お題箱『昼、静寂』(登場:伊桜、瑛璃奈、椋谷)

 ティーポットの注ぎ口から、紅茶が音を立てて注がれている。伊桜いおはそんな光景を目に映しながら、脇に立つ召使がいつものようにしゃべってくれたらいいのにと、叶うはずもない祈りを胸の内で捧げていた。

 注ぎ終えると彼は一礼し、定位置に引っ込む。物言わぬ石がごとく、だ。

 この邸において使用人という端役に徹する彼の――いや、舞台に出演さえしない裏方か黒子のように振る舞う彼、椋谷りょうやの今日のスタンスを、この邸に住む一条家末っ子の伊桜はとても不満に感じていた。だが、それも致し方ないことだともわかっている。なぜなら今日は、今も自分の目の前に、めったに帰宅しない母親・瑛璃奈えりなが座っているのだから。椋谷に伊桜より先に給仕させた紅茶を啜りながら。二人でアフタヌーンティをしているのだから、使用人も同じだけ人数に増やせばいいのに、わざわざ椋谷だけを使って、これみよがしに離さない。

 もともと、前妻の不倫相手との子として生まれた椋谷は、当主との息子だという建前で一条家の中では扱われていた。不倫相手との不義密通の子だということは周知の事実だったとは言え、形式上はそのまま通してきたというのに、前妻亡き後、瑛璃奈が継母となってからは、あえてその一件をかき回し、椋谷をわざわざ今の立場に突き落とした。そして、ふらりと気まぐれに帰るたび、元は給仕される側だった彼を、いいようにこき使っているというわけだ。

「何しに来たの、母様」

 伊桜は紅茶に手を付けず、さっさと消えてしまえとばかりに正面を睨む。

「近くに用があったのよ」

 瑛璃奈はその敵意を気にした風もなく、優雅に紅茶の香りを楽しむ。この家では、権力というものが確かに存在する。兄弟だけで過ごしていると実感することは少ないが、親や親族が滞在しているときは別だ。伊桜はどんなに嫌いだろうと、母親の誘いを断ることができない。断れば、体よく追い出されるのは自分の方になるだろう。兄たちとのここでの暮らしを守るためには、形式だけでも義理立てが必要だった。

「それに、この家の妻が帰宅するのに理由が必要?」

「……別に」

 この母親は特にそういった力関係を気にするほうで、実体が伴っていなくとも、そんなことは些末なことだとばかりに、力を見せつけ、正当化しようとする。母親らしいことなど何一つしていないくせに、邪魔だけはしにくる。

 そんなに力関係がお望みならばと伊桜は告げることにした。

「父様は今日は帰ってこないってさっき連絡あったから」

 瞬間、母親の表情がこわばる。

 伊桜は勝利を確信し、ゆっくりと紅茶を口にした。少しばかり温度の下がった液体がのどに流れる。香りが鼻腔をくすぐった。

「……そう。タイミングが合わないものねえ」

 形式ばった科白だ。冷え切った夫婦仲を隠すための。妻の帰宅を聞いた夫が、会うのが嫌で予定を変更したに決まっているのに。

「お互い多忙な身だもの」

 夫婦ともに取締役を務めるような家ではさもよくあることだとばかりにそう付け足した。夫と前妻との仲は良かったものだから、余計に躍起になる。

「それに」

 ちらと椋谷の方を見やる。

「暇があると、碌なはたらきをしないものね」

 そう言って。

 椋谷は視線も動かさず、聞き流している。

 夫の不在中に不倫を働いたことを指しているのだ。すると瑛璃奈は芝居がかった口調で声を上げた。

「はあ。ちょっと、気分が優れないわ……!」

 その呼びかけに、椋谷はよく躾けられた犬のように静々と前に進み出て、膝をついて訊ねる。「奥様、お部屋でお休みになりますか?」

「そうね。準備しなさい」

 まずい、と伊桜は感じた。母親の劣等感を刺激しすぎたかもしれない。その矛先は、前妻の面影を残す二人の息子の内、寵愛を受けていない方――椋谷に向かう。まるで、当主正己まさみに愛されていない自分の嫌な面を、潰して回るかのように。

「はい、奥様」

 使用人の真似事をするように頭を下げる椋谷は、そそくさとその場を後にする。まるで、伊桜の視界から消えたがるように。汚いものを、映すまいと。

 この閑かな真昼間から、飽くまで続けられるのは、いったい何の真似事だろうか。

 二人連れ添って出ていった後の、茶の間の静寂。

 やってしまった。

 伊桜は自分自身に落胆した。同時に、怒りを覚える。母親に、そして自分の無力さに。出ていくときの彼女の、あの勝ち誇った顔。負けたこともそうだが、大切な人を奪い取られることを、心はきっと伴わないからと気にせずにいられるほど、上品な人間でもない。

 割り切れぬ生理的嫌悪感を包むように、何度目かの復讐計画を頭の中に張り巡らせていくのだった。

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SS・短編、お題箱 友浦乙歌 @tmur

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