第44話 皇帝の真実

 幸せそうに笑う顔が好きだった。穏やかに、優しく流れていく時が好きだった。

 厳しいことも、苦しいことも、すべては大切なものがあるから耐えられた。何かあれば、皆で手を取り合って乗り越えてきた。

 緑に溢れた、優しい国が好きだった。誰かの命を救うために、芽吹く薬草。

 それは決して、争いの種になるために育てられた訳ではなかった。

 しかし人々は血を流し、村は焼き払われ、穏やかなで平和だった小国は戦乱の舞台となってしまった。

 大好きだった皆の笑顔が、歪んでいく。

「私にもっと、力があれば……」

 涙はもう枯れ果てた。悔しくて、不甲斐なくて、自分自身を殺してしまいたい。しかし、王である自分にはそれはできない。最後まで、諦めてはいけないのだ。

 いつしか、伝説のように王家に語り継がれていた悪魔のことを考えるようになっていた。自分が悪魔に力を求めれば、この国を救えるかもしれない。

(だが、悪魔は人間の思う通りには動いてはくれまい……)

 悪魔を、信用できるはずがない。人間を殺し、世界を闇に沈めようと画策し、悪魔ははるか昔レミーア神とルミーア神に封印された。

 いいように騙されて、終わるだけ。それでは何も変わらない。しかし、悪魔は契約という形を取らなければ人間と魂のやり取りはできない。そして、人間も契約によってしか悪魔の力を手にすることはできない。悪魔はその契約をどうやって曲解して人間を騙すか、ということを考える。ならば逆に、人間側からも悪魔に対する契約を曲解させて悪魔をいいように使うことができるかもしれない。


「逝くな。逝かないでくれ……」

 またひとつ、零れ落ちていく命を前にして、カルロスは決めた。自分のすべてを懸けて、この国を守るための強さを手にしようと。

 勝算は、たったひとつ。すべてを懸けるには不確かな要素。しかしそれでも、行かなければならなかった。すべてを奪い尽くされる前に。

「この子は、君の血を引いているから、信じられる。私たちの大切な、愛する娘。この子がきっと私たちの光になってくれる」

 決意の夜。カルロスは生まれたばかりの娘に会いに行った。大きなベッドに寝かされた赤子の両脇にはジャンナと幼いブライアンが眠っている。二人とも、小さなその手を握っていた。疲れ切ったその顔に、カルロスは苦い顔になる。

 王族である自分たちだけ安全な場所に閉じ籠ることはできない、とカルロスは王城を国民に全面開放していた。怪我人や敵兵の侵略から命からがら逃げてきた人たちで、城内は埋め尽くされている。

 だから、部屋の外からは不安に泣く声や悲鳴、憎悪に燃える叫び声が絶え間なく聞こえてくる。

 しかしきっと、これから変わる。搾取される側ではなく、する側にまわる。悪魔の力をもってして、反撃ののろしを上げるのだ。

 愛する家族に背を向けた時、ジャンナに呼び止められた。その声はひどく不安気で、カルロスは心の内で申し訳なく思う。

「私はこれから国のためにすべてを捨てる」

 ジャンナは何も言わなかった。

「私を、待っていてくれるか?」

 その問いに、ジャンナは笑顔を返してくれた。



 誰も踏み入ることのできなかった古い神殿に、カルロスはいた。王族だけが知る、神殿の入口。石造りの神殿の内部は薄暗く、冷たい。石の床に刻まれた、二重円。そこにはカルロスには理解できない言葉のような模様が描かれていた。この魔法円によって、悪魔は地下に眠らされている。何千年もの間誰の手も加えずにあったとは思えないほど、その模様ははっきりと見え、かすれたところなどは一つもなかった。

 カルロスは円の中心に膝をつき、剣を抜いて自らの腕を斬りつけた。カルロスの血が滴った場所から、円の模様すべてに血が流れていく。まるで血そのものが意思を持っているかのように。

 ――我は願う。この小さき国に大きな力を与えたまえ。

 捧げる血は、悪魔を目覚めさせるためのもの。本当に悪魔が応えてくれるかどうかは賭けだった。永遠にも感じられる沈黙が過ぎ、カルロスが諦めて去ろうとした時、目の前に子どもが姿を現した。しかしその表情は子どもが持つものではなかった。

 ――弱き国王よ。お前の小さな宝石を差し出すというのなら、望み通り周辺国をも呑みこめる強大な力を授けよう。

 可愛いエレノア。ちゃんと愛してあげたかった。それでも、カルロスはもうすべてを捨てる覚悟をしていた。

 しかし、未来への希望を残しておきたいとも思っていた。


「悪魔よ、一つ条件がある」

 残忍なほどに黒い笑みを浮かべた子どもは、その言葉に眉をひそめた。

「私の宝石は、まだ輝いてはおらん。その輝きが最も増す時までに、私の国を頂点に立たせよ」

 カルロスは感情を殺して、淡々と言葉を紡ぐ。なめられたら終わりだ。悪魔は無言でカルロスを睨む。

「悪魔、お前は私のおかげで目覚められたのだ。それに、赤子をもらうよりも、花が綻ぶ十八の娘の方がよほど美しく輝くぞ」

 エレノアの成長を、誰よりも楽しみにしていた。年頃になった娘は、どんな美しい輝きを放つだろうか。

 戦の混乱の中で育ち、あまり笑わないブライアンにはじめて心からの笑みを浮かべさせたのは生まれたばかりのエレノアだった。兄としての自覚が、ブライアンに芽生えた瞬間だった。仲の良い兄妹として、二人は支え合ってくれるだろうとジャンナと喜んでいた。

