020 理科室(1/2)

「恥の多い生涯を送ってきました」




 理科室の隅っこで、きらりとそれは光った。



 冬の日だった。石油ストーブのにおい。魔法瓶みたいに保温された理科室で、僕は曇った窓ガラスに描かれた落書きを眺めていた。


5限目の理科を担当する西條先生は少し癖のある先生だった。実験のない座学の日も、先生は白衣を着てくるし、授業は必ず理科室で行われる。わざわざ教室移動をするのはめんどくさいと生徒達には不評だったが、僕は好きだった。真っ直ぐに並べられた黒い机、美しく整頓された三角フラスコや試験管、薬品の匂い、模型、白い遮光カーテン、この場所は不自然なくらいに清潔だ。特に、冬の理科室は。

 絶妙に眠気を誘うトーンで、西條先生は誰も興味を持たないことにも気付かずに鉱石の話を続ける。


曇った窓ガラスには、ハートの割れた相合傘や、汚いことばや、悪意のある似顔絵が歪に並べられていた。中学2年生にもなって落書きも満足に出来ないなんて。そう思いながら教科書に目を落とした時だった。


理科室の黒い机に、きらりとそれは反射した。黒色の机の上に、鉛筆のなまりの銀はよく反射した。




「――恥の多い、生涯を、送ってきました」




 誰にも聴こえない声で、僕は丁寧にそれを読み上げた。
 太宰治の人間失格の冒頭から始まるその文章は、落書きのような、しかし紛れもなく、遺書だった。


僕は息をのむようにして、ひとことずつ、小さな声で読み上げた。規則正しく並べられたその文字列にうらみつらみはひとつもなく、これまで生きてきたなかで見つけた美しい景色や、好きな映画のシーンや、美味しかったアイスの名称などをひたすらに綴った遺書だった。ただひたむきに前向きな、それでもなぜだか疑うことなく、それが遺書だと僕には分かった。




僕は、なんとなくそのレタリングされたような美しい文字列を指でなぞった。滲んでしまわないように、壊してしまわないように、丁寧に、そっと優しくなぞった。そして赤ペン先生にでもなったつもりで、小さくその遺書に花丸をつけた。右下にひとつだけ、僕が綺麗だと思うものを書き足した。






***


 



次の理科の授業の日、僕が席に着くと、遺書は更新されていた。僕の歪な字のすぐ隣に、今度は好きなバンドの歌詞が綴られていた。


僕は嬉しくなって、かじかんだ指先で迷わ

ず、その美しい文字の隣に僕の好きなバンドの歌詞を書いた。次の授業では好きな絵本のタイトルを、その次の授業の日には好きな偉人の辞世の句を、その次の授業の日には好きな花言葉、好きな街、好きな柔軟剤、好きな寿司のネタなんかも。どんな些細な事でも、どんなくだらない事でも、綺麗なものならば、なんだって構わなかった。それは暗黙のルールだった。僕達は、お互いの顔も名前も学年さえもしらないくせに、まるで交換日記でもしているかのように、そのやりとりはしばらく続いた。


いつしか、僕は理科の授業を心待ちするようになった。

授業終了のチャイムが鳴り、理科室は一斉に教科書やシャープペンシルを片付ける音でざわめいた。だけど僕は教科書をすぐに片付けたりはしなかった。しばらく理科室に残って、整頓された美しい実験器具を眺め、時間を潰した。




理科の席順は出席番号順であらかじめ決められている。つまり違うクラスの同じ出席番号の人が、この席に座って、この遺書を書いている。もしかしたら。遺書の書き主が、たまたま廊下を通りすがって、僕をみつけてくれれるかもしれない。そうだ、もしかしたら。少しだけ期待して、西條先生が「もう鍵しめちゃうよ」と声をかけるまで、僕はそこに居座り続けた。


結局、誰も通らなかった廊下に出ると、魔法瓶の保温が解け、冷たい空気が僕の肺をいっぱいに満たした。会いたい。僕の目で、その美しい文章を書く人を見てみたい。その人の心を、覗いてみてみたい。歩く長い廊下の先が、いつもよりもずっと透き通って見えた。






***


 



僕が通う中学校は、ひどく荒れていた。酒・煙草・暴力はもちろんのこと、廊下で爆竹は鳴らす、打ち上げ花火をぶっ放す、夜中のうちに校内の3分の1のガラスが割られる、授業のボイコット、部活の練習試合があると必ず他校の財布がなくなる、一斉に給食の牛乳を投げ捨てる「牛乳爆弾」の雨が中庭に降り注ぐ、2ヶ月に1回は警察が介入する事件が起きる、今年に入って新任教師が2人退職に追い込まれる、卒業式と成人式の前日には教員が総泊りで警備にあたる。誰も赴任したがらない学校、教育委員会が使えない教員を送り込む「巣窟」とも噂されていた。いわゆる「左遷先」「島流しの島」だ。




