第5章 新入社員の本配属

023 第5章 新入社員の本配属

 市柳さんが嫌がろうが、本配属で彼女を営業1課にしてしまうことは可能だと思う。

 ただ、うちの課長はそういう強引なタイプではない。可能な限り円満えんまんな関係を目指すはずだ。

 市柳さんの気持ちが営業1課に向いていないのなら、課長はたぶん手を引いてしまうだろう。


 たとえば、恋愛なんかでも課長はそういう人みたいだ。強引に女性との関係をどうこうしようとした経験はないらしい。

 昔、奥さんとの恋愛話を聞かされたことがあるのだけれど、奥さんから一方的にアプローチされたと課長は語っていた。


「なあ、大沼。俺……恋愛とかで、こっちからは強引にせまらないタイプだからさあ……」


 どうでもいい話だった。

 話を聞いた当時の俺は、社会人3年目くらいで本当に仕事に夢中で課長の恋愛話なんかにはクソほども興味がなかった。

 だから話の細かい部分は、今では覚えていない。

 とにかく人間関係に関しては、課長は強引なことをする人ではないのは確かだと思う。


 木曜日と金曜日の二日間はオークションの下見会が行われた。

 続く土曜日は、オークション本番である。

 今回も俺を含めた三人のオークショニアで交代しながら、オークションを進行することになっていた。


 自分の出番が来ると俺はり台に立った。『LOTナンバー151』からが担当だった。

 竸り台の横に設置されているモニターを指し示し、オークションを進行する。


「LOTナンバー151は、10万円からスタート! 10万円っ! 10万円っ!」


 7割ほど埋まった客席からいくつかビッド札が上がると、順番に指し示して価格を競り上げていく。


「13万円! 14万円っ!」


 やがて、会場のビッド札がたったひとつを残してすべて下げられると、いつもどおりの宣言をした。


「落札します」


 続いて、ハンマーを打ち鳴らす。

 カンっ――と乾いた音が会場に響いた。


「916番のお客様、18万円で落札っ!」


 そう口にした瞬間だった。

 目の前が真っ暗になった。


 あっ……これは……。


 すでによく知っている感覚だった。

 正直、予想はしていたのだけど、俺は意識を失った。また過去に戻されてしまったのである。



   * * *



 気がつくと、見覚えのある居酒屋で椅子に座っていた。

 四人がけのテーブル席で、俺の正面には市柳さんが、彼女の隣には高見さんが座っている。

 俺の隣には黒浜がいた。


 新入社員たちと四人で飲み会をしたあの夜だった。

 高見さんが予約してくれた洋風居酒屋に、金曜日の仕事終わりに集まったのだ。


「ここに戻るのか……」


 と、俺は思わずつぶやいてしまう。

 高見さんが尋ねてくる。


「んっ? 大沼さん、何かおっしゃいました?」

「ああ、いや……ちょっとひとりごとを……」


 俺がそう答えると高見さんは、ややつり目気味の両目を細めながら「にししっ」とイタズラっぽい微笑みを浮かべて言う。


「大沼さん、ぶつぶつひとりごとを言っている先輩なんて、新入社員たちから怖がられちゃうッスよぉ~」


 グレーのスーツを身につけて、ミルクティー色の髪を揺らしながら笑う俺の大切な恋人。


 いや……。

 今の時点では、俺と高見さんはまだ恋人同士にはなっていない。

 この飲み会の後、酔っ払った俺を高見さんが自宅に連れ込んで関係が進むのだから……。


「あのぉ~、大沼さん? 注文しないんスか?」


 高見さんが居酒屋のメニュー表を俺に差し出す。

 どうやら俺たちは席についたばかりで、まだ何も注文していない状態のようだった。


「ああ、すみません。ありがとうございます。今日はみんなで、何かおいしいものを食べましょうね」


 俺は笑顔を浮かべながらそう言うと、高見さんからメニュー表を受け取る。

 高見さんがニコッと笑った。ころころと笑顔が変わる本当に素敵な女性だと思った。

 でも……。


 俺は自分の中の不思議な感情に気がつく。


 あれ……?

 なんだろう……この気持ち?


 高見さんをじっと見つめながら、自分の胸の内にわき上がってきた違和感について俺は考えはじめた。


 高見さんを抱いたあの夜。

 確かに俺は、彼女と恋人同士になった。

 それなのに……。


 今の俺は高見さんを、どうしても恋人だとは思えなかった。


 なんなんだ、この感情はっ!?


