第31話 アップダウン・バレンタイン

 そして迎えた二月十四日。

 予め電話とメールのやり取りで、聡が抜け出しやすい時間帯を確認した清香は、夕刻に小笠原物産本社ビルの前に、朋美と共にやって来た。


「……ねえ、朋美。わざわざ会社に押し掛ける必要ってあるの? 何だかストーカーっぽくない?」

「現に付き合ってるんだから、ストーカーなんかじゃないでしょ。今更、何を言ってるの!」

「だって……」

 そんな押し問答をしていると、社屋から「清香さん!」と声をかけながら、聡が小走りにやって来た。そして清香の所に来た聡は、横の朋美の姿を認めて僅かに顔を引き攣らせるが、いたって普通の口調で挨拶する。


「清香さん、お待たせ。やあ、緒方さんも久し振りだね」

「はい、大学祭以来ですね。……ほら、清香。グズグズしない! 相手は仕事中なんだから」

「う、うん」

 ドンッと背中を押され、聡の方に一歩足を踏み出した清香は、幾分心配な顔で持っていた小さめの紙袋を、彼に向かって差し出した。


「あの、聡さん。電話でお話した様に、お仕事中に呼び出して申し訳無かったんですが、チョコを持って来たので良かったら貰って頂けませんか?」

 それに聡は僅かに怪訝な顔をして見せた。


「えっと……、本当にくれるの? 先生に、何か言われなかった?」

「何かって……、何をですか?」

 益々清香が不安そうな顔になってきたのに気付いた為、聡は慌てて笑顔で手を伸ばし、その紙袋を受け取った。


「いや、何でもないんだ。ありがとう頂くよ。それにわざわざ会社まで来て貰って悪かったね。今度埋め合わせをするからね?」

 上機嫌で聡が受け取ってくれた為、清香も安堵して漸く表情を緩めた。

「そんな事、気にしないで下さい。聡さんから誘われても色々あって断ってる事が多いし……。今度はなるべく聡さんの方の都合に合わせますね?」

「そう言って貰えただけで嬉しいな。それじゃあ今度の週末にでも」

 満面の笑顔で、早速清香に誘いの言葉をかけようとした聡だったが、ここで静観していた朋美が容赦なく割り込んだ。  


「じゃあそういう事ですので、お邪魔様でした! 失礼します! ほら、帰るわよ、清香」

 むんずと清香の腕を掴み、最寄駅に向かって歩き出した朋美に、清香は慌てて聡に別れの言葉を告げる。


「え? あ、そ、それじゃあ、聡さん、失礼します」

「ああ、また連絡するから」

 半ば強引に朋美に引き摺られて帰って行った清香を、呆然と見送ってから、聡は苦笑いして社屋ビル内へと戻った。そしてエレベーターに乗り込んで、一人きりの空間で手提げ袋を覗き込みながら嬉しそうに独り言を漏らす。


「うん、元気が出てきたな。……しかし、この保冷バッグの様な物はなんだ? 職場に持って来るから中身が見えない様に、気を遣ってくれたのかな?」

 そんな事を呟きながら、聡は顔を引き締めつつ部屋へと戻ったが、何故か戻った途端、部屋中の人間の物言いたげな視線を浴びて、僅かに怯んだ。更に自分の机の所に、同じ課の主だった面々が集まっているのを見て困惑する。


「あの、どうかしたんですか? 皆集まって」

 不思議に思いながら声をかけると、上司達は揃って黙り込んでおり、恐る恐る隣の席から高橋が説明してきた。


「角谷、ついさっき、お前宛てに社に届いた宅配便を、総務の子が届けに来たんだが……」

「荷物? 最近会社宛てで、何かを頼んだ記憶は無いんだが」

 怪訝に思いながら人垣を掻き分けて机を見ると、確かに小さいダンボール箱が乗せられているのが目に入った。しかし心当たりの無かった聡は首を傾げる。そこで高橋がもの凄く言い難そうに、聡に注意を促した。