 僕は、教室の隅っこで、面倒事に巻き込まれないように、ひっそりと息を潜めて過ごしていた。なるべく存在を消して。最初からいなかったかのように振舞えば、何にも巻きこまれる心配はない。そう思い、願い、あの日まで過ごしていた。




 この中学校で僕が特に嫌いなのは、昼休みだった。教室中をモノや罵声が飛び交い、動物園のように騒がしくなる時間帯。此処に僕の居場所はない。居場所なんて、どこにも要らない。ひとりでいい。ひとりがいい。静かになれる場所を僕は探し出した。閉鎖されている屋上に続く階段の踊り場なら誰も来ない。だから昼休みはここで静かに本を読んで過ごしていた。幸せだった。この中学校の中で、唯一心が安らぐ場所だった。僕の中にある、小さな小さな、だけどとても大切な平穏な日常だった。




だけど、それは、ある日突然、いとも簡単に壊された。




「あれぇー? うちのクラスのー、えっとー、あはは、存在感薄すぎて名前忘れちったー。てか、なにオマエ、こんな薄暗いとこで本読んでたのー? めっちゃウケルんだけど、陰キャすぎんだろ」




どうやらクラスの連中が、面白がって僕の後を付けて来たらしい。金髪、剃りこみ、いくつも空けたピアスの穴。着崩した学ラン。気付けば見たような顔の4、5人が、踊り場で僕を囲っていた。そんな事を言われても、名前を知らないのは、こちらも同じだ。




「……僕に、何か用?」




 クラスの連中は、きょとんと目を合わせて、それから下品にげらげらと笑い始めた。「何か用?」「何か用?」「僕に何か用~?」と、僕の言葉を仲間内で何度も何度も真似をしては、また、げらげらと笑い合う。




「お前さあー、3限の体育で頼まれてたポール運びまた拒否ったってー?」


「うっわー、サイテー。仕事しろよなー、みんな当番で平等にやってんだからさー」


「それは、先生にちゃんと理由を説明して――」


「てかこないださー、こいつプリント回してる時、高梨と手が触れてさ、その後、こいつ、すっげー血相変えてトイレに駆け込んだんだぜ、石鹸でめっちゃ手洗ってたってー」




 クラスの連中は、間髪入れずに話を続ける。言い訳を聞きにきたんじゃねえよという表情を一瞬見せ、威嚇・威圧し、こちらが怯んだと分かると、その後でまた人を小馬鹿にしたような顔で笑う。


ぐらり。視界が、歪んだ。あれ、僕は今大事なものを壊されている最中だというのに、どうしてこんなに冷静を装っているんだろう。どうして黙っていられるんだろう。




「はあー? まじ? なにそれ可哀相ー、それはちょっとないわ、ありえねー」


「てか高梨ちゃん泣いてたぜ。フケツだって思われたーっつってさあ」


「何、こいつ高梨のことフケツだって思ってるわけ?」


「いや、単に照れ隠しじゃね? てかもしかして、触られただけでイッちゃったとか? お前、実はトイレでシコってたんだろ? どんだけウブなんだよ、きっしょー」




 その笑い声は、階段中に響き渡った。1階から4階まで、この会話が筒抜けなんじゃないかと思うぐらいに、よく響く笑い声だった。だけど、筒抜けだったところで、誰も僕を助けちゃくれない。ここはそういう場所なんだ。僕はたったの一人なんだ。僕の三半規管にまで、笑い声は響き渡る。グワングワンと僕の頭の中を引っ掴んで、揺すって、離さない。


どのぐらい時間が経っただろうか。ぎゃははは、ぶははははは、と下品に笑っていた彼らだが、リーダー格の男子が一歩前に出た瞬間、唐突に連中の笑いが止んだ。リーダー格の男が、表情を一変させた。




「フケツなのは、オマエだろうがよ」




 いきなり、胸倉を掴んで顔を近付ける。ギリギリ。近いだけなら、ギリギリ耐えられる。肌でなくて良かった。こんな穢れたものに触れてしまったんじゃ、僕はもう耐え切れない。良かった?何が?これだけ理不尽に罵倒され、無茶苦茶にされて、大事なものを貶され、ぐちゃぐちゃに踏みにじられ、壊されて、一体、何が良かった?何を耐えている?何を耐える必要がある?




