第7話 地雷

(彼女には角谷と名乗っているのに、その知り合いらしいこいつが、どうして俺の本名を知っているんだ?)

 聡が自分の腕を掴んだままの男を疑惑に満ちた目で眺めていると、当の正彦は鼻で笑って、聡の内心を当ててみせた。


「『彼女の知り合いなのに、どうしてそれを知っている?』って顔だな」

「…………失礼します」

 長居は無用とばかりに、聡がその手を振り払って立ち去ろうとしたが、正彦は益々腕を握る右手に力を込めた。


「俺は話があると言った。……じゃあ、悪いが今日はここで。後で必ず埋め合わせをするから」

 正彦の後半の台詞は連れの女性に対するもので、彼女は予め予定を聞いていた為、小さく肩を竦めて苦笑いしたのみだった。


「全く……、デートの時間が五分足らずなんて最短記録だわ。しかも乗り替える相手が男だなんて、ちょっとバカにしていない?」

「でもなかなか良い男だろう?」

「そうね。後十年位したら、正彦と競るかしら?」

「容赦ないな。初対面の相手をこき下ろすなよ」

「あら、坊やだと思って、これでも手加減しているのよ? それより埋め合わせ、忘れないでよ?」

「ああ、期待しててくれ」

 聡が黙ったままなのを良いことに、かなり辛辣な事を好き勝手に言い合った男女は、正彦が未だ聡を拘束して片手が使えない状態の為、彼女の方から正彦に顔を寄せて唇が触れあうだけのキスをして、あっさりと店を出て行った。


「座るぞ。お前も座れ。……あ、俺はブレンドね」

「畏まりました」

「…………」

 聡を逃がす気は無い正彦は、その腕を引っ張りつつ半ば恫喝する。聡の待ち合わせ相手かと勘違いしたウエイトレスが水とお絞りを持って近寄って来ると、振り返った彼は途端に愛想笑いを浮かべながら注文した。それを仏頂面で見やった聡が、取り敢えず再び席に座る。続いて正彦が先程まで清香が居た席に腰を下ろした。


「取り敢えず自己紹介といくか。こっちはお前の事は、一通り知っているがな。他人の周囲を色々嗅ぎ回るのは、お前だけの専売特許じゃない」

「それはどうも、お気遣いありがとうございます」

 皮肉を込めて返した言葉にも全く動じる事なく、正彦は顔に薄笑いすら浮かべながら一枚の名刺をテーブルの上に取り出し、そのまま聡の方へ押しやった。それを受け取ってしげしげと眺めた聡は、以前目にした報告書の一部分を思い出す。


