2-2

「……で、どちら様?」


 ノインと少女がそろってカウンターテーブルに着くと、少女の隣にいるカリーナが二人を流し見ながら、そう尋ねてきた。カリーナの前には、先ほどはなかった琥珀色の液体の注がれたグラスと、『ヴァルキリー』のラベルが貼られた茶色の瓶がある。車の運転をどうする気なのか知らないが、どうやらボスウィットお気に入りの酒を一杯ひっかけているらしい。


「ここからの帰りに、魔法使いが連れててな。そのまま放っとくわけにもいかねーだろ」


 ノインはその魔法使いから回収したペレットをテーブルに置きつつ、端的に事情を説明する。


「へぇ。お人よしね」

「うるせぇ」


 と、カリーナとのいつも通りの会話。

 ボスウィットはというと、今はカウンターの隅でノインと少女のためのコーヒーを淹れている。少女が飲めるかはともかく、ここにはコーヒーと酒、水ぐらいしか置いていないので、まともに客人に出せるのはコーヒーぐらいである。


「でも魔法使いが食べもせずに人間連れてるなんて珍しいわね」


 魔法使いという生き物は、その体の維持に莫大なエネルギーを使うらしい。

 エネルギーの切れた魔法使いは一定時間で死亡してしまうことがわかっており、活動しない昼間に関しては仮死、あるいは休眠状態であると推測されている。よって人を食らう理由も、エネルギー変換効率がいいからという見方が強く、彼らは生命の危機となれば共食いに走ることさえあるらしい。つまりそれだけ彼らは食に貪欲なのだ。カリーナの言葉ももっともである。


「ま、運が良かったってことだろうな」

「この子、怪我とかは?」

「ん……あ、まぁ大丈夫みたいだ。俺の勘違いだったらしい」


 奇妙な返事に、カリーナは一瞬、頭上に『?』を浮かべていたようだったが、特に深くは追及してこなかった。


「ま、ともあれそういう経緯でな。朝になったら近くの公安署にでも連れてけばいいだろ」


 と、ノインはボスウィットからコーヒーの入った使い古しのアルミカップ二つを受け取りつつ答える。連れて行くのはボスウィットに頼むつもりだが、それについてはまだ黙っておいた。

 そして会話が途切れると、カリーナは横にいる少女に向かって話しかけた。


「ねぇあなた、お名前はなんていうの?」

(……そういや聞いてなかったな)


 そんなことを思い、ノインも少女に視線を移す。

 しかし少女は、二人の間できょろきょろしつつも、何も答えなかった。


「どーした? 名前、わかんねーか?」


 と、ノイン。が、彼女は、今度は無言で俯いてしまう。さすがに言葉を知らないということはないと思うのだが……話したくないのだろうか。


(……ま、無理に聞き出すこともねーか)


 ノインはそう思い直すと、彼女から視線を外す。

 どうせこの少女とはあと数時間の付き合いである。公安に連れて行くのだし、こういうことは彼らの仕事だ。自分たちが彼女の元いた場所や名前などを聞いたところで大した意味もない。カリーナも同意見のようで、少女をそれ以上追及しようとはしなかった。

 それからしばらく、ノインとカリーナ、そしてボスウィットは彼女の処遇についていくつか会話を続けた。ただそれも彼女が喋らない以上実りのあるものではなく、公安だと彼女を引き渡す際の手続きが煩雑そうだだの、なら迷子の保護もやっている民間の孤児院はどうかだの、そんな取り留めもない内容の雑談だった。

