【10月新刊発売記念SS】あやかし双子のお医者さん 四/著:椎名蓮月

富士見L文庫

特別SS あやかし双子とお師匠さん

 誰かが呼んでいる気がして晴は目をさました。

 病室の中は暗く、空調の音がする。三人部屋でベッドは三つあるが、晴のほかにはもうひとり老人がいるだけで、のこりのベッドはあいている。老人は、晴と同じで軽い肺炎らしい。彼の寝息が空調の音に紛れて聞こえてくる。

 だが、ほかのものの気配を感じ取って、晴は目をあけ、視線をさまよわせた。

(おにいちゃん)

 呼ぶ声が聞こえた気がした。といっても耳にではない。頭の中に響いてくる声だ。

(あらし)

 心の中でその名を口にすると、ベッドの傍らにふわりと弟の姿が現れた。

 弟の嵐は、双子なので晴にそっくりだ。晴は左目、嵐は右目の下にそれぞれちいさな泣き黒子があるが、よく見なければわからないほどに小さい。母はそれがなくても双子の見分けを容易につけるが、たまにしか帰ってこない父は黒子で見分けているようだった。一度、母のいたずらで、黒子を化粧品で塗って隠したら、父は戸惑っていた。

(また来たの)

 晴が問うと、嵐は困ったような顔でちょっと笑った。

(うん。さびしくって)

(おいで)

 晴は、なるべく音を立てないように上掛けをそっと上げた。嵐は霊体で訪れているが、それでもものにはさわれる。嵐は安心したように笑うと、晴の隣に音もなく滑り込んできた。

(お母さんには、ないしょにしてね)

 隣に横たわった嵐が言う。晴は思わず弟の顔を見つめた。

(どうしてお母さんは、こういうの、いやがるんだろうな)

 晴が不思議に思って呟くと、嵐は目を伏せた。

(ふつうじゃないからだと思うよ)

 確かに、ふつうではないのだろう。最近は晴もそれをわかっていた。

 双子は人間ではないものが見える。ちょっとしたちいさな存在から、社に祀られた大きな存在まで。それ以外の、けものじみたものも、木々に依るふわふわしたものも。そして、……死んでしまったひとも。

 死んでしまったひとは人間とは少し違っているから、人間以外なのだ。

 晴だけでなく嵐も、幽霊と呼ばれるものをたびたび見かけたし、話しかけられることもあった。死んでまで現世に漂っているものはよくないものであるらしいことも、うっすらとわかっている。

 病院にはときどきそういうものがいる。以前に入院した病院では、夜になるとそうした、人間ではないものや、生きている人間ではなくなってしまった者がさまよっていた。何をしているのか、晴にはわからない。今の病院では、気配もほとんどない。

(ハルくん、いつ帰ってくるの)

 晴が黙ってしまったせいか、嵐が少し心配そうな顔になった。

(もうすぐ帰れるって、お母さんは言ってた)

(だったらよかった)

 嵐は笑うように目をつむった。(ハルくんがいないと、淋しいから)

 その顔が、昼に見かけたねこにそっくりだな、と晴は思う。

(ぼくも、嵐と離れてるとさびしい)

 晴は心の底から言うと、目を閉じた。そのまま、隣にいる弟にさわろうとする。

 体から離れた弟には、さわれるときとさわれないときがある。このときは前者で、さぐると冷たい手にふれられた。嵐はそれをぎゅっと握りしめる。

 さびしい、と嵐は言う。それを聞くたび、晴は自分の淋しさを、嵐がわかってくれているような気になって、言葉に出さずに済んでいた。

 家族と離れてひとりきりでの入院生活は今までにもあったが、いつもは弟が必ず傍にいるから、ひとりでいる淋しさにはなかなか慣れない。

 遠くで仕事をしている父は、晴が入院しても戻って来られないという。母は仕事に行き、その帰りに洗濯物を取りに来て、着替えを置いて行ってくれる。嵐が学校の帰りに寄りたいと言っても、母は、病棟で病気を拾ったらお母さん困るから、と止める。だから嵐は、このようにしてしか、晴に会いに来られないのだ。

