3.

5月31日 午後5時26分



「慎重に……ゆっくりと……」


 アリアが見守る中、創介がティースプーンをそっと〝立体ラテアート〟に近付ける。スプーンの上にはカプセルが乗っており、それがゆっくりと泡の中に沈んでいく。カップを見つめる創介の視線は真剣そのもので、まるで心臓にペースメーカーを埋め込む手術でもしているかのようだ。アリアもその張り詰めた空気に呑まれ、押し黙ったまま絆創膏の巻かれた指の付け根をギュッと握った。


 しかし――。


「あーっ、ダメだ……!」

 創介が嘆息し、テーブルの上にスプーンを置いた。サクラ材の天板を金属が叩く乾いた音がこだまする。

 カプセルを泡の層に沈めたところまでは良かったが、スプーンを引き抜いた時に細い割れ目ができてしまい、ウサギの顔には剣豪のような傷が付いてた。

「この方法も失敗ですか……」

 アリアも肺に溜まっていた息を吐き出し、テーブルの上のカップ達を眺める。

 創介とアリアはカプセルを泡の中に閉じ込める方法をいくつか試してみたものの、結果はかんばしくない。ダイニングテーブルの上には穴が空いたり、パーツが欠けたり、あるいは顔が潰れてしまった〝立体ラテアート〟がいくつも並んでいた。

 唯一の救いは何度作り直しても、形はもちろん味や香りのレベルが全く落ちないということくらいだが、二人の胃袋にも限界がある。


「……考え方を変えてみようか?」

 失敗したばかりのカップに口をつけながら、創介が提案する。

 求められれば、何度だって同じクオリティを再現できるプロとはいえ、流石に徒労感を禁じ得ないようだ。締まりのない顔にも幾分疲労の色が伺える。

「と、いうと?」

 アリアの剣呑な視線をかわすように創介は肩をすくめた。

「さっきから二人でカプセルを泡の中に入れる方法ばかり考えているけど、もっと違う視点で考えてみるのも悪くないかなって……」


〈正確には私一人だケドね……〉

 アリアは心の中でおもわず毒づいた。

 創介はアリアの指示に従っていたに過ぎない。もっとも、最初に不用意に指を突っ込んで火傷をしてしまったアリアに非がないわけではなかった。

 それに創介の意見も悔しいけど的を射ている。

「ウチの姉も『顔を正面から見ただけでは、その人の本当の鼻の高さは分からない……』と、よく言ってましたっけ……確かに、行き詰まった時は別の事を考えるのは大事ですね」


 アリアは自分のカップを両手で引き寄せると、椅子に深く座り直した。

 では、いったいこの事件はどんな角度から見直すべきだろう。

 まるで難解なパズルを渡されたかのように、両手でカップをはさんでクリーム色の水面を見つめていると、目の前に小さな皿が差し出された。透き通るような白磁の上にはきつね色をしたカステラが乗っている。

 アリアが呆然としたまま顔を上げると、創介が牛乳パックを利用した焼き型からカステラを切り分けていた。

「店で売ってるものじゃなくて悪いけど、良かったら食べて……頭脳労働に糖分は欠かせないだろ?」

「――ちょ、待っ! まさかこれも九野さんの手作り!?」

 アリアは気味の悪い物体でも見るかのように、目の前のカステラと創介の顔を見比べる。

「それが昨日、値引きしてたからつい、賞味期限間近の卵を買いすぎじゃって……ウチは三人家族だから、消費するのを手伝ってくれると助かるよ」

 何やら大学生らしからぬ悩みを抱えている創介をよそにアリアは改めて目の前のカステラに顔を近づけた。

 形こそ店売りのものに比べて歪だが、表面はこんがり焼けており、目の覚めるような黄金色のスポンジと好対照をなしている。お皿に添えられたフォークで軽くつつくと、柔らかくも弾力的な感触が返ってくる。それと同時に蜂蜜の甘い香りが弾け、アリアはツバが溢れるのを抑えられなかった。


〈不条理だ……昨日は殺人事件のせいで台無しにされたあげく、何が悲しくてその第一容疑者と一緒にお茶をしなくちゃいけないんだ〉


 まったく自分は〝名探偵〟という宿命に呪われているとしか思えない。

 しかも、飲み物もスイーツも全てその男の手作りとなれば、女子高生のプライドは傷害致死寸前だった。


「……いただきます!」

 なんとなく腹が立ったので、アリアは乱暴にフォークで突き刺すと一気に口の中に放り込んだ。ところが綿菓子のように柔らかな食感を噛みしめると同時に甘味という名の幸せ成分が舌ごと脳を蕩けさせる。


〈くっ、悔しい……! でも、美味しい!!〉


 砂糖の歯に染みるような甘ったるさでなく、蜂蜜の自然な甘みが口に広がる。それでいて卵の濃厚な風味は失われておらず、喉を通る時に仄かに鼻に抜けるレモンの香気がサッパリとした後味を演出する。

 これで作った人間の顔を忘れられたら完璧だったのだが、残念ながらその願いは叶いそうにもなかった。


「そもそも何で犯人は毒をカプセルに入れたのかな?」

 アリアが文字通り至福の時間を噛み締めているにもかかわらず、創介は自分の分のカステラを牛乳パックから直接手でつまみながら口を挟んだ。

「アコニチンは本来、無色透明で水溶性の化合物だから、わざわざカプセルに入れなくても大抵の飲み物には溶けこむはずだ」

 アリアは一口で食べてしまった事を後悔するようにフォークの先を噛みながら小さく頷いた。

「九野さんの言いたいことは分かります。わざわざ溶けにくく、見た目にも目立つカプセルを使ったことで、毒を入られる飲み物はかなり制限されます」


 例えばアイスコーヒーのグラスにカプセルが浮いていたら、いくらなんでも気付くだろう。にもかかわらず、真犯人はあえてカプセルに毒を入れ、更に〝立体ラテアート〟というかなり特殊な飲み物に混入させた。

 〝泡の密室〟によって警察の目を創介に向けさせることはできたものの、もし被害者達がラテアートを頼まなかったらどうするつもりだったんだろうか?