 しかしあるとき、ノインは横からコートを引っ張られた。見ると、少女がノインのコートの裾をぎゅっとつかみ、うつむいている。


「……なんだよ?」


 言いつつ、ノインはコートを引っ張って少女から逃れようとするが、彼女は驚くほどの力でノインに抵抗してくる。


「……おい」

「…………」


 相も変わらず、少女は何も喋らない。

 だがある時、少女は無言のままでノインに抱き着いた。先ほどよりもずっと悲しげな顔で、じっとノインにしがみついている。


「……もしかして、ノインと一緒がいいの?」


 様子を見ていたカリーナが少女に聞く。すると少女は小さく頷いて、肯定の意思を示した。

 どうやら、こちらが話し合っていた内容を受けての行動であるようだ。

 しかし。


「……いや、困るんだが」


 言いながらノインは少女を見下げる。

 彼女と自分が一緒にいるなど、まず無理だ。金銭面でもそうだが、社会的な問題がある。ノインとしては早く彼女を然るべき場所に帰したいというのが本音だ。

 だが少女はそれを許すつもりはないようで、より強くノインを抱きしめてきた。


「えらく気に入られてるわね」

「……らしいな」


 なぜいきなり懐かれているのかさっぱりわからないが、ノインは少し面倒そうに吐き出す。

 だがカリーナはそんなノインの反応は気にも留めず、むしろ楽しそうに少女に語りかけた。


「ねぇ。あなた、ノインのこと知ってるの?」


 カリーナの言葉に少女は顔を上げ、小さく首をかしげる。


「わからない?」


 そして次はじっとカリーナを見つめ返す。


「でもノインは好き?」


 と――そこで少女は少しはにかんで、ノインにぎゅーっと抱き着いた。


「……かっわいいわねこの子」


 カリーナは何やら興奮気味に口元を拭う。その目は完全に危ないおねーさんだ。

 しかしその時、少女はピタリとじゃれつくのをやめた。別にカリーナの様子に驚いたわけではないようで、少女はカウンターの上にある、あるものをじっと見ていた。彼女はカウンターに身を乗り出すようにしてそれに手を伸ばす。が、あと少しが届かない。


「……なんだ? これか?」


 彼女が興味を示したのは、カウンターにある写真立ての前に飾ってあった百合の花だった。近くに座っていたノインが花瓶から百合を取り、彼女に与える。


「お花、好きなの?」


 と、カリーナ。そしてその言葉に少女は小さく頷く。

 花を見つめる彼女は嬉しそうで、その姿は年相応の少女そのものだった。

 そしてそんな彼女の様子を見ながら、カリーナは予想外の言葉を飛ばしてきた。


「ねぇノイン、この子、私たちで預かっちゃおうか」

「は?」

「もちろん、この子の家を探すまでの間だけよ?」


 言ってカリーナは、さもありなん、ってな表情で肩をすくめてみせる。


「馬鹿言うな。預かる期間云々関係なく、ンなもん半分誘拐じゃねーか。犯罪者にはなりたくないね」

「住所偽装して討伐屋やってる人間が何言ってるのよ。……この子、なんだかあなたに懐いてるし、離れたくなさそうだし」


 そこでカリーナは、「ね?」なんて風に少女に笑顔を向ける。

 だがそんなことで、ノインの意思は変わらなかった。


「無理だし面倒だ。それにその話の流れでいくと、俺がメインでこいつの保護に付き合う羽目になりそうじゃねーか」

「いいじゃない。この子を元いた場所に返すまでなんだから。家なんてこの子が覚えてたら今日の昼間でもすぐ見つかるでしょ? それに案外、楽しく過ごせるかもよ?」

「あのな――」

「……一緒がいい」


 突然声を発したのは、少女。

 涼やかな彼女の声は、店の空気に静かに溶けてゆく。初めて聞いた彼女の言葉が宿すのは、どこか儚く、悲しい雰囲気。

 すると彼女は百合の花を握ったまま、こちらを見た。

 ノインは、すがるような目で自分を見上げる少女を、複雑な表情で見返す。


 ……なんというか。その、困る。


 素直に人から頼まれるというのは、どうも苦手だ。どうしていいかわからなくなる。

 ノインは助けを求めるようにカリーナとボスウィットを見やるが、二人は知らん顔でだんまりを決め込んでいた。

 ノインにとって気まずい沈黙が流れる。

 だが少女の不思議な色の瞳は、じっとノインを捉えて離さない。そしてその瞳は再び、ノインをある感覚へとさらってゆく。それは先刻、彼女に抱き着かれた際に感じた、あの既視感。


