第17話 もうどうにも止まらない

 順調に講堂に入った清香達が、空席を探して周囲を見回すと、前方で一人の人物が立ち上がって手招きした。それを認めた瞬間、彼女は満面の笑みでそこに走り寄り、修と奈津美は聡の顔色を窺いつつ苦笑いし、聡は心中で深い溜息を吐く。


(そうだよな。最大の敵はラスボスだって、相場が決まっている)

 そんな聡の視線の先には、彼が初めて直に顔を合わせる、自分の異母妹である清香を愛して止まない、異父兄の清人が立っていた。

 正面のステージに向かって続く中央の通路を、笑顔の清人に向かって清香は足早に進み、聡はその後をゆっくりと歩きながら相手の様子を注意深く観察した。そして清人が立っている所まで来た清香は、兄を見ながら不思議そうに尋ねる。


「お兄ちゃん、どうしたの? 今日ここに来るなんて、言って無かったよね?」

「ちょっと次回作の構想を練っていたら、急に大学構内の資料が欲しくなってな。学生時代を思い返しながら書いてみても良かったんだが、ここの学祭期間中だったし、気分転換がてら川島さんと来てみる事にしたんだ」

 そう言って彼が視線を流した先に、ショートカットの女性が座っているのを認めた清香は、驚いて目を見張った。


「あ、本当だ。恭子さんまで」

「ふふ……、流石に驚いたみたいね、清香ちゃん」

「もう! 言ってくれれば、色々案内したのに」

 半ば呆れ、半ば拗ねた口調で話しかける清香に追い付いた聡は、清香の見ている方を眺めて、内心で首を捻った。


(誰だ? この女性。興信所の報告書には、載っていなかったが、兄さんの恋人か?)

 そんな事を考えてから、その女性の座っている向こうの席に浩一が、更に前後の列に、先程まで入れ替わり立ち替わりちょっかいを出してきた面々が、ちゃっかりと腰を下ろしているのを認め、聡は確信した。


(今日、どうしてこの人達と遭遇してたのか、漸く分かった。俺達にちょっかいを出す為に現れたのかと思いきや、それは単なるついでで、実際は俺と兄さんが顔を合わせる所を、見物に来たんだな!?)

(こんな面白そうな物、見逃してたまるかよ)

 聡の視線を受けて一同がにやにやと笑う中、清香は笑顔で聡の方に僅かに体を向けた。


「お兄ちゃん、紹介するわね? こちらが以前から話していた角谷聡さんで」

「あれ? 実はそれは仕事上の通称で、本名は小笠原って言ってなかったかな?」

 聡を紹介しかけた清香だったが、笑顔の清人から突っ込まれ、思わず口ごもった。


「あ、え、えっと……」

(そう言えばお兄ちゃんには、謝罪の電話があったことを伝えた時に、本名が小笠原さんだって教えてたっけ! でもそれをすっかり忘れて皆には角谷さんって紹介しちゃったし、この場をどうすれば……)

(白々しい……。これは絶対、俺が本名を隠して清香さんに近付いた事に対する、嫌がらせだな……)

 狼狽する清香と苛立たしさを押し隠す聡に対し、ここで能天気な声がかけられた。


「あれ? 小笠原って名前なの? まあ俺は、どっちでも良いけど」

「確か職場が小笠原物産だったか。偶然だね」

「へぇ、ラッキーじゃん。小笠原物産の小笠原って名乗れば、一発で名前を覚えて貰えるよな」

「それなのにわざわざ角谷って名乗ってるのか? 勿体ない」

「それは本人の自由だろう? 部外者があれこれ言うなよ」

「まあ、とにかく、今はプライベートなんだし、小笠原で統一しても問題ないよね。どう? 聡君」

「……はい、俺は構いません」

 口々にサラッと何でも無い事の様に語り合う面々に、清香は肩すかしをくらった思いだった。


(あ、あれ? 何か皆、軽くスルーしちゃってるんだけど。やっぱり皆大人だなあ……、些細な事に拘らないで、物事を捉えられるんだ。変に気にした私が馬鹿みたい)

(揃いも揃ってこの連中……。絶対わざと嫌みを言ってるだろ! 清香さんはそうは思っていないみたいだが)

 そんな諸々の思いを綺麗に封じ込め、聡は笑顔で清人に向かって右手を差し出した。


「改めて名乗らせて頂きます。小笠原聡です、初めまして。先日は母の本にサインをしていただき、ありがとうございました。母も大変喜んでおりました。先生には改めて、お礼申し上げます」

