汚点(シミ)

@JIBURARUTA

第1話 炎と森と闇

―――嫌いだ。みんな嫌いだ

 ―――だからこっちにおいでよ。




        序

 

誰かが私を呼んでいる。どこかからかすかな呼び声が聞こえる。呼び声はいかにも不明瞭で、木の枝が風に揺れてこすれるように耳元でさわいでいる。私は暗い洞穴に閉じこもって餌をかじっている。光が一切差し込まない闇の中で、何のために呼ばれているのかもわからずに私は一人うずくまっている。蛇のようにうねる鍾乳洞が私を見張っている冷たい石が頑なに光を反射している。一迅の光が差し込まれたかと思うとそれは一瞬のうちに闇に吸い込まれる。一体あなたは何者なのか?

蛍のように淡い光がぼんやりと宙に舞いあっちにこっちにと右往左往してから岸壁にぶつかる。砕け散った光は何色もの粒になり、飛び散る。そして硝煙のようにぼうっと寂しく立ち上る。私はじっとうずくまる。辺りがしきりに騒がしい。見つかりたくない、一人にしてくれ・・・。隅っこのほうで固まってひっそりと誰の邪魔にならないように生きていたいのだ。光が散らばるたびに声が響く。何かを乞う人々の叫び声が。耳をふさぎたくなる泣き声が・・・

 ここは自由だ。誰もいない。何をするにもあれこれと指図されることはない。どこまでもずっと自由な世界がここにはある。目を閉じればそこには何もなく、目を開けても何もない。何もない場所。ぐったり疲れて寝そべるだけの日々。時間がただ刻々と過ぎていくのみ。そして手のひらの中にあるおもちゃを転がしている。窓の外に広がっている世界を様々に想像して、また部屋の中に閉じこもる。一人ぼっちの世界。まったく半端なところで生きている。そうして適当にごまかしてきたから、本当の大事さがわからなくなってきた。言いたいことはたくさんあるはずなのに、伝えたいことはもっとあるはずなのに、口に出せないだけでもっともっとたくさんあなたに言いたいのに。とどのつまり言葉にならない。だから私はただ黙ってじっと見つめるだけ。

私の住みかはここだけだ。ここは居心地が良い。何もいらない。広く冷たい洞窟。この洞穴も変わってきた。私が生まれてきたときはほんの小さな小部屋だったものが、いまや大きな洞窟になった。時々出口がどこかさえ分からなくなってしまう。奥に進むと小部屋のような穴がたくさんできている。暗い穴だ。風音が高く響き渡る。目を閉じると景色が見える。耳をふさぐと声が聞こえる。やせ細った心の阿鼻叫喚の叫び声、散々に痛めつけられた心の苦悶のうめき声、助けを求めさまよう魂が漏らす嗚咽(おえつ)の涙・・・。

一握りの悲しみがやがてはじけるほどの憎しみになっていく。忘れられた情念の行き着く先は、果ての先だ。誰が持っているのか、誰が知っているのか。その塀の向こう側にあるものを。冷めた心を再び燃やすその力を。本当は誰もが持っている。どこにあるかわからなくなっているだけ。内ポケットの奥底にしまいこんで忘れてしまっているだけ。肝心なときに役に立たない。

私は目を開ける。冷たく暗い岩肌が無表情にこちらを見つめ返す。風が吹く。追い立てられるように私は動き出す。私はそれが何か確かめる。声が聞こえる。風が吹く。きっとそれは美しいものなのだろう、本当は。煤にまみれ、本当の色もわからなくなってしまっているけれど、何よりも輝く美しい光なのだろう。頭上を照らし、黄金(こがね)色の雨を降らし、暖かな衣に包む、美しい光がきっとそこにはあるはずだ。私は探しにいく。苦しみ悶える声から輝く光を見つけ出しに行く。深い闇の中から、抜け出すことのできない闇の底から。

何度も、何度も。


ほら、すぐそこに――


             1

パイプの金属音が鳴り響く。隣の家の改装工事が今朝からうるさい。うるさいからといって特に集中することも何もないのだけれども。時折響く耳障りな金属音が耳から手足に響き悪感を生じさせる。天井をぼんやり眺めているといつの間にできたのか、大きな茶色いシミがこちらを見下ろしていた。タバコの煙で黄ばんだ天井にひときわ大きく醜いシミがそこにいた。畳の床に寝そべりながら「それ」を見ているとだんだんと笑いがこみ上げてきた。