〈あるいはそこに謎を解くヒントがあるのかもしれない……〉

 アリアはひとまず〝泡の密室〟の事は忘れて犯人の立場になって考えてみた。


「〝凶器の隠蔽〟、〝アリバイ工作〟、〝密室トリック〟、〝現場の偽装〟……真実を覆い隠す迷彩にはいろいろありますが、そのほとんどは犯人が容疑者から外れるために行われるものです」

「この場合だと、カプセルに毒を入れることで溶け出すまでの時間を引き延ばして、その間に犯人が現場から逃げるため……とか?」

 創介が説明の先を引き継いだ。

「ま、簡単に言えばそういうことになりますか」


 素っ気なく相槌を打ちながらもアリアは内心、この大学生を見直していた。

 とぼけているようで、意外と鋭い。推理のセンスは致命的に無さそうだが、冷静に状況を分析し、情報を理解するだけの能力はあるようだ。

 もっとも、それを素直に認めるのは癪なので、アリアは手に持っていたマグカップを傾け、表情を悟られまいとした。

「真犯人が想定していたよりも毒が強力で、カプセルが完全に溶けきる前に被害者が死んでしまったとも考えられます」

 そう考えると、被害者が倒れる直前に店を出ようとした小川誠司か楠双葉のどちらか、もしくは両方が怪しくなってくる。

「つまり、カプセルが溶け残っていたのは犯人にとっては想定外ってこと?」

「そういう可能性もあるということです。あるいは、やはり溶けかけのカプセルはダミーで、実際には液体の毒物が使われ、警察が到着するまでのゴタゴタの間に溶けかけのカプセルを仕込んだのかもしれません」


〈それでも、被害者の友人のカップの中にも毒入りカプセルが入れられていた問題は残る〉


 結局は〝泡の密室〟を解かない限り先へは進めないと分かり、創介は嘆息しながら手元のカプチーノに視線を落とした。

「これがビールだったら良かったんだけど」

〈オイオイ、考えが煮詰まったからっていきなり酒に頼るか? まったく、これだからお気楽な大学生は……〉

 アリアの剣呑な視線が物言わずとも雄弁に気持ちを伝えたらしく、創介は慌てて顔の前で手を振った。

「いや、そういう意味じゃなくて……知らない? 飲みかけのビールに塩を入れると、炭酸と反応して泡が発生してかさが増えたように見えるんだ。……ま、飲み会のちょっとしたイタズラだね」

「や、私、未成年だし……」

 何かにつけて飲み会やらコンパやらしているお気楽大学生とは違う――。


 シニカルな反応を返す心とは別に、頭の中で何かがカチリと噛み合ったような気がした。まだ温かいカップに視線を落とす。泡の造形物が崩れ、半ば溶けこんだ淡いクリーム色の水面が静かに揺れている。

 だがアリアが視ているのは、もっと底の方――無意識と知識、記憶と予測が交わる意識の深層だった。

 事件発生時の店内の様子、容疑者たちの何気ない言動や持ち物、更には各々のテーブルに置かれたカップやグラスの向きや個数まで余すこと無く高速で再生されていく。

 それらの映像を視ていると同時に、まるで関係無いような記憶も呼び起こされいた。


「確か、小学校の理科の実験で……それに昔、牛乳で薬を飲もうとした時に姉さんが言ってた話は確か……」

「探偵さん? どうかした?」

 急に黙り込んだかと思えば、ブツブツと念仏を唱えるかのように独り言をつぶやくアリアに異様なものを感じた創介はおもわず顔を覗き込んだ。


「――キャっ!!」


 全神経を思考に集中させていたアリアは目の前に突然、創介の顔が現れ、おもわずのけぞり、椅子ごと背中から床に倒れそうになる。

「ちょっと、ホントに大丈夫?!」

 間一髪、創介が手を伸ばして椅子を掴んでくれたおかげで転倒は免れたものの、余計に二人の顔が接近することになった。

 甘いコーヒーの香りが鼻にかかり、心配そうに覗き込む黒い瞳にアリアの驚いた表情が映り込む。頬が急激に熱くなっていくのを自覚したアリアは、創介から離れようとその場でもがいた。


「よ、寄るなっ、タイヘンなヘンタイ!! い、今、私に……き、き、キキっ、キスしようとしたでしょ!?」

「はいぃっ!?」


 アリアと創介が共に上ずった声を上げたのに混じって、何か重くて柔らかい物が落ちる音が背後から聞こえた。二人が反射的にそちらへ顔を向けると、いつの間に部活から帰ってきたのか、箕輪彩夢が台所の入り口に立っていた。

 九野創介の義妹に対するアリアの第一印象は、『呆然と立ち尽くす』という表現がこれほどピッタリハマる場面もそうそうお目にかかれないな、というものだった。


「に、兄さん……」


 肩からずり落ちたスポーツバッグを直そうともせず、両目は驚きのあまり瞳孔まで見開かれている。



「違うよ、彩夢ちゃん……! これは誤解で……! 単に探偵さんを助けようとしたら、勢いでこうなっただけで、別にやましい事なんて何にも――」


「誤解で済んだら、父さんの仕事はいらないでしょ?!」


 彩芽の怒号は近隣三軒先まで轟いたという。

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