(……なんだってんだ)


 目の前の少女とは確実に初対面なのだが、自分は前に彼女とこうしていたことがあるような、そんな気がする。気のせいといえばそれまでだが、ノインにとってそれは不思議と無視できない何かを宿していた。

 するとその時、重苦しい鐘の音が街に響いた。

 それは夜の終わりを告げる鐘。夜明けを告げる希望の鐘。

 と、そこでノインは――別に鐘の音をきっかけにしたわけではなかったが――長いため息をつき、彼女に告げた。


「……わかったよ」


 言葉を聞いて少女の顔がぱっと明るくなる。そして彼女はノインに勢いよく抱き着いた。

 本当に、なんでこうも懐かれているのか。

 ノインは今一度記憶を探ったが、それらしい解答は見つけられなかった。


「ふふ、お人よし発動、ってね」


 しばらく黙って様子を見ていたカリーナがニタニタとした人の悪い笑みを浮かべ、ここぞとばかりにノインを茶化す。


「やかましい。最初はお前が言い出したことだろうが」


 最終的に選んだのは自分だが、ノインがこの決定を下したことにカリーナも無関係ではない。彼女が最初にこんなことを言い出さなければ選択肢にすら上らなかったかもしれないのだ。

 彼女も彼女で大概お節介である。


「ったく。さっさと家に帰さなきゃな……」


 ぼやきがちに、ノインは言う。だがそこで、カリーナが口を挟んだ。


「ねぇ、ノイン。もしこの子の家族が、悪い人たちだったらどうするの?」


 カリーナが示したのは、先ほどノインが考えていたことと同じ懸念だった。

 しかしさすがのノインも、それはすっぱり切り捨てた。


「それは知らん。俺がどうこうするようなもんでもないし」


 ノインはそう言って、頬杖をつく。カリーナはなぜか意外そうにこちらを見ていたが、それは無視して、ノインは話を進めた。


「で、あらためて聞くが、お前、名前はなんていうんだ? 家はどこだ?」


 頬杖をついた姿勢のままで隣の少女を見やり、ノインは言う。

 だが少女は、やはり何も答えない。


「なぁ、もう教えてくれてもいいだろ? お前の家、探せねーぞ」


 すると少女は、ノインの目を見返して、ぽつりと言った。


「なまえ、しらない。いえも、しらない」


 その返答に、ノインは一瞬ぽかんとする。そして、一言。


「……おい、マジか……」

「うーん……やっぱりか」


 続けたのはカリーナ。


「お前……わかってたのか?」

「予想よ予想。この子、最初に名前を聞いた時も、答えないんじゃなくて、答えられなさそうにしてたから。記憶喪失ってのはすぐ思いついたわ」

「……ならその時点で言ってくれよ。つーか、なんでそれを予想してて預かるとか言い出したんだよ。面倒臭くなるのは目に見えてるじゃねーか」

「うーん。何て言うかなー。この子に親近感湧いたっていうか、共感したっていうか? そんな感じ」


 あっけらかんと彼女は言う。


「でも厄介なのは確かよね。こっちの話は一応理解してるみたいだし、話せるようだから、たぶん一定の知識はあるんだろうけど。……抜けてるのは、あくまで記憶だけってところかしら」

「……名前も、帰る場所もさっぱりってことか……」


 ノインは彼女の保護を引き受けたのをさっそく後悔する。彼女が話してくれれば、帰す場所もすぐわかると思っていたのだが、彼女がこれでは、こちらだけで身元を特定するのは困難だ。


「やっぱ公安だな。さすがに預かるなんざ無理だよ」


 言ってノインはひらひらと手を振る。

 しかしそこで、ノインは少女と目が合った。彼女はじっとこちらを見ていて、大きな瞳に明らかな悲しみを宿している。今にも泣きだしてしまいそうな雰囲気だ。一緒にいるという約束をさっそく反故にしようとしていた事実が、ノインの胸をちくりと刺す。


