息子

今神栗八

★★★

――朝から台所に立つようになってもう一か月にもなるのか……。


 流しの小窓からちらりと見晴らした小山の斜面を山つつじが彩っていた。わずかに吹き込んできた風に、新緑の薫りがしないでもないけれど、台所は今、私が焼き上げたばかりのウインナーの匂いがはるかに優っている。


 続いて玉子焼きの調理にかかる。私の玉子焼きは薄焼きで、甘みもない。あいつが高校生の時、私よりも妻の仕事が忙しくなって、よしそれならと、妻の化粧中に私があいつの弁当を作ってやることが時々あった。おかずはウインナーと玉子焼きのみだった。戦前生まれの男子たる私は、料理などまるで経験不足だったから。ところがその、甘くない玉子焼きが意外にあいつに好評で、一度、「父さん、オレ、父さんの玉子焼き、母さんのより好きだよ」と言われて以来、気を良くして定番レパートリーになっている。


 小鍋に具が煮立ってきた。味噌汁の味噌は最後に溶き入れることをテレビで最近知った。妻が去年、他界する前に教えてくれてなかったからだ。


 ピーッ、ピーッ、ピーッ。


 お、ご飯が炊きあがった。ベストタイミングだ。昨夜、五分単位で計算してタイマーを変えた甲斐があった。炊きたてにこだわるあいつも、これならおかわりをするだろう。


 私は自室に仏飯を供えに戻り、先ほど妻にあげた線香がまだくすぶっているのを良いことに、合掌を省略していそいそと台所へ戻った。


 そこへあいつが二階からバタバタと降りてきた。いつの間に洗顔歯磨きを済ませたのか、もうネクタイも締めてスーツの上着を羽織ろうとしていた。


「父さん、おはよう」


「おっはよう!」


 私は満面の笑みであいさつを返すと、


「ご飯の用意、今できるから、座りなさい」


と言いながら、味噌を溶き入れ始めた。


「いや父さん、オレ、もう行かなくちゃ」


「え? なんで? 昨日より十五分早いじゃないか。お前、ここ三日間、結局父さんのご飯食べる暇なかったから、今日はゴミ出し済ませたらすぐに作り始めたんだ。食べていけよ。ほら、味噌汁できたよ」


「いや、今日は一本早いバスで出社して、やらなくちゃいけない仕事があるんだ。もう行くよ」


「なら三分でかっこんで行きなさい」


 私は味噌汁の椀をウインナーと玉子焼きが乗った皿の隣りに置いた。


「いや、父さんマジで……」


 あいつは片手を上げて辞退した。


 私はムッとした。


「それならどうして昨日のうちに父さんに、明日は早く出るからって言わないんだ。もし聞いていたら、父さんはもっと早く起きて作ってた」


「いや、そういう意味じゃなくてさ……」


「というより、それならなぜもうちょっと早く起きないんだ?」


 言いながら私はだんだん腹が立ってきた。あいつはしばらく俯いていたが、意を決したように顔を上げ、低い声で、しかしはっきりとつぶやいた。


「オレ、父さんに朝ごはん作ってくれって、頼んでないだろ」


「な、な、なんだと!」


 本当にあいつが発した言葉かと目を見開き、耳を疑った。私の形相があまりに変わったので、あいつは一瞬怯んだようだったが、そのまま言葉を継いで言い切った。


「あのさ、父さん。先月退職してから、毎朝オレの朝ごはん作ってくれて感謝してる。だけど、オレも自分のスケジュールで動いてるからさ。もう明日から作ってくれなくていいよ。父さん、オレのご飯じゃなくてもっと別の生き甲斐、見つけた方が……」


「ああ、分かった! もう明日から作らん!」


 大きな声をかぶせてあいつを遮った私は、食卓の皿をつかむと、ゴミペールを開けて、皿の上のものをこれ見よがしに打ち棄てた。椀の味噌汁は流しの三角コーナーにざばっと空けた。その私の後ろ姿に、あいつが声をかけた。


「父さん、悪いけど、もうバスが来るから、行くわ」


 椀を流しに転がしてから、私は手持無沙汰になった。乾いた口を閉じると鼻息が音を立てた。玄関の戸が閉まっても、私は流しのヘリに両手をつき、小窓から広がる外の景色をまっすぐ眺めていた。窓の外では燕たちが右に左に飛び交っていた。


 どれほどの間そうしていただろう。私は小鍋に残った味噌汁が煮詰まった臭いで我に返った。


 火を止めて、ホッとため息をついた。


 それから私は栓抜きとグラスを、そして冷蔵庫から瓶ビールを一本持って自室に戻り、独り座椅子にもたれた。


 線香臭い部屋で妻の位牌に向けてグラスを掲げる。


――せめてあいつが結婚するまではと、母親役も買って出たけれど、オレの独り善がりだったかなあ、母さん。


 苦笑いの口元がそのままゆがみそうになるのを、いい歳をしてみっともないと、私はビールをあおって抑え込んだ。


 三十分後、私は台所へ行き、ゴミペールを開けてみた。他に何もない生ゴミ袋の底に、哀れなウインナーと玉子焼きたちが身を寄せ合って私を見上げていた。


――もうあいつも三十だもんな。


 私はそれら一つ一つを丁寧に拾い上げ、スーパーの白い買い物袋に放り込んだ。小鍋を洗い、三角コーナーのネットも新しいものに交換した。口をくくった袋を改めてペールの底に置き、古新聞やらチラシやらでその上を十分カモフラージュして、ふたを閉めた。


 それから私は手を洗い、二本目のビールを冷蔵庫から取り出して、咳払いをしながら自分の部屋に戻っていった。                              

(了)

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息子 今神栗八 @kuriyaimagami

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