(早く帰ってきてね)

 嵐が懇願する。

 嵐と同じ気持ちの晴は目を閉じたまま、ちいさくうなずいた。




 晴は、気づいたときからずっと嵐と一緒にいた。入院生活で離れても、嵐が会いに来てくれるから、生まれてきて今までに一日だって会わなかった日はない。

 さびしい、と思っても、すぐに嵐が来てくれる。

 そんな相手がいる自分は運がいいのだろう。

 ……いない場合は、大人でも淋しいのだろうか。

 晴は具合がいいときは入院病棟の中なら歩き回っていいと言われていた。ただしもちろんほかの病室に入り込んではいけない。入院病棟は広く、複数の科のあいだ、ナースステーションの向かいに図書室と呼ばれる共同スペースがあるので、そこへ行って本を読むくらいだ。

 図書室には入院していた患者が置いていった本がたくさんある。小児病棟で長く入院している子どもたちのための絵本だけでなく、小説やマンガ、雑誌に実用書などもあった。

 マンガは何故か少女マンガが多くて、暇をもてあました晴はマンガから読んでいくうちに、それらをぜんぶ読み終えてしまっていた。

 少女マンガなんてと最初は侮っていたが、読んでみると意外におもしろい。それに、考えたこともないむずかしい内容の本もあった。登場人物が何を言っているか、考えているか、さっぱりわからないマンガもあったが、女の子向けの物語だからかもしれない。

「ハルくん、おはよう」

 午後、昼食のあとで図書室に行き片隅にある机で読書にふけっていると、声をかけられた。それまで図書室には誰もいなかった。

 振り返ると、廊下をやってきたのは、同じ入院患者の青年だった。怪我をして入院したとのことで、杖をついている。事故で左半身に傷を負って、やっと歩けるようになって病棟を移ってきたという。

「おはようございます」

「きょうは何を読んでいるの?」

 この青年は二十歳を過ぎたくらいらしいが、顔立ちも物言いもおだやかで、晴の知っている同年代の若者とはまるでかけ離れていた。落ちついているといえば聞こえはいいが、なんとなく、人間離れした雰囲気を漂わせているのだ。

「これです」

 やさしい低い声で問われて、晴は読んでいた本の表紙を閉じて見せた。子ども向けの大判の本は箱入りで表紙は紫色だ。古びて表紙のところどころがすり切れている。

「『とぶ船』ですか。四人兄弟姉妹でタイムスリップする話ですね」

 知り合って一週間も経っていないが、彼も本を好きらしい。晴がここに初めて来たとき、彼は壁にもたれて本を読んでいた。晴に気づくと彼は、本が好きなんですか、と問いかけた。その物言いは若い男とは思えないほどにやわらかく、どことなくやさしい学校の先生のように思えた。といっても、こんなふうに話す男の先生に、晴は会ったことがない。

「ナルニアみたいだなって思って」

「そういえば、そのお話のお兄さんもピーターでした」

「知ってるんですか」

「ナルニアもとぶ船も昔、読みました。家にあったから」

 彼は苦労して右手で椅子をひくと、晴の隣に座った。少し煙草のにおいがする。この青年は喫煙者だそうで、ときどき喫煙所に行くようだ。見た目の穏やかさとは裏腹に感じられるが、そのにおいを晴はいやではなかった。遠くにいる父も、同じように煙草のにおいがするからだ。

「マンガは全部読んじゃったから、字の本も読もうと思って」

「ここのマンガを、全部読んだんですか?」

 彼は少し驚いた顔になった。壁に沿って置かれた低い書棚には少女マンガが山と詰まっている。少年マンガもなくはなかったが、晴は読んだことのあるものばかりだった。

「うん。思ったよりおもしろかった」

「へえ……」

 書棚に目をはしらせた彼は苦笑した。「ずいぶん偏ったのばかりみたいだけど、ハルくんにとっておもしろいのはあったんですか」

 その問いかけに晴はうなずいて、指折り数え始めた。晴が生まれる前に描かれたらしい古い少女マンガは、SFやアクション、歴史物などとバリエーションに富んでいて、晴には新しい世界そのものだった。