(なんて醜い姿なんだ。こいつは一生こんな姿を天井でさらしながら生きていくのだろうか。無様なものだ。)指先から昇るタバコの煙はゆらゆらと天井まで立ち上る。白い筋のように雲のように後を引いていき、消えてなくなる。五本目を半分目まで吸ったところで、煙がシミに重なり顔の形に見えた。シミはこちらをあざ笑うかのように見えた。おもわずその眺めに見とれてしまってそのまま呆然としてしまっていると、灰が服に落ちて焼け焦げがついた。あわてて灰を払い落とし天井を再び見上げたが、そこには変わらず無表情なシミがむっつりと居座っていた。ひどく癇(かん)に障ったので私は荒々しく家を出た。太陽が真上から照らしていた。空には絵のような入道雲が一つ、行く末を待ち受けるかのように浮かんでいた。

物心ついた時分から父親は居ないも同然だった。生きるための必要最低限のものを用意したつもりの彼は、教育も労働も放棄して、ひたすら自らの享楽に耽っていた。毎日が退屈だった。時折父親が連れてくる知り合いだか友達なんだかわからない奴等と話して外の世界を知ったりもした。それが俗に言われるホームレスと呼ばれる奴等だと知ったのは何年も経ってからだが。


「坊ちゃん、鋸の使い方がなってないなぁ。もっと脇しめて。」

「坊ちゃん、ヤマカガシなんて尻尾ふんずけてこうやってよ。放ってやればいいんだよ。」


彼らは風体こそひどいものだったが、知識はあった。顔は泥だらけで埃まみれだったが、彼らの話を聞くのは楽しかった。時にはなるほど、と思うような真理まで説いてくれた。よく家に来るホームレスの中でも最古参の長老(私はそう呼んでいる)は典型だ。


「坊ちゃん、どうして俺たちは醜いんだと思う?」錆びた一斗缶を足でいじりながら、ある日長老は私に聞いてきた。

「自覚はあったの?」と私

「そりゃあ、あたしたちだって好き好んでこんな暮らしを始めたわけではないし、中には好きで風来坊やってる変わり者も居るには居るがね?みんな何かしら本当は昔やりたいことがあったんだよ。だけれどもその夢半ばで潰(つい)えてしまって人生に希望が持てなくなってしまった。物乞いをして、路上生活するという究極の選択をするに及んだんだよ。あらゆるプライドをかなぐり捨てて生きることを選んだんだよ。案外快感だぞ?プライドなんてあればあるだけ邪魔なだけだ。」彼は自嘲気味にさびしく笑った

「だけど何か他の仕事で妥協することもできたんじゃないの?」

「それができないから私たちはこんな生活をしてるんだろう。頑固でひねくれ者、そして弱い心の持ち主。それが俺たちだ。いや人間なんて皆そんなものかも知れないぞ。どんな聖人だってうわべを取り繕ってる仮面を引っぺがしてしまえば、どんなに醜いことか。」

最後のほうで彼は吐き出すように言った。口に出すのもおぞましいとでも言うように。

「じゃあ自分たちのほうがまともだって言いたいの?」

「まさか。そこまで思い上がるつもりはないが・・・。ただ同じ人間として、同じくらいの薄汚い心を抱えているであろう人間に、見た目の汚らわしさだけで軽蔑されるのはどうにもかなわないな・・・とな」


なるほど、どんな富豪もあるいは庶民だろうと人間は人間だ。そこに線引きをすることはどこか矛盾がある。しかし目の前にいる彼らは浮浪者であって、やはり普通の人間とは隔絶されるべき何かがある。そう口に仕掛けたが、背もたれの壊れた長椅子に腰かけてウトウトしている老人にこれ以上現実を突きつけるのは気が引けた。伸ばし放題のひげには白いものが混じって食べかすがついていた。

(いったいこの老人は余生を楽しむ気力があるのだろうか・・・)

哀れみと侮蔑の目を送り、老人に背を向けた。初夏の生ぬるい風が、庭をゆっくりとすべるように過ぎていった。木漏れ日が音もなく瞬く。入道雲は動かない。

家を出てしばらく歩くと、凝った造りの洋館が見えた。現代風と言えばいいのか、とにかく尖った部分が多く、赤だの青だの普段見ないような彩色が施されていた。私を見下ろすようにそびえていたその洋館はのしかかってくるような重圧を放っていた。その二階からは小さく、細くピアノの音が漏れていた。荘厳で、夜の香りのする旋律は私の粗野な生活には程遠く、何とも言えない息苦しさを感じた。凍てつく冬の夜がその場に訪れて支配したかのようだった。雪原に独りポツンと取り残されたような虚脱感に襲われた。私は耐えきれず、その場を立ち去った。