「『倉田運輸株式会社経理部主任、倉田正彦』……という事は、ひょっとして清香さんの」

「きちんとそこまで調べたのは誉めてやるが、彼女の前でその先は口にするなよ?」

 途端に目つきを険しくして恫喝口調に戻った正彦に、聡は不快気に眉を寄せた。


「どうしてですか。あなた達はれっきとした従兄妹同士で、先程も仲良さげに会話していましたよね?」

「確かに仲は良いが、従兄妹同士としてじゃない。清香ちゃんの中では、俺達は単なる『父親同士が幼なじみの知り合いの、優しいお兄さん』と言う関係だ」

「はぁ? 何ですかそれは」

 理解不能な内容を聞かされた聡は思わず間抜けな声を上げてしまったが、ここで正彦は反撃に出た。


「お前だって人の事は言えんだろう? 本名を隠してコソコソ彼女に近付きやがって。清人さんを刺激したくなかったんだろうが、とっくにバレてるぞ?」

 その台詞に、聡が僅かに顔を強張らせてから、慎重に問い掛けた。


「それなら、どうして彼女が、未だに俺の話を信じているんですか?」

「清人さんとしては、できれば本当の事を言いたくないんだろ? なにしろ実の母親とは、死別って事にしているし」

 そこで聡が弾かれた様に拳でテーブルを叩き、正彦に問い質した。


「それをさっき彼女から聞いて、耳を疑いましたよ! どこの世界に、勝手に母親を死んだ事にしている息子がいるんですか! 幾ら何でもあまりに酷過ぎます!」

 憤慨する聡を見た正彦は思わずテーブルに肘をつき、多少呆れを含んだ表情でしみじみと感想を述べた。


「酷過ぎる、ねぇ……。お前、随分幸せに育ったんだな」

「何が言いたいんですか」

 ここでウエイトレスが珈琲を運んできた為、会話が一時中断し、腹立たしげな聡を前に正彦が一口珈琲を味わってから、真顔である事を尋ねた。


「一つ聞くが、お前は清人さんの事を、子供の頃から知っていたか?」

 すると聡が歯切れ悪く答える。

「……いえ、二十歳の頃に、父から初めて聞かされました。そして『今では行き来はしていないから関わるな』とも」

「と言う事は、五年前位? あの騒動の前後、だろうなあ……。流石に外野が五月蝿くなって、隠しきれないと思ったか」

「一人で勝手に納得しないで貰えませんか?」

 小さな笑いを漏らしながら頷いた正彦に、聡の不機嫌さは増大したが、相手はそんな事には斟酌せずに畳み掛けた。


「母親を大事に思う心掛けは良いと思うがな。お前が二十歳になる前に、母親から清人さんの事を一度でも聞いた事が無かったんだろう?」

「確かにそうですが……」

「それは普通に考えたら、おかしくはないか?」

「それは……、父と再婚した手前、前の家庭に関する事はあまり口に出来なかったと」

「お前の父親は、小笠原に婿養子に入ったんだろ? それなのに他で育っている子供の名前すら口に出来ないって? 随分気を遣ってるんだな。それともお前の両親、そんなに夫婦仲が悪いのか?」

 明らかに挑発する台詞を立て続けに述べる正彦に、以前から両親の微妙な距離感を気にしていた聡は思わず中腰になって片手を伸ばし、その胸元を掴みながら礼儀正しさを投げ捨てて怒りの声を上げた。


「ふざけるなよ? 部外者があまり好き勝手な事を抜かすな!」

「それが今更? と言うか、お前が勝手に暴走してるだけで、母親は清人さんの事なんか、何とも思って無いんじゃないか?」

「そんな事はっ……」

 何かを言いかけて急に口ごもった聡は、至近距離で正彦と見つめ合っていた視線を自分から逸らし、同時に腕も離して元の様に椅子に座った。それを興味深そうに眺めた正彦が、片手で服の乱れを直しながらぼそりと呟く。


「清人さんにしてみれば、これまでの母親との関係が有る無し以前に、清香ちゃんの為にもお前達の事は口にしたくない筈だけどな」

「……どういう意味ですか」

 先程の勢いがどこかに消え失せてしまった聡が、取り敢えず聞いてみたという風情で尋ねると、正彦が苦笑気味に理由を告げた。


「あの子の両親はもう亡くなってて、近親者って言えば清人さんだけなんだ。それなのにその兄に『実は母親と半分血が繋がった弟が居る』事が分かったら、清香ちゃんが一人疎外感を感じるとでも思っているのかもしれないって事だ」

「そんな……。ですがそれは」

「それ以上に、母親は死別して弟なんて勿論居ない事になっているから、その事実を話したらあの優しい子だったら『実のお母さんを勝手に死んだ事にするなんてあんまりじゃない! 見損なったわお兄ちゃん、最低! 鬼! 人でなし!』なんて罵倒しそうだ」

 どことなく遠い目をしながらそんな事を言い出した正彦に、思わず聡は真顔で問い掛けた。


「……その場合、どうなると思います?」

「どう、って、……そうだなあ。そうしたらあの《妹命》の清人さんのダメージ大は決定だし、再起不能寸前まで行きそうだな。そうなるとその反動で、猛烈な怒りが真っ直ぐそれをバラした人間に向かうのは確実で」

「ちょっと待って下さい! そうすると清香さんには兄さんと俺達の関係を知らせないまま、兄さんの怒りを回避しつつ接触を図れと?」

 清人の怒りを買う事を思って流石に青ざめた聡を、正彦は他人事の様に眺めた。


「道は険しそうだな。助けてやるわけにはいかないが、まあ頑張れ。何も知らないで決定的な亀裂を生む類の墓穴を掘らない様に、忠告だけはしてやったからな。俺の好意を無駄にするなよ?」

「好意なんですか? 単に面白がっているだけじゃ」

「一理あるな、所詮他人事だ」

「…………っ!」

 テーブル上で強く両手を握り締め、顔を引き攣らせた聡に、正彦は椅子から立ち上がりながら、更に容赦の無い言葉を投げつけた。


「ああ、そうそう。肝心な事をもう一つ言うのを忘れていた。さっきも言ったが、柏木、倉田、松原の家が清香ちゃんと縁戚関係にある事は、間違っても彼女には漏らすなよ? もし万が一口を滑らせたら……、その時は清人さんじゃなく、俺達が制裁を加えるからそのつもりで」