「なるほど。少女マンガでも、男の子も読めそうな話ですね、そのあたりは」

 晴がタイトルをあげた作品の内容を、彼も知っていたようだ。得心したようにうなずいている。

「しかし、ハルくんくらいの男の子が読むような話じゃないものも、ありましたね」

 苦笑する彼に、晴は少し、後ろめたい気持ちになった。

「……やっぱり、だめかな?」

「だめというより、よく話の内容がわかったな、と思っただけですよ。まあ……親御さんが知ったら、ちょっと心配するかもしれませんが。ここのある本はだいたい俺も読んだので……」

「だったら、しらないですか。どうして……」

 晴はあるマンガのタイトルをあげて、彼に問う。最後がどうしてそうなったか、まるでわからない終わりかたをした作品があったのだ。しばらく晴がたどたどしくその作品についての感想を語るのを聞いていた彼は、晴が口を閉じると、困った顔になった。

「それは俺も、読みましたよ。どうしてああなったか、わからなくはないけど……まあ、納得はできないでしょうね、多くのひとには」

 そこで晴は気づいた。自分はあのマンガの終わりかたに納得がいかなかったのだ、と。それまでのもやもやした気持ちが「納得できない」だったとわかると、少し楽になった。

「ただ、マンガだけでなく、たくさん物語を読むとわかるんですが、作者がそうしたいと思わなくても、登場人物が勝手に動き出すことはあるようです。だから、あの話もそうだったのかもしれません」

 彼は、まるで言い聞かせるように、ゆっくりと語った。

「勝手に、動き出す……」

 晴は目をしばたたかせた。登場人物が勝手に動き出す。自分でかいていても考えた通りにできないものなのだろうか。ただただ不思議だった。

「そんなこと、あるんですか?」

「あるらしいですよ。俺は創作活動をしたことがないので、わかりませんが。――そうだ、ハルくんもいつか、何かかいてみるといいですよ」

 いいことを思いついた、とでもいうように、彼は晴に笑いかけた。

「マンガは無理だよ」

 晴は少し恥ずかしい気持ちになってうつむいた。「ぼく、絵はへただから」

 嵐は手先が器用で図画工作はいつも5だが、晴は同じ双子だというのにいつも2がせいぜいだった。1のときだってあるのだ。

「絵は描くのがむずかしいですよね。俺も苦手です。それにマンガは総合芸術で、ひとりでつくる映画みたいなものだそうですよ」

 総合芸術、という大仰な表現に、ますます晴は気後れした。嵐が傍にいないとき、たまにふわふわとお話のようなことを考えたりはするが、そうした考えをとても「総合芸術」などに仕上げられる気はしなかった。

