003 しおかぜ観光ビル

電車の規則正しく揺れる音が遠くに聴こえて、あたしは静かに目を覚ました。視界は薄暗く、月明かりの反射する青白い割れた窓ガラスをぼんやりと眺めた。指を少しだけ曲げて、あたしは自分が一人称である事を確かめる。身長は156センチ、髪型は切りそろえられたおかっぱ頭、赤いリボンのついたいつものセーラー服姿のあたしだった。なんだか、随分と長い夢を見ていた気がする。


ボロボロの正方形のコンクリートの中で、あたしは大の字で寝転んでいた。スクールバックをそこら辺に放り投げて、なんとも無防備な格好だった。柔らかい夜の風が心地よくて再び目を閉じようとした所で、ハッと我に返って飛び起きた。


***


電車から見えた、蔦絡まるあの廃墟に呼び寄せられるように、女の子はこの街の夜を泳いだ。実際、あの建物に女の子は呼ばれたような気がしていた。声が聴こえたわけではなく、名前のない感情をわし掴みにされて、そのままからだごと引っぱられたみたいな感覚。

地に足はついていなかった。重力を捨てた宇宙飛行士のように、たったの一度地面を蹴るだけで、ずっと遠くまで弾むことができた。月にいるみたいに、女の子は、古民家や、踏切や、電柱や、街ゆく人々を軽々と飛び越えた。夕方のしおかぜ街は、きらきらと輝いていた。


みるみるうちに、先ほど降りたばかりの駅は遠のき、女の子はあっという間に蔦絡まる廃墟に到着した。その建物を見上げては、こころがぎゅっとなった。


不安定で、歪で、今にも崩れ落ちてしまいそうな廃墟だった。

目をこらすと、そこには錆びた鉄板文字で「しおかぜ観光ビル」と書いてある。廃墟は3階建になっており、屋上には煤けたゴンドラのような乗り物と、それを運ぶ為のボロボロに歪んだレールが天使の輪っかみたく、くるりと付いている。2階の窓には懐かしい気持ちになるようなフォントで喫茶と書かれているのがかろうじて読める。3階は半球状のガラス張りになっていて、戦艦の司令塔のような形になっている。


そして、人々に忘れ去られたその冷たい無機物に、なんとか命を吹き込もうと、いくつもの蔦が絡まり合っていた。美しく光る緑の葉々は、まるでこの廃墟を外敵から守ろうとする、意志を持った戦士たちのようだった。


なんとなく、あたしみたいだと、女の子は思った。

正面玄関はベニヤ板を何重にも打ち付けられ、固く閉ざされていたが、裏に回ると壁の崩れたところから階段を上ることができる。女の子は、迷うことなく、しおかぜ観光ビルに潜り込んだ。


一歩、踏み込むと階段の端のコンクリートがぼろりとはがれた。なぜだか先ほどの無重力状態は終了していて、あたしはずっしりと、からだの重みを感じた。慎重に薄暗い階段を登り、正方形のコンクリートの部屋へと辿りついた。

かつてここが喫茶店であった事を想像させる、ボロボロに錆びた丸いテーブルと椅子がばらばらに並んでいた。いくつか脚の欠けた椅子が倒れている。古いタイプライターみたいなレジや、角の崩れ落ちたカウンターがある。埃のにおいが鼻をくすぐる。懐かしいにおいだ。


初めて来た場所なのに、あたしはずっと昔からこの場所を知っているような気がした。ずっと昔に無くしてしまった大事な何かを、取り戻せるような、欠けてしまった大事な部分を、満たすことができるような気がした。ボロボロの正方形のコンクリートの真ん中に寝そべって、あたしは静かに目をとじた。


***


ぼさぼさの髪を手ぐしで整えた。なんだかからだがとっても痛い。ここで眠ってしまってから、どれぐらいの時間が経ったのだろう。あたしは胸ポケットから携帯電話を取り出した。


「えっ、嘘!23時46分!」


驚いて思わず携帯電話を落っことしそうになった。冬の日に冷水で顔を洗った朝みたいに、あたしははっきりと目が覚めた。

意味もなく立ち上がっては、砂ぼこりだらけのスカートをはたき、また、呆然と立ち尽くした。人はあんまり驚いたとき、意味のない行動をとる生き物だとはよく言ったものだ。今朝のローカル番組の占いコーナーを思い出していた。「今日の最下位は、ごめんなさい、おひつじ座のあなたです!」いちごジャムをパンに塗ったくりながら、あたしはちっとも悪怯れなく謝る西橋アナウンサーをにらんだ。「そんなあなたのラッキーカラーは、緑です!」あいにく、傘の色は青、携帯電話のカバーは赤、雪とお揃いの不細工な犬のキーホルダーは黄色だった。


「なんてこったい」


今日のあたしは、絶望的な程に、ひとつも緑色のものを持ち合わせてはいなかった。理科のノートなら緑色だったけど、今日は理科はなかったし、何よりあったとしてもきっと置き勉をしていたことだろう。とりあえず、家に電話のひとつでもいれようかと思ったそのときだった。


微かに、コンクリートが崩れる音がした。

砂利を踏みつける靴の音が、一段、二段と、確かにここへ近付いてくる。


真夜中、廃墟、女子高生。あたしはようやく自分の置かれている状況に気付いてはっとした。だけど。幽霊も、宇宙人も、未来人も、超能力者も、そんなものはくだらない。そんなのいるはずがない。もしも。こんなにも美しい、青白く輝く美しい廃墟に、ひとりで訪れる人がいるというのなら、それはきっと、神様みたいに優しいこころを持ったひとなんだと、思う。


あたしはちっとも怖くなかった。

隠れもせず、体育座りで、ひとり、そのひとを待った。

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