に帰れ」

「いきなり何です?」

 その唐突な物言いに、流石に聡が腹を立てた声を返してきた。しかし一方的な、清人の話が続く。


「清香の試験期間は今日までだ」

「はい、以前に彼女から聞いて知ってます」

「十六時半に終了予定だ」

「それがどうかしましたか?」

「清香の話では、最近キャンパス周辺の取り締まりが厳しいそうで、先週どこぞのバカボンが、正門横に堂々と停めていたポルシェが、レッカー移動させられたそうだ」

「良い加減にして下さい! それが何だって言うんですかっ!」

 廊下の隅で周囲の目を憚りながらコソコソと電話を受けていた聡は、本気で苛立ちながら叫んだが、そんな事を考慮しないまま清人が話を続けた。


「だから試験終了時間を狙って、正門の真ん前にお前の車を停めろ」

「は?」

「構内から門に向かって歩くと、嫌でも目に付く様にしろと言っている。もうこれ以上は言わんから、自分で察しろ」

「……………………」

 そこで唐突に黙り込んだ聡に、今度は清人が苛立たしげな声を上げる。


「おい、聞いているのか?」

 その問い掛けに、聡は慎重に問い返してきた。


「それは……、俺に車をレッカー移動される危険を冒して、清香さんが逃げ出さない様な処置を講じろと? 例えば『乗ってくれるまで移動させない』と言うとかですか?」

「最悪、目の前でレッカー移動される無様な事になっても、同情はして貰えるだろうな」

 自分の言いたい内容を汲み取った聡に、清人皮肉っぽく付け加えた。それに笑いを堪える様な声で、聡が応じる。


「貴重なアドバイス、ありがとうございます」

「それと……、その後どこかに寄ってきても構わんが、門限は十九時だ。一分一秒たりとも遅れたら、一生家に立ち入れないと思え」

「……門限は、二十一時では無かったんですか?」

 思わず憮然とした声を発した聡に、清人が平然と言い返す。


「今夜は清香の試験が無事終了したので、清香の好きな料理を色々作る事にしているからな」

 それを聞いた聡は、諦めた様に溜め息を吐いてから、神妙に告げてきた。


「分かりました。時間厳守で清香さんを送っていきます」

「そうか。もしきちんと門限前に送ってこれたら、お前にも食べさせてやってもいい。多目に作るつもりだったからな」

「え? あの……」

 そこで戸惑い気味の声を返してきた聡に、清人が淡々と続ける。


「何か不服でも?」

「いえ、とんでもありません!」

 慌てて否定してきた聡に、清人は思わず口角を上げた。


「そうか。それなら適当に理由を付けて職場を抜けろ。……ただし、間違っても母親がまた病院に担ぎ込まれたなんていう、縁起でもない嘘は吐くなよ?」

「大丈夫です。兄が交通事故で病院に担ぎ込まれたとでも言いますから」

「おい!」

「冗談です。それでは失礼します」

 冗談では無い内容を口にされた清人は、思わず怒りの声を上げたが、聡は笑いを含んだ声であっさりと通話を終わらせた。そして通話が途切れた携帯を見下ろして、清人が忌々しげに呟く。


「あいつ……、やはり気に入らん……」

 清香を巡る男二人の紛争は、未だ収束する気配は無かった。


 同じ頃、試験の休憩時間に教科書の最終チェックをしていた清香に、隣に座っていた朋美が不審そうに声をかけた。

「……ねえ、清香。試験が始まってからずっと思ってたんだけど、あんたこの試験期間中、変じゃない?」

「ん~? 変ってどこが~?」

 朋美の言葉に一瞬ピクリと反応したものの、素知らぬ顔で教科書を捲る清香に、朋美は呆れ気味に言葉を継いだ。


「凄いピリピリしてるでしょ。別にしゃかりきになって試験に挑まなくても、あんたの成績なら、単位を落とす危険性は少ないのに」

「単に、何事も油断は禁物って事よ」

「そうなの? それなら良いんだけど……。ところで春休みになったら聡さんとデートの約束でも」

「朋美!!」

「はっ、はいっ!」

 そこでいきなり清香が分厚い教科書をバタンと勢い良く閉じながら、咎める様な口調で朋美の名前を口にした為、朋美は反射的に返事をし、周りの者達は何事かと視線を向けた。そんな中、険しい顔を見せていた清香が、にっこりと笑いながら朋美に言い聞かせる。


「他人の迷惑だから、試験に集中しようね?」

「……分かりました」

 そしてコクコクと頷きながら、朋美は確信する。

(これはやっぱり聡さんと何かあったのよね。まさか全面撤退した訳じゃ無いとは思うけど……、後から清人さんに確認してみないと)


 そんな決意をしながら、横に座る清香の顔を慎重に窺っていた清香だったが、携帯電話がメール着信をバイブで知らせてきた。

 試験開始時にはまた電源を落とす為、今のうち内容を確認しておこうかとバッグから取り出し、受信内容を確認した朋美は、無言で首を捻る。


(何なんだろう、この意味不明な指示。相変わらず清人さんのやる事って、凡人には理解不能な事が多いわよね)

 そうは思ったものの、清人からの指示内容は大した手間や労力がかかるものでは無く、帰りにそれを実行する旨を頭に叩き込んで、朋美は携帯電話の電源を落とした。

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