「でも、絵がむずかしくてマンガは描けなくても、小説なら、マンガよりは考えていることを伝えやすいかもしれません」

「小説……」

 晴は改めて、手もとに置いたままの本を見た。これも、小説だ。

「といっても、小説を書くのにも技術が必要で、ただ字や文章が書けるだけでは可能というわけではないようですが……」

 晴の視線に気づいたのか、彼が補足した。

「小説、書いたこと、あるんですか」

 興味津々で晴は彼を見上げた。

「いいえ。……でも、うちに本はたくさんあります。うちは、……そうですね、本の病院なので」

「本の、病院?」

 晴は目をしばたたかせた。本が病気になったり、怪我をしたり、するのだろうか。

「そうです。人間は怪我をしても、自力で治せる場合もありますが、本はそうはいきませんからね」

 彼は、やわらかく微笑んだ。何故か、泣きそうに見える。

「壊れた本を直すのが、俺の家の仕事でした。といっても、父が亡くなったので、今は休業中ですが……」

 彼の身の上を聞くのは初めてだった。晴は言葉をなくす。

「すみません。びっくりさせてしまいましたか」

 そう言われ、晴は慌てて首を振った。

「いいえ、……」

「俺もね、びっくりしているんです。まだ、慣れないけど……父と母は事故で一緒に亡くなったので、さびしくはないとは思うんですが」

 両親ともいないと聞かされて、晴は悲しくなってきた。せめて兄弟はいないのだろうか。晴に嵐がいるように……

「さびしくない?」

 晴が思わず尋ねると、

「だいじょうぶだ」

 ふいに、誰かが言った。

 目の前の青年が、ぎょっとしたような顔をする。

 晴はあたりを見まわしたが、近くには誰もいない。ナースステーションにも、女性の姿しか見えなかった。

「聞こえたんですか、今の声」

 晴のしぐさに、青年が少し、声を低めて問う。晴は少し怖くなった。彼が怒っているような気がしたのだ。

「……」

 しかし黙ってうなずくと、また、声がした。

「その者、我輩が見えるのではないか」

 本を置いている机の上に、ぴょいっと黒い毛玉が跳びのった。晴はまじまじとその毛玉を見つめる。

「ねこ……」

 黒い毛玉は仔猫だった。きんいろの目が晴を見上げる。

 どこから入ってきたのだろう。ここは病院だ。動物は入ってきてはいけないのではないか。

「おい子ども。我輩が見えるのか。声が、聞こえるのか」

「……わがはいってどういう意味?」

 晴は仔猫を見ながら反問した。その単語はマンガにも出てきたが、よくわからなかったのだ。

 すると仔猫は目を細めた。笑っているように見える。

「ほう、ほう。見えて、聞こえるか。それはそれは」

「……ハルくんは、人間ではないものも見られるんですか」

 それを黙って見守っていた青年が、少しだけ眉を寄せながら囁いた。晴はうなずく。

「お母さんは、見えてもそのことをひとに話したらだめっていう……」

「賢明です」と、彼はうなずくと、戸惑いを滲ませながら説明した。「これ、……この、その、仔猫、は、俺の家に憑いている、あやかしです」

「あやかし……」

 晴は目をしばたたかせた。

 この図書室にはこわい話の本やおばけの話の本もあったから、妖怪や幽霊と同じか近しいもののことをそう呼ぶのはなんとなく察した。

「このねこさんを、飼ってるんですか」

「我輩は飼い猫ではない」

 仔猫は少しばかり気を悪くしたようにじろりと晴を見た。だが、そのさまがとても可愛らしい。仔猫だからだろう。凄んでいるらしかったが、とにかく可愛い。晴はにこにこした。

「ハルくん、怖くないですか」

「怖くないよ。可愛いよ」

 問われて晴はそう答えた。

 仔猫が得意げに喉を反らす。

「可愛いか、そうか。やはりこの姿にしてよかった。忌まれたり怖れられたりするよりいい」

「ねこさんは、どこから来たの?」

 晴は疑問を口にする。あまりにも仔猫の登場が急だったからだ。

「こやつの影の中ぞ」

「影の、中」

 晴は仔猫の可愛さに見とれつつ、首をかしげた。どうやったら影の中に入れるのだろう。そういうことができるから、「あやかし」なのだろうか。

「無闇に人前に姿を現さないでほしいと言ったはずですが」

 青年が声をひそめて仔猫に苦情を述べる。

「そうは言うが、どうせ姿を現しても、見えぬ者には見えぬであろう。我輩も、今となっては一介のあやかし」

「ハルくんには見えちゃってるじゃないですか」

 青年が困った顔をする。

「見えたら、いけなかったですか」

 見えないふりをするべきだったのかもしれない。晴はそんなふうに考えた。母は、双子がひとではないものが見えることを、父を含むほかの者には言わないようにと強く言いつけている。それは正しくないことだからだろうかと晴は思ってしまう。