ゴミ溜めみたいな場所でクズみたいな生活を送ることを強いられていた私にとって、森を探索するのは希望だった。しかし無知な私は森というのは無限に広がる怪物みたいなものだと思っていた。深い森の声に簡単に誘われていって、怪物に命を吸い取られる。そんなことを本気で考えていた。だから森での探検など本当は考えられなかった。森の声を聞いたことがあるだろうか?荒々しく凶暴な森、幻想的で全てを包み込むかのような森、楽しそうに枝を揺らしてまるで笑っているかのような顔も見せる。まったく森というやつは正体がつかめない。長老に森について尋ねると、


「森には全てがある。しかし俺たちはそのすべてを知ることは出来ない」煙草をふかしながら長老は言う。

「どういうこと?」

「森には神様がいらっしゃる。太古の昔より私たちを見守って下さっている有難い神様が。森だけじゃない、この世の森羅万象あらゆるものにそういった神様はなり変わって、私たちを見守って下さっているんだ。」

「宗教じみてるな」

「おお、よく知っているじゃないか」

「いいから続けてくれよ。」

「生意気な。まあいい。森にはそういったわけで私たちを陰から見守る何かがいる。だけれどもそれは私たちそのものなんじゃないかというわけだ」

「鏡みたいなものだってこと?森に入ったら自分の心がよく見えるってこと?」

「そんな簡単なものじゃない。とにかく生半可な気持ちで森に入るんじゃないぞ。取って食われるぞ。」

どこか遠い目をして彼はそこで話をやめた。吸っていた煙草を地面に落として、愛おしげに見つめて。そこにも神様はいたのだろうか。


ちょうど私の家の裏手には小さな森があった。神社があって石階段を上りきったところに狐様がいて。確かにそこはなんだか不気味で立ち入りがたいところだった。風が吹けば木々が揺れ、脅すように枝をしならせる。葉を鳴らして威嚇する。光の差し込まない奥の方からは奇妙な圧を感じる。石の階段を一歩一歩踏みしめてのぼると、左右の藪からはまとわりつくような視線を感じる。そうして石畳をしばらく歩くと開けた場所が現れ、左手には古びた墓地があった。恐ろしかった。足元の泥が掴んで離さぬかのようにしつこくからんでくる。大きなカラスが墓石に止まっていた。虚空を見つめて大きな声で一声鳴くと森野中へ消えていった。黒ずんだ墓石や朽ちた卒塔婆(そとば)。荒れた墓地は何物をも寄せ付けぬエネルギーを発していた。忘れられた死者たちが発する暗い怨念が歌うように舞っていた。

森の入り口を通りかかると、非常に奇妙なものがそこにあった。黒い球体状のものが空中に浮かび、おぞましく暗い光を発していた。石階段の中ほどでゆらゆらと揺れながら、そうして丸い形を保っていた。それは虻のように極小さな何かが集まり、飛び回りながら互いに集まり合成して球体になっていた。それは暗く残酷で、どこまでも醜いものだった。私はポカンとしてそれを眺めていた。今まで虫の大群は数え切れないほど見てきたが、あんなふうに群れるのは見たことがない。ましてあれは遠目に見てもわかったが、虫ではない。近くに行ってよく見ようと思うとその黒いものは森へすうっと逃げていった。黒い「それ」はゆっくりと森に入っていき、後には塵のように細かな何かが残った。風が騒ぎ木々が揺れる。森が私を誘う。奥のほうに潜んでいる暗闇が妖しく笑う。森へ入るのには抵抗があったが、あの黒いものを追いかけたいという好奇心が森に対する恐怖に打ち勝った。私はその時初めて森へと入った。蒸し暑く嫌な季節だった。太陽が後ろから照らしていた。

 不思議なにおいがしたのを覚えている。木のにおい、表皮から湧き出る湿ったにおい。土のにおい、木の葉と共に感じる香ばしい香り。苔や光、虫などそこにある全てが世界を作っている。太古の世界に足を踏み入れた気がした。ところどころに落ちているボロ布や瓶からでさえも聖なるものに感じる。暗闇の中で光の粒が炭酸のようにはじけていく。私は何かに取り憑かれたかのように奥へ奥へと進んでいった。

(こんな世界があったのか、なんて狭いところで生きていたんだろう。もっと自由に生きていける。もっと・・・)

森はさらに深くなり木々は生い茂り、大木が根を張っていた。奥へ奥へとすすむにつれ、光は森に吸い込まれていく。木々は覆いかぶさるようにして大地を隠そうとする。陰は闇へと変わる。苔生した一面の土からは人が踏み入れることを許さぬ、得体の知れぬ圧力を感じる。私たちが世界で占める時間が、空間が、どんなにちっぽけで淡いものだということか。

(これが森か。これが森の姿か)