「佐竹清人です。あんな物で喜んで頂けたかどうかは分かりませんが、お気に召して頂けたら何よりです。それに加え、最近妹が色々お世話になっているようですね。こちらこそ宜しく。それに先生などと呼ばれると仰々しいので、本名の佐竹で構いませんよ?」


 差し出された手を清人が握って、ギリギリと力任せに締め上げた。対する聡も負けじと握り返したが、双方の顔は爽やかな、紳士的笑顔のままである。終いには両者の手首の辺りが微かに震え、こめかみに青筋が浮かび上がっているのが見て取れたが、清香はにこにこと両者の顔だけを眺めていて、そんな不穏な状況を察知できなかった。

 聡にとっては不幸な事に、二人の身長差がこの状況に更に影を落とした。

 聡が百八十cm弱、清人が百七十五cmである関係ではさほど違わないにしろ、どうしても聡の方が若干視線を見下ろす体勢になるため、必然的に清人の不興を買ってしまう結果となったのだ。


(初対面なのにふてぶてしい面しやがって! しかも何だ、弟の分際で兄を見下ろしやがるとは、生意気にも程がある!!)

(何を考えているか、何となく分かりますが……。好きでこの身長になったわけじゃありませんよ! 不可抗力です!!)

(普段は滅多に読ませないけど、理性吹っ飛ばしてると考えてる事が丸分かりで、面白いな。この二人)

 手を離しても笑顔を保ちつつ、視線だけは険しい物を向けてくる清人から、聡はさり気なく視線を外しながら、控え目に清香に尋ねた。


「それで清香さん、そちらの方は……」

 清人の向こう側に居る、小さな泣きぼくろが印象的な女性の素性を尋ねると、清香は笑顔のまま紹介してくる。


「川島恭子さんです。お兄ちゃんのアシスタントをしてくれてます」

「川島です。初めまして」

「……いえ、こちらこそ。小笠原です宜しく」

 座ったまま軽く会釈して来た相手に、聡が何となく微妙な顔で挨拶を返すと、一見二十代後半に見える恭子は、何を思ったか悪戯っぽく問い返した。 


「何だか小笠原さんは、今の説明に納得がいかない様な顔付きをされていますね。私の事、何だとお思いになりましたの?」

「あ、いえ……、佐竹さんの恋人なのかと」

「…………」

 聡が思った事を正直に述べると、何故か清人と彼女の向こう側に座っている浩一は無言で眉を寄せ、恭子と清香は互いの顔を見合せてクスクスと笑い始めた。


「恭子さんは違いますよ。私達と一時期、一緒に暮らしてた事もありますけど」

「良く誤解されるんです。先生にはご迷惑をおかけしています」

「そんな事無いわ、恭子さん。恭子さん位の美女と噂が立つなら、お兄ちゃんだって本望よ」

「あら、ありがとう、清香ちゃん」

 それを聞いた聡は、益々混乱した。


(一緒に暮らしてたって……、それなら尚更、恋人の様な気がするんだが。あの派手な真澄さんとは真逆の、お似合いの和風美女だし)

 そんな事を考えながら一人で悶々としていると、清人が声をかけてきた。


「二人とも、ここが空いてるが座らないのか? そろそろ次のイベントが始まる筈だが」

 確かに通路側から三つ席が空いており、どうやら浩一と恭子に続く席に清人が座っていたらしいと見当を付けた清香は、素直に頷いた。

「じゃあ、座らせて貰うわ。聡さんもここで良いですか?」

「……ああ、勿論構わないよ」

 僅かに引き攣った笑顔を見せながら聡は了承し、奥から清人、清香、聡の順に席に着いた。気がつくと一緒について来た修と奈津美は、自分たちの後ろの席にちゃっかりと座っている。


(何かもう……、狼の巣穴に飛び込んだ気分だ)