「ちょっと待って下さい。だからどうしてそんな事になってるんですか!」

 聡は慌てて正彦の左手を掴んだが、相手は軽々と振り払いつつ、テーブルの横をすり抜けて行った。


「説明するのが面倒だから、興味が有るなら本人にさり気なく母方の親族について聞いてみてくれ。それじゃあそろそろ時間なので失礼。コーヒー御馳走様」

「ちょっと待って下さい、倉田さん!?」 

 しっかりと珈琲代を聡持ちにしつつ、あっさりとその場を立ち去っていった正彦を、会計をしないまま追い縋る事もできず、聡は諦めて見送った。そしてテーブルに両肘をついて、文字通り頭を抱える。


「ちょっと待て……。一体これから、俺に何をどうしろと?」

 今の話で複雑すぎる現状の一端を把握し、困惑の渦に叩き込まれてしまった聡は、自分の見通しというものが如何に甘いものであったのかを実感していた。


 同じ頃、清人達が住んでいるマンションでは、何やら騒々しい物音が玄関で生じていた。そして足音がドアの向こうから聞こえてきたと思ったら、自分が寝ている寝室のドアを開け放ちながら清香が声を上げた為、清人は壁を見ながらほくそ笑んだ。


「お兄ちゃん、居るっ!?」

 ドアに背中を向けて寝ていた為、清人の薄笑いの顔は当然清香には分からず、さも今目が覚めたという風情を装いつつ清人はゆっくりと寝がえりを打ち、清香の方に向き直る。


「……清香? どうした、そんなに慌てて」

「どうしたもこうしたも! お兄ちゃん、急に具合が悪くなって病院に行ったんじゃなかったの? 正彦さんに偶然会って聞いたんだけど!?」

 ベッドに歩み寄りながら問い質してくる清香に、清人は多少考え込む様子を見せてから、気まり悪そうに微笑んでみせた。


「そうか……、悪い。正彦との電話の後急に痛みが落ち着いてきたから、腹痛で救急車を呼ぶのも気恥ずかしいし、休んでれば良くなるかと思ったんだ。実際もう落ち着いたし、大丈夫だ」

「電話は? 家の電話も、携帯も繋がらなかったんだけど?」

「眠ってたから気が付かなかったかな? 携帯は……、ああ、正彦からの電話を切った時、うっかり電源を落としてしまったみたいだな。ほら」

 枕元に置いておいた携帯を取り上げて清香に差し出すと、確かにディスプレイが真っ黒になっており、清香は呆れ半分安堵半分の溜息を吐き出した。次いでベッドの端に腰かけ、清人の顔を見下ろしながら猛然と説教モードに突入する。


「もう、本当に人騒がせなんだから! どれだけ心配したと思ってるのよ!! それに腹痛だって甘く見ちゃいけないのよ! 第一お兄ちゃんは仕事し過ぎよっ! 不摂生な生活してると、病気にもなりやすいんですからね! 言われ無くても自重して頂戴!!」

「うん分かった、反省している。これからは十分気をつけるから、そろそろ許してくれるかな? 清香」

「反省してるならもう良いわ。もう……、本当に何かあったらどうしようかと思ったんだから。お父さんとお母さんだって病気じゃなかったのに、急にいなくなっちゃったし……」

「清香……」

 最後は涙声の清香の訴えに、清人は流石に罪悪感を覚えた。布団の中から片手を出して伸ばし、清香の頬を軽く撫でながら謝罪しつつ、これ以上暗い雰囲気にならない様に話題を変える。


「すまなかったな、心配かけて。そう言えば角谷さんには会えたのか? 途中で引き返したのなら、約束を反故にさせて申し訳無かったが……」

 待ち合わせ場所で正彦がちょっかいを出した事は知りながら、素知らぬふりで清人が尋ねると、清香は気持ちを落ち着かせながらそれに答えた。


「大丈夫。本の受け渡しをした直後に、正彦さんとカフェで会ったの。デートだったみたいよ? 綺麗な女の人を連れてたから」

「そうか、それなら良かった」

「あ、ちょっと待っててね。今、その本を取って来るから」

 そこで清香がパタパタと寝室を出ていき、すぐに一冊の本を手にして戻って来た。


「お待たせ。ほら、素敵でしょ?」

 そう言って嬉しそうに清香が差し出した一冊のハードカバーの本を、清人はいつもよりゆっくりとした動作で上半身を起こし受け取った。そして手に本来感じる以上の重みを感じながら、黙って見下ろす。

