007 からっぽの夜

海のにおいがした。

あたしたち三人を乗せたバイクは、海風を切りこの街を駆け抜けてゆく。


先程までの不可解な現象のことを、あたしはまだ受け入れられないでいた。お兄さんもきっとそう。二人ともなんにも言葉にできず、酔いの醒めないおじちゃんの上機嫌な鼻歌と、エンジン音だけがこの街に響いた。


しおかぜ街は、瀬戸内海に面した小さな街だ。急勾配の坂道をぎっちりと埋め尽くすように古民家が連なっている。すぐ向かいに島があるから、海というよりは川のようなその細い水路に沿って、街は細長く形成されている。水路と並行して道路が通り、道路と並行して線路が通り、線路と並行して街が広がっている。


坂の上から街を見下ろすとプラレールみたく黄色の電車が揺れるのが見える。最近ではその箱庭的風景が話題となり街の中心部はカフェや雑貨屋でそれなりに栄えるようになった。


「金髪の兄ちゃん、ちぃと止まっても良か?」

「あん? 便所か?」

「ガソリンのもう無かばってん、どげなすっかね?」

「……まじかよ」


八鹿のおじちゃんは力尽きたバイクを路肩に止めた。お兄さんは携帯電話でどこかへ電話をかけている。あたしとおじちゃんは、なす術もなく、近くのバス停のベンチに座った。


ベンチの上で体育座りをしてあたしは街を眺めた。街の夜を泳ぐクジラ。五線譜みたいな電線に連なる椋鳥の歌。街を横断するブレーメンの音楽隊。古民家の間を縫うように飛んで行くペンギンの群れ。みんなどこに行ってしまったんだろう。


静か過ぎる。まるで時間が止まってしまったみたいに、この街の呼吸が聞こえないのだ。あの不思議な廃墟で、彗星がはじけるのを見てから、あたしはまるで別の人にでもなってしまったかのように、そういう感覚を取り戻せないでいた。夜空には星ひとつなく、べっこう飴みたいなお月様だけが、ゆらゆらと不安定に、この街の夜を照らしていた。


「さっきのうさぎさん達が追ってくる様子はないみたいだね」

「それにしても、おかしかね。この街、今日は誰もおらんごたぁ。車もバイクも、それどころか人っ子一人、誰ともすれ違わんかったばってん……」


八鹿のおじちゃんが言い終えると、電話を終えたらしいお兄さんが諦めたような顔つきでこちらを振り返った。


「……だめだ、警察もバイト先も繋がらねえ。一体何が起きてるってんだ?」

「おにーさん、これからどうしよっか」

「とりあえずバイト先まで行ってみよう。抜け道を使えばもうすぐそこなんだ。駅も近いしあの辺なら人通りもあるだろ」


あたしと八鹿のおじちゃんは目を合わせて頷いた。途方にくれていたあたしたちに異論はなかった。


あたしたちは、お兄さんを先頭に、誰もいなくなった2号線の真ん中を歩いた。


しおかぜ街では春にみなと祭がある。大量と豊穣を願う、この街でいちばん大きなお祭りだ。街中の保育園や、学校や、会社や、消防団や警察や、公民館のサークルなんかが、しおかぜ街の全員が、年齢も性別も関係なしにごちゃ混ぜになって一晩中踊り明かすのだ。


陽気な音楽に合わせて、2号線を埋め尽くして、どこまでも、どこまでも続いてゆく道をパレードするのだ。あんなに人で埋め尽くされていた2号線が、今日はこんなにもがらんとしていて、あたしはなんだか不安になった。


空っぽの夜を、コンビニのお兄さん、酔っ払いの郵便屋さん、それからあたしのたった三人だけで行進する。


鳴らない踏切を渡り、息を切らしながら階段を上ったり降りたり。灯りのついていない古民家の間を縫うように、右に曲がったり左に曲がったり。迷路のような路地が続いてゆく。


路地を曲がる度、少しずつぼんやりとした霧が晴れてゆくような不思議な感覚がした。記憶に纏ったシフォン布が一枚、もう一枚、はがれてゆく。もうずっと忘れたふりをしていた大事な記憶に、核心に近づいてゆく。


呼吸が乱れるのは本当に坂道のせいだろうか。あたしは怖くなって、はぐれてしまわないように顔をあげて目の前のお兄さんをしっかりと見た。


途端、海のにおいがふわりとして、はっとしてあたしは街を振り返った。


「――あっ、」


ジオラマみたいだ。おもちゃみたいなこの街で、おもちゃのように生きる人々がいて、そのおもちゃを創ったり壊したり、嘲笑うようにこの街を眺めている神様がいるのかもしれない。そう思わせるような景色だった。ジオラマ。誰かがこの街の呼吸を止めている。歩道橋の神様とは別の、もっと、神様がらしくない神様がの視線をじりりと感じて、あたしはまた、息が乱れた。

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