002 風のとらえかた

あたしのからだは、鈍い重力の中でゆっくりと海底に沈んでいった。呼吸は不思議と苦しくなく、だけどほんの少しだけ喉のあたりが不自由な感じがした。あたしは抗うこともなく、沈みゆくからだをただ青にまかせて、遠のいてゆく柔らかな光を見つめているだけだった。


もうどれぐらい沈んだのだろうか。白、青、群青、そしてゆっくりと暗闇になるほんの少し前、あたしは自分の身長が143センチになっていて、髪は青いリボンで二つに結わっていて、お気に入りのワンピースを着ていることに気が付いた。ああ、あたしだ。あの時のあたしだ。コツンと、踵が冷たい何かに当たる。


気付くとそこは、海底の、コンクリートの檻のなかだった。難破船みたいにオンボロで、錆びていて、天井だけがぽっかりと抜けていた。水面はもうずいぶんと遠く、今にも消えてしまいそうなぐらいの脆い光が静かに揺れていた。


懐かしい感じがした。あたしはこの場所を知っている。目を閉じてしまったら、あのか細い光はどこかへ消えてしまうのではないかと思う。それでもあたしは、思い出さなければいけないことがある。真っ暗闇だって構わないと思った。あたしは静かに目を閉じた。



夏だった。うだるような暑さの続く、夏の日だった。


小学四年生の夏、あたしは二年生の頃からずっと憧れていた飼育委員になった。飼育委員会は一番人気の委員会で、学校中の誰もがその座を狙っていた。委員会決めは通常、新学期の初めに行われるが、特別ルールで飼育委員だけ一学期の終わりに先に決めてしまう。夏休みのあいだのお世話が要るからだ。それであたしは、一学期の終わりに、勝ち抜けじゃんけんで、さとる君とのじゃんけんに勝ったのだ。ちょきで。


蝉時雨の止まない夏休みのほとんどを、あたしは飼育小屋の掃除、エサやり、動物観察に費やした。ニワトリが2羽と、うさぎが4羽いる小さな飼育小屋の檻の前は、あたしの特等席だった。飼育委員会は高学年の各クラスから2人ずつ選出され、たしか計12人のチームだった。曜日ごとに担当を決めていたのだけれど、あたしは担当の日以外もあしげく飼育小屋に通った。掃除もエサやりも全然苦じゃなくて、動物たちは本当に可愛くて、あたし達は毎日が本当に楽しかった。


夏休みも中盤に差し掛かった頃だったと思う。まんまるめがねの飼育委員長がおばあちゃんの家にしばらく遊びに行くという。そこで急遽、代打の太っちょ委員長がやって来たのだ。太っちょ委員長は六年生で、容姿もそうだけどめがね委員長とは全く正反対の性格で、とてもガサツで、自分中心的で、なにより意地が悪かった。


委員長は先生の目を盗んでは、嫌がるうさぎを無理やり捕まえて青いごみ箱に閉じ込めてみたり、ニワトリの羽をむしってみたり、それから3日エサを与えなかったり、掃除のためのホースで動物達に水をかけたりした。委員長は六年生の中でも有名なガキ大将で、いつも子分を引き連れて廊下の真ん中を歩いていた。あたし達は仕返しが怖くて、委員長に逆らうことはおろか、先生に告げ口をすることさえできなかった。


本当に、暑い夏の日だった。どんなに忘れようとしても、忘れたふりをしても、あの蝉時雨が耳にこびりついて離れない。


――なんで俺たちが空を飛べないか、教えてやるよ。


どこからか声がして、あたしはハッと目を開けた。海の底に沈んだ、難破した飼育小屋の中にあたし達はいた。混じり気のある茶色の羽毛。凛と張った胸。こいつは確かに、太っちょ委員長に一番虐げられていた雄鶏のチャゲだ。チャゲという名前は「全校ニワトリの名前アンケート」をとった時に一番表が多かったことから名付けられた名前なのだ。あたしが第二希望にしていた放送委員会が協力してくれた。茶色い毛だからチャゲという名前は、あたしもとても気に入っていた。