 しかし、それすれすらもすべて、カルロスは捨てなければならない。

 悪魔に力を与えられるのは、契約者であるカルロスなのだ。幸せだけを願う心など、悪魔に簡単に付け入られてしまう。

 ただ、十八年という月日があれば何か方法を探ることができるかもしれない。奇跡にも近いその方法は、エレノアの血に秘められているかもしれない。その方法は、カルロスには分からない。

 だから、もし何も方法が見つけられなかった場合、カルロスは最後の手段に出る。

 エレノアを、悪魔に差し出さなくてはならなくなったその時に。


「ふん、面白い。いいだろう、契約成立だ」


 悪魔は不敵に笑って、カルロスの身体に入り込んだ。カルロスの手には、つい先ほどまでにはなかった、赤黒い結晶が握られていた。

 カルロスの血と悪魔の血が結晶化したそれこそが、悪魔との契約書だった。



 悪魔に内側から見張られながらも、密かに探していた方法。

 しかし、十八年目を迎えようという時でさえ、カルロスには何もなかった。年月が経つにつれて、かつての自分は悪魔の存在感に圧され、かすんでいた。

 そんな時に、宝石失踪の報を聞いたのだ。エレノアが動き出した。その時が、近づいているのかもしれない。靄のように消えようとしていた意識は覚醒し、内なる興奮を抑えてカルロスは言葉を吐いた。

「十八年、待ったのだ。ここで失う訳にはいかない」

 カルロスはこの十八年間の悪魔による己の所業を思い返し、心を痛めた。そして、一目だけでも娘に会いたいと思った。

 ホルワイズが去ったのを確認して、カルロスは溜息を吐く。まだ完全に封印が解けていない悪魔は、時々カルロスの内で眠りにつく。今がちょうどその時だった。

 だから、カルロスは本音を口にすることができる。

「私が自国の民に殺されれば、悪魔は私の契約を守れなかったことになるだろう。この国はまだすべての頂点に立っている訳ではないからね。だから、私が殺されれば、悪魔は誰にも負けない大きな力を与えられなかったことになる」

 いつか、エレノアがこの言葉を聞くことを信じて、カルロスはふっと笑う。

「可愛いエレノア、お前を悪魔にはやらないよ」

 自分は、自国を守るために悪魔を利用した男になる。その願いに巻き込んで、犠牲になった多くの者たちのためにも、自分が悪魔への贄にならなくてどうする。カルロスは悪魔を体に住まわせている自分の側から離れなかったジャンナを振り返る。ベッドに横たわる愛する妻の姿は痛々しくて、カルロスはごめんねと囁いた。もうすぐ、悪魔が目覚める。

 次に悪魔の意識をも凌駕して自分の意識を出す時は、カルロスが殺される時だ。

 そうして、カルロスの思惑通りに事は動き出す。

 ブライアンが父である自分を暗殺しようと【新月の徒】に働きかけ、〈鉄の城〉は制圧された。もちろん、ホルワイズをはじめとする【黄金】の騎士たちは本気で自分を守ろうとしていたが。

 【新月の徒】のリーダーが寝室に来た時、カルロスは悪魔を抑えつけて微笑んだ。

「私を殺しにきたのか」

「その通りです、皇帝陛下。しかしまだ、死なせない」

 【新月の徒】に鎖を巻かれ、腹部を刺されながらも、カルロスは抵抗しようとする悪魔の力を無理矢理抑えつけた。この身体は自分のものだ。それに、ここで悪魔が出て来ては【新月の徒】は全滅するだろう。

 当然、皇帝暗殺を企んだ息子ブライアンも命はない。

 ――殺せるものなら、殺してみろ。悪魔ごと、私を殺せ。

 しかし、その言葉は声にはならない。カルロスの首は強く、鎖で締め付けられていた。部屋に飛び込んできたホルワイズの姿が見える。小国時代からの、腹心の部下だった。悪魔のことも話をした。エレノアの持つ価値についても。ホルワイズは、悪魔に呑まれたカルロスのことを守ろうとしてくれた。悪魔の気まぐれでいつ殺されるかも分からないのに、ずっと側にいて付き従ってくれた。

 だが、もういい。自分が死んで、すべてを終わらせるから。

 後のことは頼む。そう、言いたかった。しかし、それすらも言えずにカルロスは【新月の徒】に引きずられていった。



 連れられた先で、【新月の徒】が皇帝に恨みを持つ元騎士だということを知った。それも、自分がかつて手を差し伸べ、最後には絶望を見せてしまったジルフォードの口から。

 十年前、〈蒼き死神〉と呼ばれた彼こそが、自分を殺しに来てくれる存在だと思っていた。しかし、彼が自分を殺しにくることはなかった。

 だから、【新月の徒】を放置していたのだ。



(ジルが、エレノアを守ろうとしてくれているなら……)

 どこまでも優しく、強い心を持つジルフォードの言葉を聞いて、カルロスは彼になら任せても大丈夫だと思えた。だから、カルロスは限界まで踏ん張っていた意識を手放した。

 その直後、怒れる悪魔は解放された。タイミングを計ったように悪魔の目的であるエレノアまで王の間に入って来た。

 すべての役者は、揃った……カルロスは消えゆく意識の中でかすかに笑った。

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