「あー……うん。いや……」


 するとノインはガシガシと頭をかいて、彼女の頭に手を置く。


「……悪かったよ。元いた場所がわかるまで一緒にいてやるから、そんな顔すんな」

「……うん」


 ふと見ると、カリーナは顔に『やっぱお人よし』なんて言葉を貼り付けて、笑っていた。


「……まぁ、行方不明者の報道とかあるかもだしな。それ待ってみるか」


 彼女を連れていた魔法使いは負傷していたのだ。もし、あの魔法使いが攻撃を受けた時点で彼女が連れられていたのなら、あれを狩り逃した者が彼女を知っている可能性は十分にある。となれば、行方不明者としての情報もすぐに上がってくるかもしれない。それに彼女も、意外とすぐに記憶を取り戻すかもしれない。


「にしても、問題は名前だな。とりあえずなんか呼び名付けとくか」


 しかしそうはいうものの、名前など、そんなパッと思いつくものでもなかった。ノインとカリーナは二人して頭を悩ませる。


「そうねぇ……この辺で一般的な女の子の名前となると……メアリーとか、アメリアとか?」

「ああ。……そうだなぁ……」


 別になんでもいいのだろうが、カリーナの出した案はどうもしっくりこなかった。

 しかしその時、ノインは未だに彼女が握っている花にふと目が行った。


「……百合か……」


 ノインの言葉は小さく呟かれたものだったが、カリーナは、それを拾った。


「百合、ね……。うん。リリちゃん、とかどう?」


 彼女が出した案は百合(リリィ)という単語を捻るわけでもないネーミングだった。


「……安直すぎねーか」

「じゃ、本人に聞いてみましょ」


 カリーナは彼女と目線を合わせるようにして、名前の可否を尋ねる。

 すると少女はこくこくと頷いた。


「いいって」

「……そうか」


 ちゃんと理解しているのかは知らないが、彼女がいいというなら別にそれで構わない。


「じゃ、改めて、リリちゃん、よろしくね」


 カリーナは彼女の名前を呼び、握手を求める。心なしか、さっきまでよりも少女の表情が柔らかい気がする。そしてカリーナはそのままの流れで自己紹介を始めた。


「私はカリーナ。わかる? か・りー・な」

「かりーな」


 リリはカリーナの名前を反復した。その応答にカリーナは微笑んで、彼女の頭を撫でる。

 そしてカリーナは、次はボスウィットに自己紹介するよう促した。


「…………」


 だがボスウィットは黙ったまま、近くにあった飴玉の包みをリリに渡しただけだった。

 子供嫌いだということは聞いていないが、接し方がまだよくわからないのだろうか。

 ノインに関しては今さらな気がするので、改まった自己紹介はしなかった。

 しかしそこで、今まで事を静観していたボスウィットは、あることを指摘した。


「ノイン。嬢ちゃんの服はどうすんだ」


 言われてノインはリリを見る。今のところ寒がっている様子はないが、彼女の衣服は汚れた薄着一枚だ。しばらく預かることにはなりそうなので、さすがにこんな恰好のままにしておくわけにもいかないだろう。ボスウィットの言う通り、何かしら別の服を用意してやる必要がありそうだった。だが子供の服など持っていないし、買うにしても、一式揃えるとなるとそこそこの出費だ。金欠の人間にとっては、特に手痛い。


「……よし、金は三人で割り勘だ」


 ノインはそう宣言し、残り二人に同意を求める。が、その二人はすぐさま首を横に振った。


「奨めたのは私だけど、最終的に引き受けたのはあなた一人じゃない」

「俺ぁ、知らん」


 言ってカリーナとボスウィットはノインから目を背ける。


(……くそったれ……)


 どうやらリリの件では、(少なくとも金に関しては)自分は孤立無援らしい。ただ、彼女を拾ってきたのは自分であるわけだし、初めから二人の財布に頼るというのも少々虫のいい話なのかもしれない。