そのチャゲが、今、あたしに向かって喋っている。あの時と変わらない、ぼろぼろで、冷たくて、薄暗くて、小さな飼育小屋の、正方形のコンクリートの中で、赤い雄冠を勇敢に掲げて、誇っているように胸を張って、チャゲはあたしに真っ直ぐ向き合う。


――まずあんた、根本的に間違っている。俺達は飛べないんじゃない、飛ばないんだ。飛び方を忘れたふりをしているだけなんだ。


チャゲは。

チャゲは、夏休みの最後の日に、死んだ。


理由なんて明白だった。飼育委員の誰もが解り切っていた。先生達はチャゲの死因もろくに調べず、夏の暑さのせいにした。何も知らないくせに、私達のせいじゃないと言ってのけた。大丈夫だと、チャゲはみんなと一緒に居られてきっと幸せだったよと言ってのけたのだ。喉の奥が熱かった。夏の暑さのせいなんかじゃなかった。


チャゲを埋めた日、太っちょ委員長は来なかった。誰もがなんにも言わずに土を掘った。シャベルは使わなかった。爪の奥まで泥だらけになっても、誰もなんにも言わずに掘った。したたる汗が土にしみ込んでいった。顔は一度もあげなかった。誰もなんにも言えなかった。蝉時雨がやけに煩かった。


「……それなら、どうして。どうして飛ばなかったの?空を飛べば、きみは太っちょ委員長からも、冷たくて狭い檻の中からも、自由になれたのに。あんなことに、ならずに、済んだの、に、」


言葉の端っこが冷たい水に溶けてゆく。無責任だ。あたしは、本当に、あたしという人間の、無責任さ、汚らしさ、厭らしさ、ずる賢さが、あたしの全てが。あたし達だって、あたしだって、委員長と変わらないのに。コンクリートの冷たさが、足のつま先から心臓まで昇ってくる。チャゲはそんなあたしの感情を見透かすようにコッコと笑った。


――飛びたいんだろう。だったら飛べるさ。だってあんたも、忘れたふりをしているだけだから。


「違う。あたしの話じゃない。答えてよチャゲ。きみはそれで、ほんとうに、幸せだったの!」


はやる気持ちを抑えられずにあたしの語気は荒くなった。あたしはあの時、なにもかもぐしゃぐしゃになって、潰れて壊れて消えてしまえばいいと願ったよ。何度も願った。委員長の顔も、ぼろぼろの飼育小屋も、先生の眼鏡も、反射する白い校舎も、泥だらけの爪も、どんなに手を伸ばしたって届かない、全てを見透かしているようなあの青空も。


――違わないさ。これはあんたの話だよ。ねえ、俺はさ、待っているよ。あんたが飛べる日を。胸張って、勇敢に、真っ直ぐ、前を向いて、飛べる日を。


ぼろぼろのあたしを差し置いて、チャゲは水面を見上げた。いまにも消えてしまいそうな脆い光を鋭い瞳で真っ直ぐにとらえた。そして、小さなからだを、羽毛のすべてを、力をためるように収縮させた。


――大丈夫、きっと思い出せるさ。あんたなら。


それは一瞬だった。チャゲは大きく羽を広げた。頼りないその羽で水をかく。推進力を得る。水面が砕けて、光があふれだした。光が、暗闇を食いつぶしてゆき、あの日と同じ青空が広がった。チャゲは飛んでみせた。何度も逃げてと願ったあの日は、ちっともそこから動きやしなかったくせに。チャゲは不器用にも、不恰好にも、飛んでみせたのだ。そうしてみるみるうちに、チャゲの小さなからだは、うんざりする程青い空に溶けていった。


雲の隙間から光がこぼれだすようにして、視界がやけに鮮明になった。蝉時雨がやけにうるさい。夏の日だ。ここはあの飼育小屋だった。天井だけがぽっかりと空いた、飼育小屋だった。あたしの足には鉛でもくくりつけてあるのだろうか、立ち上がることもできないで、ただ呆然とあのあの青空を見上げていた。ボロボロの正方形のコンクリートの中だった。


ふと視線を感じた。小学四年生のあたしが、青いリボンと、お気に入りのワンピースを着た、小学四年生のあたしが、檻の中のあたしを見ている。


「きみは、ずるいよ」


小さく呟いて、そして静かに目を閉じた。

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