 半ば自棄になりながら聡がステージの方に視線を向けると、司会者らしい学生が出て来て、マイク片手に陽気に宣言した。


「皆様、お待たせしました。それでは当サークル主催、チャリティーオークションを開催致します!」

 会場から結構な数と音量の拍手が起こる中、周囲でステージ上に運び込まれた品々を見ながら、囁き声での会話が交わされる。


「ふふ、ちょっとドキドキするわね。ねえ修さん、午前中見たあのクリスタルガラスの一輪挿し、落としてみても良い?」

「財務大臣のお前が、良いと判断する範囲でな」

「よぅし、頑張るわよ!」

 やる気満々の奈津美の声に、思わず苦笑しながら背後を振り返る清香。


「奈津美さん、妊婦なんだから、あまり興奮しないでね?」

「ん~、俺はあのペアウォッチにしようかな?」

 独り言のように言った正彦に、キョロキョロと周囲を見渡し不審に思った清香は、前の座席に身を乗り出して正彦に尋ねた。


「正彦さん、彼女さんにあげるんですか? そう言えばさっきお会いした彼女はどこですか?」

「うん? 取り敢えず別れた。あげるのは次の彼女」

「……いつか女性に刺されますよ?」

 清香だけでなく、他の人間からの突き刺さる様な冷たい視線をものともせず、正彦は苦笑いしたのみでステージの方に向き直った。

 そんな観客席の細々した事には構わず、ステージ上では滞りなくオークションが進行して行った。


「それではこちらのティーセットですが、最低落札価格千円から始めたいと思います。ご希望の方は挙手の上金額をどうぞ!」

 司会者がそう促した途端、会場のあちこちから楽しげな声が上がる。

「千五百」

「千八百」

「二千」

「二千五百」

 購入希望者の声を聞き洩らさない様にマイクを持ったスタッフが何人か会場を駆け回り、物によっては結構白熱した競り合いになったりして、出品物が何品か競り落とさせた後には、会場に心地よい熱気が溢れてきた。


「けっこう盛り上がってるね」

 聡が隣の清香に囁くと、清香も楽しそうに言葉を返す。

「こういうのって、日常生活の中ではありませんからね。皆、お祭り騒ぎをしたいんですよ」

「確かに。何だか楽しくなってきたな。次だよね? 例の花は」

「うぅ……、こっちは何だか、緊張してきました」

「大丈夫だよ、落ち着いて」

 徐々に強張った顔になってきた清香を見て、聡は苦笑しつつ宥めてからステージに向き直った。 


「さて、それでは次に移ります。こちらのプリザーブドフラワーのアレンジメントです。最低落札価格千円から、始めたいと思います。ご希望の方、挙手をお願いします!」

 明るく声を張り上げた司会者の台詞を聞いて、清香が反射的に俯く。


「やっぱり、百円からにすれば良かった」

「まだ言ってる」

「だって……」

 まだグズグズ言っている清香をよそに、会場のあちこちから声が上がった。


「千五百」

「二千」

「二千三百」

「ほら、他にも買いたがってる人は居るだろう? 今、俺が競り落としてあげるからね。清香さん、ちょっと待ってて」

 そう言って宥めた聡は、清香の作品を競り落とすべく、正面を向いて片手を上げながら声を発した。


「五千」

「一万!」

「お兄ちゃん!?」

 しかしその時、鋭く馳せられた誰かの声で、聡の声が遮られた。手を上げかけた体勢で反射的に声の聞こえた方に顔を向けると、涼しい顔で片手を上げている清人と目が合う。その全く笑っていない目が一瞬緩み、フッとせせら笑われた気配を感じ取った瞬間、聡の闘争心に火が点く。

 清人と同様に視線を険しくした聡が、真っ向から相手を睨みつけ、それを見た清香以外の周囲の者達は、試合開始のゴングが鳴り響く幻聴を、確かに聞いた。


「おぉっと! ここで一万の声が上がりました。他にご希望の方はございませんか?」

 狼狽した清香の声に、嬉しそうな司会者の声が重なり、更にやる気十分の声が会場内に響いた。


「三万!」

「さ、聡さんっ! ちょっと待って下さい!」

「五万!」

「お兄ちゃん! 恥ずかしいから止めて! 家族が競り落とすなんておかしいわよ! サクラみたいじゃない!」

「家族が競り落としては駄目だと言う規則は無いから、別に構わないだろう?」

 何とか説得しようとした清香だったが、清人は平然と自分の正当性を主張した。そこに火に油を注ぐ様な発言が重なる。


「八万!」

「聡さん! あれは材料費を入れてもそんなにしませんから!」

「でもそれだけ払っても良い気がするから。何か無性に気に入ったものでね。あれだったら、母も絶対気に入ると思うし」

 清香の懇願をあっさりと聞き流し、聡ももっともらしい理屈を述べる。


「十二万! 奇遇だね小笠原君。実は俺も、あれが結構気に入ってしまってね」

(このクソガキが! 俺に盾突こうなんて百年早いぞ!)

「十七万! 意外ですね佐竹さん。でも俺と好みが一緒だなんて嬉しいです」

(この三十男が! 自分で大人げないとは思わないのか!?) 

 下手をすればバチバチと火花が散っているのが見える様な緊迫した雰囲気に、最初は盛り上がっていた会場も、いつしか静まり返って胡散臭げにその一角を遠巻きに眺め始めていた。


(もう誰でも良いから、この2人を止めてぇぇぇっ!!)