苔生した大地に一歩足を踏み入れようとした瞬間、すさまじい突風が吹いた。枝がしなり木々の音が一斉にこだました。大地の叫びが轟いた。森の怒りを感じた。大自然に恐れおののくと共に、私の中に黒い感情が芽生えた。それは大自然を目にして、自分の今までの世界がひどく小さく醜いものに感じ、壊してしまおうという危険な感情が。

(私はどうしてあんな掃き溜めに留まっていたのだろう。)

気付けば私は自分の家に戻っていた。どこをどう歩いて戻ったのかはまったく記憶にないが、俺は戸口に立ちドアを開けようとしていた。長椅子に座っていた長老はどこかに消えていた。ドアノブに手をかけようとすると、どこかで切ったのか、手の甲から一筋の血が流れていた。血の赤色は痛々しいほどに現実的だった。夢幻のような世界で、流れる鮮血は毒々しく、新鮮だった。私は手の甲に口をつけて、血を吸った。鉄の味がする。頭の芯がぼうっとする。自分の中に一部が入り込む陶酔感に浸る。傷口を押して血を絞り出す赤黒い液体が白い肌に映えている。血は手首まで流れ、一本の滝のようになっていた。私はその手を空に透かし、しばらくぼんやりしていた。隣の工事は今日の仕事を終えたのか、すっかり静かになっていた。日は沈みかけ、空は夕闇に染まりかけていた。淡い紫色の空に夕陽が混ざり、何かの前触れを予感させる。心がざわついた。何かが腐敗したような甘いにおいが辺りを取り巻く。暑い夜になりそうだ。

 家の中は凄惨を極めていた。ゴミと埃と汚れと・・・ここには人間が住んでいる、ということが示せる証が何もなかった。これは獣の住む洞穴だ。ドアを開けた瞬間眼に入るのはゴミの山。柱も壁ももこの家は死んでいる。床は腐り落ち、壁は汚らしく濁っている。洞穴の主はベッドに横たわって寝ていた。父親は醜かった。直視するに耐えない不快さを醸し出していた。顔は髭で覆われ垢と埃にまみれている。身につけている衣服は黄ばんで元の色がわからない。酒の匂いと埃の匂いが混じり不快だった。この父親が支配する空間の全てが不快だった。錆びたナイフも、割れた花瓶も、転がった酒瓶もこの空間に在るすべてが、不快でたまらなかった。父親の泥酔姿の醜さに辟易したわけではない。ただこの家に漂う何か穢いものを浄化したかったのだ。

 それから私は何かに導かれたかのように一つ一つの事を行なった。マッチを見つけ、灯油をまくところまで全て無意識的に行っていた。灯油の刺激的な匂いに酔い、自分の存在がひどく薄弱なものに思えた。このマッチを擦れば、自分はもっと大きなものになるのではないかと思った。小さなマッチ棒の先から立ち上る黄色の炎は無限の可能性を秘めていた。そして私はこの細く短い棒の先に灯る光を地面に落とした。刹那、炎は這うように床や壁をつたった。炎の滑らかな動きは生き物のようになまめかしく魅惑的だった。ミミズがのた打ち回るかのような躍動感。血が騒ぎ、肌が泡立つような興奮を感じた。燃え盛る炎のただなかにいることで高揚感を感じる。熱風に、この非日常的な光景に圧倒され、興奮した。笑みがこぼれる。それは美しいものを見た時の喜びに似ていた。本当に美しいものに出会った時、人は言葉をなくすほどの喜びに震える。そこに言葉はいらない。灼熱の炎に全てが消えてゆく。狂おしいほどの喜びに命が震えるのを感じる。

外に出ると炎の渦に包まれる家が目に映った。爆(は)ぜる火の粉と轟音、そして炎色の全てが調和をとっていた。火の粉はまるで粉雪のように舞っていた。飛び散った火が庭の草に燃え移り、ちろちろと新しい火の子供を生み出していた。美しいとはこういうことだ、と悟った。すべてが壊される。無くなり、また新しいものが生まれる。そして美しさは現れる。それは花の美しさなどとは全く別の美しさである。私の心に確かにそれは響いた。轟音を立てて家が崩れ落ちた時、黒い塊が再び姿を現した。ゴムやタイヤを燃した時の黒い煙のように、ゆっくりと現れ、姿を成した。それはグルグルと回り旋回して唸り声をあげて広がった。「それ」は私の前に集まると悲しそうな顔をして微笑んだ。どこかで大きな音が聞こえた気がした。それは何かの咆哮にも似ていた。一瞬の間に目の前の景色は反転し。家も炎もすべてなくなっていた。


目の前にあるのは白い、ただひたすらに真っ白な世界だけであった。

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