第45話 父への想い

 伸ばした手は震えていた。それでも、引く訳にはいかなかった。

 赤黒く、あたたかい血にまみれて、エレノアはその記憶を覗いた。


 息の仕方を忘れたみたいに、うまく空気を吸えなかった。何かが胸につっかえて、エレノアは嗚咽だけを漏らす。

 簡単に、受け入れられるはずがない。小国を守ろうとして、禁忌に手を出したカルロス。優しい彼が追い詰められ、辿り着いた先が悪魔だった。そのせいで、エレノアは孤独と恐怖を味わった。普通の幸せや愛を知らずに育った。それは、ブライアンも同じ。

 カルロスが悪魔に頼るのではなく、もっと別の方法を探してくれていたなら……と思わずにはいられない。

 しかし、どこかで理解もしている。あの時、小国に反撃に出るための戦力はなかった。国民も、騎士たちも、皆が傷つき、疲れ果てていた。彼らが失ったものは多すぎた。もはや屈服し、奴隷になることしか彼らには残されていなかった。だからこそ、カルロスはすべての状況を覆せる悪魔の大きすぎる力を求めた。

 それでも、エレノアは悪魔に頼らないでほしかった。

 だって、カルロスは悪魔に支配されながらも、家族と国を愛している。

 カルロスがエレノアに一度も会いに来なかったのは、自分の内にいる悪魔に会わせたくなかったから。ブライアンに近づかなかったのも、同様の理由だったのかもしれない。

 しかし、この十八年は簡単に消し去れるものではない。いくら、カルロスがエレノアを救う方法を考えてくれていたのだとしても――。


(……だめよ。今考えるべきは悪魔をどうするか、だわ)

 まだ、エレノアは十八歳になっていない。それなのに、もう悪魔は出て来てしまった。契約者であるカルロスの死が近づいたからなのか。

 今この瞬間も、母ジャンナは首を絞められ、ジルフォードの刃は悪魔には届かない。

(何か、何かないの……?)

 エレノアは今視た記憶を辿る。カルロスが最後の手段を取らざるを得なかった理由と、残した希望の欠片を拾い上げてみせる。


 ――この子は、君の血を引いているから、信じられる。私たちの大切な、愛する娘。この子がきっと私たちの光になってくれる。


 悪魔の神殿へと向かう前の、カルロスの言葉。


(君、というのはお母様のことよね……?)

 〈宝石箱〉で閉じ込められている時、母の情報を少しでも手に入れたくて、女官や騎士の記憶を覗いたことがある。

(たしか、お母様の実家はレンブライト家)

 レンブライト家は、かつて巫女を輩出していた家系だ。悪魔が封印され、神も地上に手を出さなくなった今、巫女の力は薄まっている。巫女は、神の声を聴き、どんなことでも見通す眼を持っていたという。しかし、いくら巫女の血を引くとはいえ、エレノアにはそんな力はない。そう思った時、ふと引っかかる。

(私のこの力が、“悪魔の花嫁”だからではなく、巫女の血を引くからだとしたら……?)

 薄まっていても、力が完全に失われている訳ではないのだとすれば、その可能性はあるかもしれない。しかし、記憶を覗くだけの自分に何ができるというのだ。

 分からない。それでも、このままでは母ジャンナの命が尽きる。

 エレノアは何も答えを掴めないままでも、覚悟を決めた。時間を稼がなくてはならない。悪魔が強引に契約を完了してしまわないように。


「その手を離しなさい!」

 はじめてまともに目を合わせたエレノアに、悪魔はふっと笑った。

「何故だ? 邪魔者はすべて消す」

「あなたこそ、私はまだ十八になっていないのよ。それなのに、何しに来たのかしら? もしかして、馬鹿なの?」

 エレノアの言葉に、悪魔は嘘くさい笑みを消した。それだけで、悪魔を本気で怒らせたことを悟る。どうやら、かなり矜持が高いらしい。悪魔は虫けらでも払うようにジャンナを放り投げ、エレノアに近づいて来る。エレノアは、恐怖を押し殺して、平然と笑ってみせた。

(私の力って、悪魔にも通用するのかしら)

 一か八かだ。

 エレノアは背後に血まみれで倒れている父を思う。悪魔を呼び出して娘を生贄に差し出すと言っておきながら、国が安定してきた頃合を見計らって結局は娘を守りたくて自分の死で幕引きをしようとしている。

 エレノアは、心優しいカルロスの姿なんて知らない。もっといえば、冷酷非道なカルロスの姿だって、自分の目では見ていない。初めて目にした父は、血を流して青白い顔をして、冷酷非道なんて言葉が想像もつかないほど弱々しかった。

 誰が何と言おうと、父の行為は最低だ。人道に外れている。

 このままカルロスが死ねば、父の罪滅ぼしのような結末が待っている。カルロスが用意したシナリオ通りの台詞を吐けば、エレノアは悪魔の花嫁にならずともいい。ジルフォードが言っていた、悪魔を出し抜く方法をカルロスは自分の死をもって実行するだけだ。

 ジルフォードが一度も皇帝を憎む発言をしなかったことが、本当は嬉しかった。それだけで、エレノアはカルロスを死なせたくないと思った。国中のほとんどがカルロスの死を望んでいたとしても、エレノアはカルロスに生きていて欲しい。そのことに、ようやく気付いた。

 だから、あがきたい。自分の力で何かが変わるのなら、奇跡さえも起こせるのなら。


悪魔あなたには屈しないわ。私は、このカザーリオ帝国の皇女なのだから」


 立ち上がり、エレノアは悪魔を見上げた。そして、闇のような存在を正面から睨み付け、その胸倉を掴む。


(封印された記憶を、さっさと私に見せなさい!)


 もう悪魔の闇に呑まれたりしない。真っ向から立ち向かってやる。

 エレノアは、あまりにも冷たく、暗い記憶の闇に意識をとばした。

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