「その伝票の……、送り主欄の名前、見てみろ」

「名前……、って! はあ!?」

 そこに真澄の名前と柏木産業本社ビル所在地の住所がしっかりと記されていた為、聡が驚きの声を上げた。そして呆然とする間もなく、背後からおどろおどろしい声が響く。


「角谷……、どうしてここに“あの”柏木真澄の名前が書かれているのか、その理由を教えて貰えないか?」

 その声が、課長の杉野の声以外ではありえない為、聡は蒼白になりながら慌てて振り返った。 


「いえっ、課長! 俺にも何が何だかさっぱり」

「しかも品名が“チョコ”だと? ふざけるなよ、角谷っ! まさか一連のあれも、お前が全て漏らしたんじゃあるまいな!?」

 聡に掴みかかりながら絶叫した杉野に、聡は必死になって弁解し、周囲の者が慌てて引き剥がしにかかる。


「課長! それは誤解です! これは何かの間違いか、嫌がらせでっ!!」

「ちょっと落ち着いて下さい、課長!」

「冷静に話し合いましょう!!」

「角谷! 一体どういう事なんだ、これはっ!」

 その日から聡は暫くの間、職場で冷たい視線に晒される羽目に陥ったのだった。


「……はい、柏木」

「何て事をしてくれたんですか! あなたって人はっ!!」

 出先から帰社したのとほぼ同時に、鳴り響いた携帯に応答した真澄は、いきなり耳元で叫ばれた為、反射的に携帯を離しながら顔を顰め、次いで怒りの声を上げた相手が分かって、嬉しそうに顔を緩めた。


「ああ、ちゃんと届いたのね」

「『届いたのね』じゃあ、ありませんよ! 運悪く、偶々席を外した時に机に持って来られて、上司や同僚に見咎められて、えらい目に合わされました! あなたは俺に、何か恨みでもあるんですか!?」

 憤慨しきった訴えに微塵も恐縮する事無く、真澄は飄々と答える。


「特に恨みは無いけど……、今回、清香ちゃんのチョコに何も仕込まれたりせず、安心して食べられるのは私のおかげなのよ? 感謝される事はあれ、文句を言われる筋合いは無いわね。それ位の嫌がらせ、甘んじて受けなさい」

「どうしてですか!」

「それが、私の筋の通し方だからよ。言ったでしょ? 例の件を引き受ける時に、あなたに借りは無いし、どちらかに一方的に肩入れはしないって」

 そんな主張を繰り出した真澄に、聡は一瞬黙りこんでから慎重に問いかけた。


「……ちょっと待って下さい。つまり、兄さんからの嫌がらせを受けない代わりに、あなたからのそれを受けろと?」

「当たり前じゃない」

「どうしてそうなるんですか!? 全然意味が分かりません!」

「分からなくて良いわよ。それじゃあね」

 電話の向こうでまだ何やら喚きかけた様だったが、真澄はそれを無視して通話を終わらせた。そして苦笑しながら、携帯をしまおうとする。


「よっぽど職場で絞られたらしいわね。まあ、若い頃の苦労は買ってでもしろって言うし、お姉様からの愛の鞭だとでも思いなさい」

 そこで再び携帯が鳴り出し、真澄が(まだ文句を言い足りないわけ?)と思いながらディスプレイを確認すると、別な人物からの着信だった。それを認めて思わず小さな笑みを零す。

「あら、重なるわね」

 そしてすぐに応答ボタンを押した。


「もしもし?」

「佐竹ですが……、今大丈夫ですか? 真澄さん」

「ええ、平気よ。出先から戻って、部屋に移動中なの」

 そう言いながら真澄は廊下を歩き、付き当たりの窓の所にまでやってきた。すると清人が電話越しに、困惑した声を伝えてくる。


「さっき自宅に届いた物があるんですが……、何ですか? これは」

「あら、まだ開けていないの?」

「開封して、包装も解いたから、電話したんです」

「それならご覧の通り、ブラウニーだけど。それが何か?」

 淡々と告げる真澄に、清人がどこか疲れた様な声を出した。


「……すみません、俺はこれを送りつけた意図を知りたいんですが」

「だって清香ちゃんがトリュフを作るって言うから、違うチョコ菓子の方が良いかと」

 笑いを堪えながら伝えた真澄に、清人が恨みがましく言ってくる。


「真澄さん、何かの嫌がらせですか?」

「嫌ね、邪推しないでくれる? 最近、随分疲れていそうだから、甘い物でも取った方が良いんじゃないかと思っただけよ。念の為、清香ちゃんにも味見して貰ったし、心配いらないわ」