 いつもの清香なら常には見せない、その表情を消した清人の状態を訝しんだかもしれなかったが、緊張が一気にほぐれた事で些細な事には気が付かなかった。


「このお手製のカバーって、和紙を使ってるんだよね。それでこんな綺麗な流水紋のデザインの物なんて、私初めて見た。凄くセンスが良いのね、角谷さんのお母さんって。そう思わない?」

「ああ……、確かに綺麗だな。これは」

 微妙な言い回しで、清人は個人のセンス云々ではなく、カバーに対しての感想を述べたが、清香は益々笑顔になって言い募った。


「それに墨を使って、細筆でタイトルを書いてる。達筆だよねぇ、私昔お母さんに習わされたけど、全然ものにならなかったし」

「安心しろ、俺も習字は大してできない」

「あと、本棚の肥やしとかにしてるんじゃなくて、本当に大切に読み込んでくれてるんだね。だって少し角が擦り切れてるし、ページの真ん中辺りに指で捲った跡がうっすらと付いてるもの。角谷さんのお母さんって、本当にお兄ちゃんのファンなんだね! こういう人達に心配かけさせない為にも、自己管理は徹底しようねっ!」

「…………そうだな。気をつける」

 明るく結論付けた清香に、清人は胸中を綺麗に押し隠して素直に頷いて見せたが、ここですっかり気分を良くした清香が、自覚しないまま余計な事を言い出した。


「何だか角谷さんに益々親近感湧いてきちゃったな~。お兄ちゃんと大学も学部も同じな上、どことなくお兄ちゃんに似てるし」

「……俺に似ている? どこが?」

 途端に若干目を細めて問い返した清人だが、清香は清人のそんな変化に気付かないまま口を滑らせた。


「えっと、ちょっと明るめの色調でくせ毛の髪質もそうなんだけど、笑った時の目元の辺りが何となく似ていて格好良いなぁって」

 テレテレと笑いつつ清香としては(やっぱりお兄ちゃんは格好良いと思う)という意思表示のつもりで言った台詞だったのだが、清人は(俺と似てるだと? しかも清香が俺以外の男の事を格好が良いだなんて、冗談じゃない!)との認識しか持てなかった。


「じゃあお兄ちゃん、今日は一日寝てるのよ? お昼ご飯は食べられそう?」

 密かに怒りまくっている清人の心中など分からない清香が無邪気に尋ねてきた為、清人は辛うじていつもの口調を保った。

「いや、あまり食欲が無いからこのまま寝ている。夕飯だけ準備してくれるか?」

「分かった。何か消化の良い物を準備するね」

 そう言って寝室のドアを静かに閉めて清香が出て言ってから、清人は押し殺した声で腹立たしげに吐き捨てた。


「ふざけるなっ! 人の領域に、ずかずかと踏み込んで来やがって!!」

 如何にも憎々しげに手の中の本をベッドの端に投げ捨てた清人は、怒りに燃える目で携帯に手を伸ばし、迷わずにアドレス帳からある番号を選択する。待つ事数秒で向こうが応答すると同時に、清人は捲し立てた。


「長野さん、佐竹です。大至急お願いしたい事があります。今回は色ボケ学生の素行調査とはわけが違いますから、経費は使い放題で構いません」

「ほう? それはそれは豪勢な。それで、依頼内容は?」

「小笠原物産営業部第一課が、今現在取り扱っている業務内容が何か、可能な限り調査して下さい。一々報告書に纏める必要はありません。分かった時点で、その都度連絡をお願いします」

「そりゃあまた、随分と毛色の変わったご依頼で」

 電話の相手は面白そうに笑いを堪えていたが、清人は冷たい声のまま核心に触れた。


「特に、営業部第一課の角谷聡の業務内容に関してを、集中的にです」

 その口調で何かを察したのか、電話の向こうで小さく溜息を吐く気配がしてから呟きが漏れる。


「……要するに、そいつが今回の先生の標的ですか。気の毒に」

「宜しくお願いします。請求書が回ってきたら、いつもの口座への振り込みで宜しいですね?」

「はい、それでお願いします。それでは早速動きますので」

 お互いにどこまでもビジネスライクに話を進め、2人はあっさりと通話を終わらせた。


「俺を本気で怒らせたな? 聡。たっぷり後悔させてやるぞ?」

 手にした携帯をまるでそれが本人でもあるかの様に睨みつけながら、清人がまだ見た事も無い弟の名前を口にしていた事など、当の本人は知る由も無かった。

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