 しかしノインとしては、カリーナと同じく我関せずといった態度を取るボスウィットには噛みつかずにはいられなかった。


「おい、てめぇは知らんじゃねーだろ。さっきの話はどうなった」


 ノインが言うのは給料を『あずかり知らぬところで借りられた』件についてだ。

 カリーナはともかくとしても、先刻金絡みでひと悶着起こしているボスウィットが少女の服の代金云々でこの態度というのは、納得できない。

 だがボスウィットは泰然と告げた。


「それとこれとは話が別だ」

「……け」


 一発で言い返され、ノインは不機嫌そうに視線を逸らす。変わらず納得はいかないが、そう言われてしまえば、一応その通りではある。

 まぁしかし、ボスウィットも一日のスロット代にすら困っていたほどなのだ。どのみち彼に金の期待などできないだろう。面倒な話だが、なんとか安い服を探すしかあるまい。

 するとその時、ノインの横から不気味な笑い声が上がった。


「ふっふっふ……」


 声は他でもない、カリーナのもの。


「……んだよ」

「おねーさんに任せなさい」

「は?」

「今うちね、あるお客さんの都合で結構な数の服やら雑貨やらを譲り受けてるわけなのよ」

「……はぁ」

「でね、その処分、どうしよっかなーって思ってたんだけど、困ってるノイン君のために破格の値段で譲ってあげる」

「…………」


 カリーナの言葉を、ノインは思いっきりいぶかる。

 彼女は討伐屋とは別に、副業として『何でも屋』的な店を経営している。業務内容は探偵業から物品や情報の販売まで、まさに『何でも』だ。ギリギリ犯罪には手を染めていないと言っているが、どこまで本当かは怪しいものである。

 しかし彼女の経営手腕はかなりのもので、怪しげな商売の割には儲かっているらしい。討伐屋としても優秀で、比較的名前を知られている彼女なだけに、顧客からの信頼も厚いそうだ。

 つまり今回の彼女の申し出は、何でも屋として抱えた在庫の処分にノインを利用しよう。と、そういうわけである。


「……金は取るのな」

「当然。でも安くしとくから心配しないで」


 カリーナはどんなことであれ、商売であれば正直だ。彼女が安いといえばきっちり安いし、タダといえば本当にタダで物をくれる。しかしノインとしては少し気になることもあった。


「……大丈夫なんだろうな? それ」


 ノインが心配したのはその服や雑貨の『安全性』である。この話を持ち出されたときにノインが怪訝そうにしたのはそのためだ。

 仕事柄仕方ないのだろうが、カリーナの取り扱う物品は、場合によっては多くの意味で危険、あるいは不良品だったりすることがある。ノインも以前金欠の時に、彼女が扱っていた食料品を格安で譲ってもらったことがあるのだが、いろいろとトラウマになるレベルのものだった。


「安心して、普通のものよ」


 カリーナは笑いながら、ノインの言葉に答える。

 正直現物を見るまではあまり信用ならないのだが、そう言われては、信じておくしかない。自分が貧乏人であることは変わりないし、安く済むならそれに越したことはないのだ。

 ノインは彼女の提案を正式に承諾する。


「じゃあ商談成立ってことで」


 カリーナはそう言うと立ち上がって、ノインにあるものを差し出した。


「……んだよ」


 ノインは露骨に嫌そうな顔でそれを睨む。

 彼女の指につままれているのは鍵だった。持ち手部分には、公安のイメージキャラクター――デフォルメされ、直立して公安の制服を着た犬――『シェパドッグ』がデザインされたプレート状のキーホルダーがついている。それがなんの鍵であるかはノインもよく知るところであり、故に差し出した彼女の考えを察するのは簡単だった。

 そしてカリーナはノインの予想を見事に裏切らなかった。


うちまで送ってちょうだい」

「……なんで俺が」

「どうせこの後帰って寝るだけでしょ? 私を送って、ついでにこの子の服を受け取るってことで、ね?」


 カリーナはにこやかにほほ笑む。酒を飲んでいたのはこういう魂胆だったらしい。


「俺の帰りの足はどうすんだよ」

「いつもは歩いて帰ってるでしょ」

「…………」


 ノインは車の免許など持っていないが、討伐屋は『緊急時であれば』無免許でも一定距離間の一般車の運転は可能である。そのためノインはこれまでも何度か『自主的な緊急事態』を設定する形でカリーナの足に使われたことがあった。いつもとは、そういう意味である。