「それはどうも、ありがとうございます」

 とうとう我慢できず、小さく笑いながら断言した真澄に、清人も苦笑いの風情で答えた。ここで真澄が爆弾発言をする。


「それで、もう一つは聡君にあげたから」

「……は? あいつに、ですか? どうしてそんな事を」

 途端に困惑と怒りが入り混じった声を出した清人に、真澄は飄々と言ってのけた。

「職場にね。送り主欄は私の名前で、品名はチョコと記入して今日送りつけたの。ついさっき、熱烈な“お礼”の電話を貰ったわ」

 真澄のその台詞の意味を少しの間黙って吟味した清人は、小さく笑ってから、呆れた様な声を出した。


「…………随分、意地の悪い事をしますね」

 それを聞いて、再び楽しそうに言い出す真澄。

「若い子にはあまり嫌われたくは無いけど、この場合仕方が無いわ。そういう訳で、彼は結構周りから絞られたみたいだから、清香ちゃんがチョコを渡して拗ねてるのは分かるけど、機嫌を直して大人しくそれと、清香ちゃんのチョコを食べていなさい」

「どこまで命令する気ですか」

「せっかく清香ちゃんがあなたに作ったのに、『あいつと同じ物なんて』って苛つかないで、美味しく味わって食べて欲しいからよ。分かった?」

 押しつけがましく言った台詞にも、清人は気を悪くする風も無く、大人しく了承の言葉を返した。


「分かりました」

「それなら良いわ。それじゃあ失礼するわね」

 そこで真澄は会話を終わらせ、耳から携帯を離してそのディスプレイを見下ろした。


「全く、世話が焼ける事……」

 呆れた様に溜息を吐いてから真澄は携帯をしまい込み、自分のオフィスへと戻って行った。

 そして清人は清人で、携帯を耳から離し、目の前のテーブルに置かれた小さな箱の中身を見詰める。


「なるほど。これがあの人流の筋の通し方、と言うわけか……」

 セロファン紙に一つずつ包まれたブラウニーを、清人が真顔で一つ摘まみ上げ、次の瞬間苦笑いの表情になった。


「全く……、完全に裏をかかれたな。まあ、偶にはこんなのも良いか」

 そんな事を呟きながら、何となくそれを掌で転がしていると、清香が帰宅してリビングに姿を現した。


「ただいま。あれ? それって真澄さんが作ったやつだよね?」

「ああ、最近疲れ気味みたいだから、これを食べて英気を養え、だそうだ」

 不思議そうに問われて、清人は小さく肩を竦めながら答える。それを聞いた清香は、怪訝な顔をした。


「なんだ、それなら宅配便なんかで送らないで、作った時にそう言って渡せば良いのに、真澄さんったらどうしてそんな事をするのかな?」

「あの人には、あの人の考えがあるんだろう」

「まあ、そうだけどね。……でもそうなると、もう一つは誰にあげたんだろう。本当に、気になるなぁ」

 空中に視線を彷徨わせながらそんな事を呟く清香に、清人は失笑しかけながらも、何とか笑いを堪えた。


「さあ、誰だろうな。清香、悪いが珈琲を淹れてくれるか?」

「うん、ちょっと待ってて。私のチョコも今渡すね」

「ああ、嬉しいな」

 荷物を置き、笑顔でキッチンに向かった清香の背から視線を手の中に戻した清人は、満足そうにブラウニーを包むセロファン紙を剥がし始めた。

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