 殴ってしまえ。そうだ。殴れ。いや、もういっそ殺してしまえ。本気でそう思った。心からの、心の底からの殺意だった。こいつらには到底絞りだせない高尚な語彙を駆使しまくった罵詈雑言を浴びせ倒し、爪が食い込むぐらいに首を絞めて、みぞおちに蹴りを入れてあばらの一本でも折ってやりたい。お前らの大事なものを、目の前でひとつひとつ崩して、壊して、めちゃくちゃにしてやりたい。顔を踏みにじり、髪を鷲掴み、唾を吐きかけてやりたい。そんな衝動だった。




でも。




手が、足が、動かない。触れられない。やっぱり、だめだ。吐き気さえ催す。僕は、触れられないんだ。




僕の震える握り拳に気が付いた一人の下っ端が、僕の手をとって見世物にしようとした。その手が触れた瞬間。それは、ほんの一瞬だった。全身のうぶ毛が逆立ち、体中を電撃が走るように、僕の総ての細胞が、触れられた手の先から腐りはじめた。


駄目だ、やめてくれ。どんどん死滅してゆく。守ってきたものが。小さな世界が。嗚咽がこみあげた。




「……ッ!……ェッ、おぇッ」


「は? なにオマエ。喧嘩売ってんの、それ」


「ふざけんな、よ!」




下腹部に、鈍い痛みが走る。そのあとは、もう何が起きているのか分からなかった。あちこちから色んな手が、足が、僕のからだを殴った。殴られるたびに、僕のひとつひとつの細胞は死滅した。チカチカと目の前が、揺れる。




視界は完全に闇に包まれ、気付いたときには僕は廊下にうずくまっていた。体が。手が、足が。顔か?いや、ぜんぶだ。動かない。体が鉛みたいだ。動けない。痛い。苦しい。悲しい。理不尽だ。気持ち悪い。なんだよこれ。なんなんだよ。




僕は恐る恐る顔をあげた。憎い後姿が、どんどん声が遠ざかってゆく。待てよ、僕はまだ何もしていないのに。相変わらず下品な笑い声を撒き散らし、振り向きながら彼らは僕に叫んだ。




「もうさ、お前本当、死んだほうがいいんじゃね? 存在感ないんだからさー、生きてても死んでても一緒じゃん?」


「たしかにたしかに。そうだこの先、屋上じゃん? そっから飛び降りれば? 丁度いいじゃん」


「それいいねー、お願いだから自殺してよ、ジ・サ・ツ! そしたらみんな喜ぶよ。あははは、じゃあねー、もう教室帰ってこなくていいよー」

 


遠ざかる。僕にはもう殴られる気力も残っちゃいない。拳ひとつ彼らにぶつける事も出来ない、弱虫だ。なんて弱虫なんだろう。自分が情けない。


だけど、どうか振り返らずにこのまま去って行ってくれ。どうか、もう、これ以上何も壊さないでくれ。僕が願うのはそれだけだ。平和な日常ならまたどこか別の場所で再築すればいい。今度はもっと、静かな場所で。あいつらの声なんか届かないようなどこか遠い場所で。あいつらなんか到底来られないような繊細な場所で、ひとりで、静かに生きるんだ。




それかもう、あいつらが言うみたいに、本当に、死んでしまったほうがいいのかもしれないな。ああ。僕が死ねばこいつらは喜ぶだろうか。でも、そうだ、こいつらにされた事を全部遺書に書けばいい。死ねといって、本当に死ぬ人間がいるんだって思い知ればいい。警察にでも突き出されればいい。全国のニュースで報道されて、一生人殺しとして晒し者にされればいい。死んでやろうか。お望みどおり。こんな命、もうくれてやる。ああ。あの遺書を書いている人はきっとこんな気持ちなんだろう。その人はきっと。僕に似ているんだ。あれ。でも、どうして。こんなに真っ黒な感情を、どうして吐き出さずにいられるだろう。美しい字で、綺麗なものだけを並べて。僕に似ている?


違う。僕のほうが、ずっと、ずっと、情けない。

こんな自分が、本当に情けなくて仕方ない。




本当にこのままでいいのか?やられっぱなしで、人としての尊厳さえも奪われたような気分で、また、仕方ないで終わらせるのか、僕は。このまま終わらせてしまったら、自分のことさえ嫌いになりそうだ。そしたら本当に、こいつらの言うみたいに、生きている価値なんかないだろう。もう、きっと一生後悔するだろう。


自分を裏切ることだけは、絶対にしちゃいけない。だけど怖い。もう痛い思いはしたくない。だけど。だけど、だけどだけどだけど、だけど!

 鉄の味がする喉で、声を振り絞って、僕は叫んだ。




「フケツなのは、君たちのほうだよ、ばーか!」




これが僕の、最初で、最後の、最低な、たったひとつの抵抗だった。


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