 だが、ここで引き下がってこき使われるのも癪なので、ノインはあえて反論した。


「……別に服なんて今じゃなくてもいいから、テキトーに見繕って明日にでも持ってきてくれ」


 だがその言葉に、カリーナは青の瞳をすっと細めた。そして彼女は、形のいい唇の端を僅かに吊り上げて口元を緩めると、今までに浮かべていた笑みを、いたずらっぽいそれに変える。


「へぇ、そんなこと言うんだ?」

「…………」


 彼女の背後には黒いオーラが……見えたかどうかは定かではないが、彼女の雰囲気に、ノインは得体のしれぬ何かを感じた。これ以上下手なことを言うと、服は売らないとか、値段を釣り上げるとか言われそうである。よってノインは早々に、懸命な判断を下すことにした。


「……送ればいーんだろ送れば」

「素直でよろしい」


 カリーナはノインに対してにっこりと笑いかける。

 そして彼女は、ボスウィットと軽く別れの挨拶を済ませると、立ち上がった。


「じゃ、よろしく」


 言って彼女は玄関へ歩き出す。ノインも当然それに続こうとする――が。


「いく」


 言ったのは、リリ。彼女はノインのコートを引っ張り、付いて来ようとしていた。


「お前はここで待ってろって。外寒いし、それにあの車、三人は乗れねーんだよ」


 カリーナの車は二人乗りだ。しかも、いわゆる家族向けの車ではないため、座席スペースに余裕はなく、子供とはいえ無理矢理乗せられるかは怪しいところである。

 だがリリはノインのコートをつかんだまま、離れようとしなかった。

 するとそこで、カリーナは言った。


「いいわ。一緒に行きましょ」

「おい――」

「どうせサイズのことがあるもの。彼女が一緒のほうがいいわ。帰りは始発の路線車使えばいいだろうし」

「車の定員はどーすんだよ」

「大丈夫大丈夫♪」


 そしてカリーナはリリのところまで来ると、彼女の両肩に両手を添えて、そのまま玄関へ押していく。


「着くまでちょっと寒いかもしれないけど、我慢できる?」


 なんてことを言いながら。

 そしてノインも仕方なく、二人の後に続いた。

 だがその後、表へ出たノインは、停めてある車を見てカリーナに問うた。


「で、どうすんだよ」


 カリーナには何か策があるようだったが、やはりこの車、三人乗るのは厳しい。

 可能性があるとすればリアトランクだが、体の大きさから考えるとそこに入るのはリリになる。いくらなんでも不憫な話だ。

 しかしカリーナはノインの問いに答えることなく、一人さっさと助手席に乗り込む。

 そして腰のところでシートベルトを締めると、自身のコートの前を開け、膝をポンポンと叩いてみせた。


「リリちゃん、おいで」


 どうやらリリを膝に座らせるつもりらしい。コートは、二人羽織のようにでもするつもりか。


「……和やかな家族連れかよ」

「よろしくね、おとーさん?」


 カリーナは口元に平手を当てて、ほくそ笑む。

 一時的とはいえ、リリの面倒を見ることになった現状を鑑みると、保護者でないとも言い切れないので、ノインにとってその冗談はあんまり洒落にならなかったりする。

 そしてノインはカリーナを無視して運転席に乗り込んだ。次いで、自分のコートを脱いでカリーナに放ると、リリに着せろと目線で合図する。薄手のコートだが、ないよりはマシだろう。

 そしてカリーナはノインの指示通りリリにコートを着せると、彼女を車に乗り込ませた。


「じゃ、いくぞ」


 言ってノインはエンジンをかけつつ、慣れた手つきでギアスティックやペダルを操作する。

 そして三人を乗せた車は、エンジン音と車輪の回転音の二重奏を引き連れながら、まだ人気のない早朝の通りを駆け抜けていった。

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