「そうじゃないですが……」

 青年は首を振った。「ただ、見えることは、よいことばかりではありません。ふつうのひとに見えないものを見えると言っても、なかなか信じてはもらえませんし」

「うん。それはお母さんもよく言う」

「お母さんはこのことをご存じなのですか」

「うん。……」

 ふしぎなものが見えても、見えていない、知らないふりをする。それは母の教えだった。そのように言われると、自分に、ほかのひとには見えないものが見えることはよくないような気がして、晴は罪悪感を覚えてしまう。

「その、……うまく言えないんですが、確かに、ほかのひとには見えないものが見えることは、あまり知られないほうがいいと俺も思います。ひとによっては気味悪がったり、……あるいは、ハルくんはまだ子どもだから、わるい大人に利用されるかもしれませんし」

「わるい大人に、利用?」

 晴は首をかしげた。

 青年が、少し考えるような顔をしつつ、口をひらく。

「その、わるいものが憑いているからとってあげる、と言って、ひとを騙す者もいます」

「ぼくはそんなことしないよ」

「もちろん、ハルくんがそういうことをするという意味ではないです。そう言って、ひとにお金を払わせるひとがいます。わるい憑物をほんとうにとることのできるひとはいなくもないですが、そのようにひとを騙す詐欺も多いので……無闇にそのように言うと警戒されたりもします」

「そんなわるいひとがいるんだ」

 晴は驚く。思いも及ばないことだった。

「そうですよ。――それでもし、そういうわるいひとが、ハルくんがほんとうにみえるとわかったら、その力を利用しようとわるだくみをするかもしれません。……だからあまり、よそのひとに知られないほうがいいんですよ」

 実際に見えているのに、その力を利用してわるだくみとはいったいどういうことをするのだろう。考えたが、晴には見当もつかなかった。

「わかった。とにかく、知られたらだめなんだね」

「よほど信じられる相手でもない限りですが」

「だったら、……鳴瀬さんのこと、信じていい?」

 晴が問うと、彼は奇妙な顔をした。晴の言葉が意外だったらしい。

「幼き者の信頼は裏切ってはいかんなあ、倫太郎」

 仔猫がニヤニヤしているように見える。仔猫らしからぬ表情だ。

「そうですね。……俺のことは信じてくれていいです。でも、内緒にしてください」

 しばらくして鳴瀬は、そっと自分の口に人差し指を立てて見せた。「俺もハルくんと同じようにみえることは」

「うん」

 晴はうなずいた。「ひみつだね」

「そうです。秘密ですよ」

 鳴瀬はにっこり笑ってうなずいた。




 揺り起こされて晴は目をさました。

「桜木さん。夕飯できたわよ」

 昔の夢を見ていたな、と晴はぼんやり思いながら起き上がる。仮眠だったので事務所のソファだ。低いテーブルには食事が並んでいたが、いつもより皿の数が少ない。

「これは?」

 弟子の少女に尋ねると、彼女は晴の向かいに腰掛けつつ答える。

「胃の調子がよくないって嵐くんに聞いたから、おかゆ」

 いつもの茶碗ではなく大きめの椀に盛られた白いおかゆには、赤い梅干しがのっている。

「これだけか……まさか君もか、速水くん」

「そうよ」

 食事をつくるついでに、弟子もここで夕食をとることが多い。

 そんな彼女は、何を怒っているのか、少しこわい顔をしているように見えた。その足もとできなこ色のねこが二本のしっぽをゆらゆらさせている。さわりたいが、食事の直前なので晴は我慢した。

「もっと食べたい?」

「いや、いい。確かにそんなに入らない気がする」

 そう答えて晴は座り直した。隣にふわふわと弟が寄ってくる。

 弟は今や食事を必要としない身だが、晴がこうして事務所で弟子の食事を口にするとき、必ず寄ってくる。たぶん晴を通して味わっているのだろう。

 弟が死んでから、生きていたときよりどこか深くでつながっていることを晴は感じる。それがいいことかわるいことかはわからない、と、病院で知り合い、その後、細々といろいろなことを教えてくれた男は言う。