 高見さんは本当に可愛い後輩だし、異性としてもすごく魅力的な人だ。こんな俺にはもったいないくらいの人だと思う。

 けれど……。

 高見さんを恋人だと思う感情が、俺の中でうそのように消え失せていた。


 確かに今は、時間が過去に戻ってしまったため、高見さんと俺は恋人同士ではない。

 それでも、ベッドの上で抱き合ったあの夜から、彼女への愛情が一歩進んだのを俺は確信していた。

『後輩に対する愛情』から、『恋人に対する愛情』へと変化したのを実感していたのだ。



『たとえ時間が過去に戻ったとしても、高見さんに対する愛情は自分の中で失われるものではない!』



 ……そう思っていた。

 しかし、この時間に戻ってきた自分の中で、彼女に対する恋愛感情が本当に失われていたのである。

 時間だけでなく、恋愛感情まで巻き戻ってしまうのかっ!?



『高見さんと恋愛関係を進めてはいけない』



 誰かから、そんなふうに強く忠告されているような気持ちになった。

 恋愛感情にまで制限がかけられているような気味の悪い気分だ。


 たとえば、7年後からこの世界にやって来ていることを俺が誰かに話そうとすると、頭の中に南京錠なんきんじょうのマークみたいなイメージが浮かんで、周囲の時間が止まってしまう。

 それと同じように、高見さんに対して恋愛感情を抱こうとすると、俺の気持ちにロックがかけられるみたいだった。あらがえない『気持ち悪さ』を、俺は強烈に感じはじめていた。


 高見さんを恋人にした俺の選択は正しくなかったというのか!?

 彼女と付き合うのは間違い?

 だから、恋人同士になる前の時間まで戻されたのかっ!?


 とにかく、俺の中で一度はきちんと生まれたはずの『高見さんに対する恋愛感情』が、確実に殺されているのを実感していた。

 居酒屋で高見さんの可愛らしい顔をじっと見つめているだけで、俺にはそれが嫌というほどわかったのである。


『高見さんは可愛い後輩で、魅力的な異性ではある。だが、お前の恋人ではないっ!』


 誰かからそう言われ続けているような気分になった。


「んっ? なんスか、大沼さん。ひょっとして、アタシの可愛い顔に見とれているんですかぁ~。アタシに見とれてしまう気持ちはわかりますけど、大沼さんのその顔、なんか真剣すぎてちょっと怖いですよぉ~、ふふっ」


 あまりにも高見さんを見つめすぎていたため、彼女からそう言われてしまった。


 こういうときにまで俺をからかってくれる高見さんは、本当に可愛い後輩だと思うし、素敵な女性だと思う。

 だけど、彼女に対する恋愛感情が、俺の中のどこを探しても見つけられない。


 俺は高見さんのことが好きだったはずだ……。

 あの夜、ベッドで彼女を抱いて……。


 んっ? あれ……?

 あの夜、俺はどうやって彼女を抱いたんだ?


 不思議な気分だった。

 高見さんに関して、まったく思い出せない記憶がいくつもあったのだ。

 彼女とのベッドの上でのやりとりの記憶が、になっていたのである。


 あの夜、高見さんはどんな色のブラジャーを身につけていた?

 どんなパンツを穿いていたっけ?


 ブラジャーとパンツの色で、高見さんのことをすごく可愛らしいと思った記憶が俺にはある。

 それなのに……下着の色やデザインなど、細かい部分がどうしても思い出せなかった。


 下着の色の話をして、俺は彼女のことをすごく可愛らしい思ったはずなのだが?

 肝心かんじんなその下着の色すら、まったく思い出せないっ!


 続いて俺は、高見さんの裸がどんなものだったかも思い出せなくなっていることに気がついた。


 高見さんの胸のカタチはどうだった? 大きさや肌の色は?

 彼女と、どんなキスをした?

 あれ? 高見さんは俺の身体の匂いをいで、どんな感想を言ったんだっけ……? 何かの匂いに似ていると言われた記憶があるんだが?

 逆に俺も、彼女の匂いを嗅いで何か感想を言わなかったか?


 小説や映画でたとえるなら、大事なページやシーンが、ところどころばっさりカットされて抜け落ちている感じとでも言えばいいだろうか。

 高見さんの下着も、彼女の裸も、どんなキスをして二人でどう愛し合ったのかも、たくさんのことがまったく思い出せなくなっていた。


 高見さんの家で、彼女と抱き合ったという記憶は薄っすらとある。

 けれど、大切な部分の記憶が本当にだった。


 高見さんに対する恋愛感情が失われただけではない。

 あの夜の彼女との大切な思い出までもが、俺の中で失われていたのである。

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