 清香が本心からの訴えを込めて周囲の者達を見やったが、全員不自然に視線を逸らした。

(止められないから……、もう気の済むまでやらせておこう)

 そんな諦めムードが漂う中、事態はどんどんエスカレートしていった。


「お兄ちゃん、聡さん! そんなに欲しいなら後から同じ物を作るから! お願いだから今日の所は!」

「二十万!……そうか、それならそっちは川島さんにプレゼントしよう。清香が川島さんの部屋に行った時、殺風景なのが気になったと言っていたし。そうだろう?」

「そ、それは確かにそう言ったけど!」

「先生! 勝手に人を巻き込まないで下さい!」

「川島さん、落ち着いて」

「二十五万! それじゃあもう一つは、俺の部屋に飾るから俺の為に作ってくれる? ああ、いっその事更にもう一つ作って貰って、俺の部屋と清香さんの部屋でペアにして飾っても良いよね」

「あ、あのっ! ペアって何ですか!?」

「二十七万!  ああ、忘れていた。もう一つは奈津美さんの出産祝いとしてでも贈ろうか?」

「ちょっと! そんな大金はたいたもの、怖くて部屋に飾れないわよ!」

「待って! 奈津美さんにはちゃんと別の物を考えてて!」

「おい、あんまり興奮するな。お腹の子に障るだろうが」

 巻き添えを食った形の恭子と奈津美の悲鳴も上がり、浩一と修が宥めに入ったが、当事者2人は気にも留めなかった。


「ああああのっ! 二人とも、言っておくけど競り落としたらこの場で現金で引き換えなのよ? カードとか小切手とか使えないから! そんな大金を口にしたら、恥をかいちゃうからっ!」

 狼狽しながら叫んだ清香だったが、対する男2人は微塵も動揺しなかった。


「三十万! 安心して清香さん。出先で何かあれば一大事だから、普段から大抵は、纏まった現金を持ち歩いているものでね」

「三十二万! やっぱり君とは気が合うな。これ位社会人としては当然の嗜みだからな。そういう訳だから清香は気にするな」

「ききき気にするなって言われてもっ!!」

 最早涙目になっている清香を半ば無視し、清人と聡は多少引き攣った笑顔で対峙していた。


(オークションの話を聞いて、何か清香さんが気に入った物があれば購入しようと思って、現金を多目に用意してきて助かった。しかし流石にそろそろ……)

(この成金の小倅が! いつもどれ位親の金を持ち歩いてやがるんだ! やっぱり何もかも気に入らない。一気にケリをつけてやる!)

(やっぱりお前達似た者同士の、間違い無く血の繋がった兄弟だよ……)

 周囲の者がうんざりしてそのやり取りを見守る中、ステージ上で青くなっていた司会者が、何とか言葉を絞り出した。


「さ、さあ……、今現在、こちらのプリザーブドフラワーのアレンジメントに三十二万の値がついておりますが……、他にご希望の方はございませんか?」

 そこで勢い良く叫んだ声が上がった。


「三十五万!」

「五十万!」

「百万!!」

 聡と清人の声に続き、後方から誰かの声が高らかに響いた瞬間、今度こそ講堂内の空気が凍った。 


「ひゃ……」

「百万って、おい!」

 一瞬遅れてザワザワと空気が揺れる中、先程の女性の声に聞き覚えのあり過ぎる十名程だけは、狼狽しながら後方を振り返った。


「ちょっと待て!」

「今の声って」

「まさか!?」

 激しく嫌な予感を覚えた一同の視線の先に、パンツスーツ姿の真澄がゆっくりとステージに向かって通路を歩いて来るのを認め、全員見事に固まった。コツコツとヒールの音を僅かに響かせながら近付いて来る間に、清人が小声で浩一に凄む。


「浩一!? お前」

「いや、俺は何も言って無い!」

 顔を蒼白にして首を振る浩一に、清人は舌打ちしたい様な顔を向けたが、そうこうしているうちに、通路に面した聡の座っている場所までやって来た真澄が足を止めた。そしてゆっくりと四方を見渡しながら、良く通る声で会場中に厳かに宣言する。


「私はそのアレンジメントに百万出します。ですが皆さんの中でそれ以上出せる方は、どうぞご遠慮なく申し出て下さい」

 にっこりと慈愛に満ちた微笑みを見せながら、不特定多数の者に促すが、勿論そんな事を申し出る者は皆無である。


「真澄さん……」

 突然過ぎる闖入者の出現に、清香はただ呆然とするのみだった。

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