明日また頑張ろう

オトギバナシ

第1話 編集長みたいになるまで

 朝は駅ビルのお店が開く頃、橋本は開店を待つまばらな人たちを眺めながら、電車の乗り換えに急ぎ足で歩いていく。改札を通る人はピークに比べればはるかに少ないが、それでも皆、せわしなく先を急ぐ。橋本はこのまま、改札へと続く一群を抜け出し、駅ビルのデパートの開店を待つ人たちに加わりたいと思っていた。いつものように。


 橋本の勤め先は信濃町にある小さな出版社で、彼が編集部に異動になってから3年が過ぎようとしていた。それまでいた営業部では主に都内の書店回りをしていたが、もうすぐ30歳になるというある日、出社してみると社内メールで異動の通知がされていた。出版社に入ったのは当然、編集という仕事に漠然とした憧れがあったからだが、入社する前から編集部に空きがないことは説明があり、営業部員としての採用に納得して入ってから、はや5年。当初は編集部への思いもあったが、はたから見ていて、校了前の忙しさは想像以上であったし、外回りの楽しさを知るなど、次第に営業の仕事で良かったと思うようになっていた。


 そんなタイミングでの編集部への異動の辞令。まったくそんな噂すら出ていなかっただけに、まさに虚をつかれ自分の机で固まってしまった。斜め向こうに座る営業部長が、PCのモニターから顔をひょっこりと出しニヤリとしたのをよく覚えている。引き継ぎはひと月の間に拍子抜けするほど滞りなく済み、4人しかいない営業部での送別会なのかはっきりしない、いつもの飲みの延長のような席が形ばかり設けられ、あれよあれよという間に編集部に配属となった。


 編集部といっても、社内にはいくつかの編集部があるが、橋本が新たに配属されたのは、業界誌を発行する部だった。彼にとってこれまで全く縁のないところだった。業界誌はその名の通り、業界内に向けた雑誌であり、書店には置いていない。普通の人が書店などで目にすることのない、その意味では特殊な本といえ、そのため営業にいた時も、書店から業界誌の注文を取るようなこともなく、彼自身、毎月出ていることくらいしか知らず、正直なところ入社してからちゃんと中を見たことがないくらいだった。


 そんな業界誌の編集は、はっきり言えば楽、だった。初めこそ覚えなければならない編集上のルールやフォーマットがあまりにも多く苦労したものだか、一度覚えてしまえば、それに沿って考えることなく淡々と作業をするだけでレギュラーの頁は埋まっていく。営業では自分がどんなに頑張っても、相手がダメといえばどうにもならないこともあったが、彼のいる業界誌では、自分独りでできることが大半、しかもごく機械的に進めることができるのだ。ライターへの原稿発注も、毎回同じ担当に同じ箇所をお願いするので、メールだけのやり取りで済んでしまう。殆どのライターとは直接顔を合わせたこともない。〆切もまず遅れることはなく集まる。例え遅れたとしても、どこの編集でもそうだろうが、下駄を履いている、つまり1日以上の余裕は必ず持っているので特別慌てることもない。もちろん校了前は忙しい。終電ぎりぎりまで頑張らないといけないし、そんな日が約1週間は続く。それでも編集の良いところは、必ず「終わり」があることだった。どんな状態であっても校了日があり、そこまでにやるべきことは全部終わりにしなければならないのだ。そして、終わった後は、何もない状態になる。きれいに。何もやることがない状態に訪れるのだ。これは営業の仕事では考えられないことだった。営業は常に連続して何かを並行して走らせている状態だった。今、店頭に並んでいる本の展開を行いつつ、これから出る本の注文を取ることも、さらに数か月後に出る本のプロモーションについて検討会議があったりする。比較的ゆるく仕事がある状態はあっても、何もないことなどない。それが編集部では違った。本当に校了明けの日は、まったくやることがない状態になるのだ。メリハリがはっきりしている。自分で仕事のコントロールをするのが苦手な橋本にとっては、編集部での仕事の流れは向いているようだった。さらに月刊という発行ペースも幸いしたのだろう。ある雑誌の編集は隔週の発行ペースで、そちらはいつでも忙しそうだった。月刊のペースに慣れてしまうと、とてもついていけないように感じる。


 ボーナスもなく給料は大学の同期と比べるのも恥ずかしいほどで、その割にプレッシャーの多くかかる営業の仕事とより、編集は橋本にとって性に合っていた。


 それもしかし、2年前に突然状況が変わった。あろうことか、編集長が辞めることになったのだ。そして、編集部に異動になって2年にも満たない編集経験の橋本が、編集長になったのだ。


 あぁ、なんでことだ。どんなに辛いことがあっても夜に眠れないことなどなかった橋本が、その日だけは寝つけなかった。


 俺でいいのか?いや、いい訳ないだろ。

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