お題箱『お風呂』(登場:椋谷、暁)

 一条の邸には岩でできた大風呂がある。一条家に仕える使用人の椋谷は今日もいつも通り風呂掃除をして湯を張っておいたのだが、一条家の人々は各人予定が変わったり増えたりとかで、出先で延泊になったらしく、まだ夕方にも拘わらず今日は誰も入らないことが既に確定していた。

「なーんかもったいねーなー」

 邸の住人がいつでも自由に入れる状態を保ち続けることに意味がないわけではないが、それでもやはりこれだけの量の湯を一切使いもせず流してしまうことを思うと、躊躇う気持ちがあった。

 椋谷は閃いた。

 清掃中の札を立て、手早く執事服を脱ぐ。

「俺、こっそり入っちゃおー」

 入った後に綺麗に清掃してしまえばいい。広々として温かい、素晴らしい空間を想起して胸が高鳴る。一糸纏わぬ身になって、戸を開けた時だった。

「あ」

 だだっ広い岩場の真ん中、そこには既に人がいた。

「椋谷さん、裸になっていったい何をしているんです?」

 使用人仲間の暁だった。当然、彼は燕尾服を着用している。

「いや、えーっと……」

 素っ裸のこちらは言い逃れようのない現行犯だ。

 暁は険しい目つきで問いかけてくる。

「まさか、勝己様たちが延泊されたのをいいことに、隠れてこっそり一条家のお風呂に入ろうなどと考えているわけではありませんよね?」

 いや、まあそれ以外に理由もなく裸になってうろついている男がいたらそっちの方が危険人物だとは思う。

 だが、そんなことを言ったところで朗らかに笑って許してくれるような相手じゃない。面倒なことになったと、椋谷は己を呪った。よりにもよって暁にバレるとは。しかも、大好きな勝己に置いていかれた状態の暁は、まさに手負いの犬だ。傷ついた己を守るため、容赦なく噛みついてくる。

「違う」

 そこで椋谷はなんとか言い訳を用意することを決意した。

「これは、自主研修の一環だ」

「自主研修?」

 怪訝そうな表情を浮かべて暁は聞き返す。椋谷はできるだけ動じていない風を装って腕を組み、尤もらしくゆっくりと首肯する。

「そうだ。一条家の風呂を預かる以上、その入り心地を知っておく必要がある」

 暁は少し考えるそぶりを見せると、

「でもあなたは、昔はこの風呂に入っていたのですから、そんなものはよく知っていますよね」

「ぐ」

 しまった、痛いところを突かれた。椋谷はたしかにこの大風呂の入り心地を知っていた。知っているからこそ、もう一度入りたくなってしまったのだ。だが、ピンチはチャンスだと頭を切り替える。

「そうだな。確かに小学生まで俺は一条家の人間として育っていた。この風呂にも入ったことがある。だがその育ちのおかげで使用人として役に立つこともよくあるよな」

「……まあ、そうですね」

 不承不承、暁は頷く。

「そう、しかし使用人になって以降俺はずっと地下の部屋のシャワーを使っている。だから、最近の一条家のお風呂を知らない。そこで、知る必要があると感じていたんだよなあ」

 実際、給仕される側の立場を知っているからこそ役に立てたことは何度かあった。特殊な生い立ちを持つ椋谷だけの能力に、暁も思い当たる節があるのだろう。悔しそうな表情を浮かべ始める。

(やべ。なんか地雷踏んだか?)

 泣いてぐずられたらますます面倒である。というより、もう入れなくなっても仕方がないから、とりあえずそろそろ服を着させてほしいと願った。風邪をひく。

 暁はそんなことお構いなしにうつむいたまま、つぶやく。

「……では、僕も入ります」

「はい?」

 椋谷は耳を疑った。

「あなたに自主研修でさらなる差をつけられるわけにはいきません!」

 そうしてさっさと服を脱ぎ始める暁。

 職務に忠実で生真面目な奴だと思っていたが、まさかそうくるとは……。

 脱いだ服を放り出すと、椋谷の手をつかんで「行きますよ!」と暁は勇みよく歩き出す。

 こっそり入浴する以上に緊張味のある、まったく心休まらない入浴が幕を開けたのだった。

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