 彼はいろいろなことを教えてくれたから、師のように晴は慕っている。だから、この少女を弟子にすることに、晴はさほどためらわなかったのだ。

「いただきます」

 晴は手を合わせると、クリスマスにプレゼントで弟子の少女からもらった木匙を手にした。おかゆはほんのりと塩味がきいている。口に合う、懐かしい味だ。

 子どものころの晴は今より内臓が弱かったので、よくおかゆを食べたものだ。弟はその横で母と同じふつうの食事を食べていた。

「莉莉ちゃん、それじゃ足りなくない?」

 嵐が問う。弟子の少女は晴の向かいで同じようにおかゆを食べている。

「べつに。夜は少なくていいのよ。これで充分だわ」

「おかゆを食べると病院を思い出すな……」

 晴ははんぶんほど食べ終わってから呟いた。

「桜木さん、入院してたことあるの」

「ああ、何度か」

「ハルくんは昔、体が弱かったからねえ」

 言葉少ない兄を補足するように、嵐がつづける。相変わらず、嵐は晴の気持ちを察して、先回りしてくれる。

 嵐が死んで、それでもこの世に残ったことを報告したとき、鳴瀬は、ハルくんは弟さんに甘やかされているねえ、と少し困ったように笑ったが、悪いともいいとも言わなかった。一方的に善悪を断じることのない彼が、初めて会った術者であったことは自分にとって幸運だったと晴は思う。

 晴にとって彼は師そのものだが、嵐にはそうではない。双子なのに、そこだけは異なっていた。

 鳴瀬とは、ふたりだけの秘密だから、と約束したが、嵐は彼のことを知っている。晴が話したわけではなく、嵐が見舞いに来たときに彼のことを知られてしまったのだ。

 あちらも、誰かに晴の話をしているかもしれない。もし話す相手がいるならそのほうがいい、と晴も思う。

 自分が彼を師として尊敬し、彼が自分を生徒のように思ってくれた関係が誰にも知られないより、関わらずとも知っている第三者がいたほうが、ほんとうにあったことだと思える気がするのだ。――おたがい以外、ほかに誰も知らない関係では、相手をなくしたときに、何もかも自分の夢だったのではないかと思ってしまうから。

 父や母とも離れ、祖父もどこにいるかわからないときに、嵐は死んだ。

 閉じた世界にふたりきりでいられてしあわせだったはずが、片割れをなくした晴は、ほんとうに弟がいたのか、自分以外にはわからない状態に置かれた。

 記録上、嵐がいたことは明瞭だ。しかし、傍らにいる触れることのできなくなった嵐が、自分の妄想によるものなのか、本当に戻ってきてくれたのか、不安に苛まれることがあった。

 だが、今は、この少女がいる。彼女は嵐と言葉を交わすことができる。嵐も、彼女を可愛がっている。

 ありがたいと思うが、晴の悪い癖で、嵐には彼女に対する感謝が通じているだろうから、それでいいと思ってしまう。

 いつか彼女にも、いてくれるだけでありがたいと告げねばならないだろうか。それはひどく気恥ずかしいことのような気がして、まるで勇気が出ない。――死ぬまでに言えればいいかと考える程度には。

「桜木さんったら、体が弱かったのに喫煙者なの?」

 弟子は、信じられないというように晴を見た。

「そうだよ。今はこんなに大きく強くなっちゃったけど、ときどき体を壊すから心配だ」

 嵐が懐かしそうに言う。

 死んでまでそのように自分を案じているから、弟はこうして傍にいる。

 それを晴は、申しわけなく思うときもあれば、いつまでも心配しているがいい、と思ったりする。

 この状態がいいのかわるいのかは、終わってみなければわからない。

「まあでも、喫煙者が無理やり禁煙すると、ストレスで体を壊すこともあるらしいものねえ……」

 おかゆを食べていた弟子が、ふとそんなことを言う。「無理には、止められないわ」

「そうだな。俺も、誰に止められてもやめられる気がしない」

「その代わり、体を壊さないように気をつけてね」

「心しよう」

 年下なのに姉のようなことを言う弟子へ、晴は無責任に請け合った。

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