免罪符

星野 驟雨

免罪符についての考察

 世界は滅びている。

 こんな一文からスタートするのは余りにも美しくない。

 この免罪符の特異性と普遍性を証言するに値しない。

 この免罪符の周知性を証明するには丁度いいのかもしれないが、私が求めているのは、特異性と普遍性の証言のためのものであって、周知性を今更に考察の対象とするわけではない。

 では、この免罪符の特異性と普遍性とは何だろうか。決まっている。


 誰一人として所有しておらず、誰一人として自覚しえないということだ。


 それでは免罪符の意味がないではないかという人もいるだろう。

 免罪符とは己の罪を意識し、そのうえでそれを不法に回避し、その効力を知らしめるためにあるのだ。優越感と劣等感のハイブリッドに当たる。

 だが、時代が「カタチ」をなくすように、免罪符もカタチをなくしていった。

 「カタチ」がないものを人は認識しえない。必ず種や類であってこそ認識しうる。免罪符というものは、その固有名詞によって象られ、物質的な依り代をもって証明され、認識されうる。私たちが一般的な判断基準として行動の理念においている「心」とやらも、誰もそれを言葉で説明しきることは不可能だ。定義づけをすることができない。何故なら認識されえないからだ。心というものの証明については、固有名詞はあれど物質的な依り代がない。すべては「経験」という名のまた別の何かに依存している。

 そういった「カタチ」のないものを私たちは大切にしている。

 それもそうだろう。私たちは「カタチ」ないものから生まれたとされているから。

 「カタチ」ないものから産み落とされ、「カタチ」を有して「カタチ」ないものを敬愛する。そういった仕組みに組み込まれている。ある意味半ば無意識的に。


 世界はそういった人々の手によって破壊される。正確に言えば、「カタチ」ないものに巣食われている人間の手によって破壊される。


 我々はそれを危険視しているが、いかんせん全人類がそれを所有し、半ば無意識的にそれを使用している。それを対象に説明してみても何一ついい返事は得られない。彼らが迷い込んでいる高層ビルは「カタチ」のないものだったものだというのに誰もそれを信じようとしない。かえってからかい、嘲笑する。信じがたい、そして由々しき事態である。


 現代社会はSNSという洗脳器具を使って使用者を洗脳しているということだが、それの比ではない。こちらは誕生の瞬間、ないしはその以前から刷り込まれているのである。いわば完全な洗脳であり、それを異常と思わない精神の構築がなされている。


 人々はそれを自由と呼んでみたりしているが、その自由とは実に可能性の問題であり、可能性とは取捨選択の余地を意味する。その取捨選択によって私たちは多くのものを投げ捨て、また新しいものを獲得している。

 神は死んだが新しい神話がつくられ、クローンを否定するがアンドロイドを容認するように。


 さらにその自由という最たるものが内心である。

 これこそが私たちの免罪符である。

 内心を覗かれないからこその自由で私たちは多くの可能性に挑戦する。そしてその可能性への挑戦は実に断片的だ。その断片性こそが免罪符たるゆえんの一つだ。

 私たちは内面というものに無頓着である。誰もが所有していながら、誰もが自覚をしない。断片的であり、普遍的であるから誰も自覚をしない。ただそこにあったものとして取り扱う。

 その多種多様な爆弾を私たちは自由と呼んでいる。

 可能性の為に剪定されていく世界を人々は意識しない。免罪符はそのために機能する。


 今日このときも一体幾つの世界が崩壊しているのだろうか。

 私たちはテロリストないしは神として君臨し、世界をこれといった意識もなく崩壊させている。かく言う私もテロリストないしは神だ。

 世界が崩壊する音が聞こえる。この考察も一つの爆弾だ。

 免罪符を定義してみよう。それを自覚するだけで世界はどうなるだろう。

 終焉を告げる鐘を鳴らす紐がユラユラと背後で揺れていた。

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