ペルニの市

翁まひろ

ペルニの市

 ぬくぬくとした毛皮にもぐりこみ、母の胸に小さな体を寄せて眠っていたロソは、うっすらと目を開けた。

 声がする。

 父と、伯父が小さな声で話をしているのだ。

「今年もペルニの市がたつ。わしらが狩りに出ているあいだ、市の開催を知らせる使者がやってきたそうだ」

「そうか……これでやっと、ひと息つけるな」

 鼻から上だけを毛皮の外に出すと、天幕の内に焚かれた火のそばで、ふたりの黒い影が酒を飲みかわしているのが見えた。

(まだ、ねむらないのかな)

 ロソは父と伯父の影が、炎の動きにあわせて、大きくなったり小さくなったりするのを見つめる。

「この一年はやけに長く感じたな。年々、狩りも厳しくなっていってはいるが、今年は……」

「ああ。ホリゾの集落では、若い狩人が三人、犠牲になったそうだ。雪の森の獣はどんどん凶暴化し、図体もでかくなっている。急速な進化を遂げているとしか思えん」

「そうだな……」

 ロソの不手際を叱るときとはちがって、父の声に張りはない。重たい疲れで言葉尻がかすれていた。

「ロソはいくつになる」

 ふいに、自分の名を呼ばれ、ロソはどきりとした。

「もう五つだ。近ごろは、毛長馬も立派に乗りこなす」

「五つなら、物心もつくころだろう。冬の厳しさを身をもって理解する年ごろだ。……どうだ。ここらでロソをペルニの市に連れていっては?」

 ロソは興奮のあまりに声をあげそうになった。

 ペルニの市。兄や姉たちが、つらい家仕事の合間によく話しているやつだ。

 ロソが暮らすハリ高地は、一年中、雪に覆われた厳寒の地だ。とくに九月から翌年の七月までの十一か月間は、高原全体が壁のようにそそりたつ猛烈な吹雪の内側に閉ざされる。

 ペルニの市は、吹雪がやわらぐ『つかのまの春』に、ハリ高原の南部にあるペルニ地方で開かれる市場のことである。

「ペルニの市が待っているとおもえば、十一か月間もの身を凍らせる吹雪も、耐えぬくことができるというものだ。わしらがそうであるようにな」

 ふいに腕をひかれた。はっと顔を横に向けると、母がロソを優しく抱きよせるところだった。

 ロソはふたたび毛皮のなかにもぐりこんだが、すっかり目は冴えて、その夜はちっとも眠ることができなかった。


「市に行くぞ」

 その晩からひと月後の朝、ロソは父からそう告げられた。

 ついにこの日がやってきた。もう何日も前から吹雪がやわらぎ、世界は『つかのまの春』を迎えている。ロソは感激のあまりに、手にしていた山羊の餌をぽろりと取り落とした。

 母が焼いてくれた獣肉をいそいで食べ終える。小屋の前にはすでに、毛長馬のひく橇が準備されていた。

 父と母とともに橇に乗りこむ。ふたりの兄と姉は、伯父のひく橇で行くことになった。年老いた祖母が留守番として家に残る。

 橇は天幕のひしめく集落をあとにし、雪の峠を越え、凍りの湖を滑り、どこまでもつづく灰色の雪原をはしった。

 もうまったく知らない土地だった。ロソが自分で毛長馬を駆り、踏破したことのある場所なんて、とっくの昔にすぎさっていた。

 どれぐらい走ったろう。やがて灰と白の視界に、点々と、黒いものが現れた。

 ロソは驚いた。灰色の雲のした、果てがないかのように広がる雪原に、これまで見たことのない数の人馬が集まっていたのである。

 橇が、たくさんの人馬の群れのなかに入っていく。人馬があげる鼻息が、あたたかそうな湯気となり、キンと冷たい大気に溶けて消える。

 手綱を握る父を見上げると、人々をむっつりと睨んでいた父の顔がはっと輝いた。

「リシト! 久しいな。皆、息災か」

 馬が完全に止まるのを待って、父が橇から飛び下りる。どうっと雪に穴を穿ち、両手を広げて出迎えた男と固く抱きあった。

「もちろんだとも。ガゾ、お前も変わりないな」

 髭に雪をこびりつかせた男は、ロソと目が合うと破顔した。

「橇に乗っている坊主はもしやロソか? もう市に来られるほど大きくなったか」

 初めて会う人だったが、「大きくなった」の言葉に、ロソは体がふくらむような誇らしさを覚えた。

 父を真似て橇から飛び下り、雪にほんの小さな穴をうがってから頭を下げる。ずんぐりした毛皮のせいで、動作がぎこちなくなったが、父は労うように背を叩いてくれた。

「ああ。五つになる。今日がはじめての市だ」

「そりゃいい!」

 父の友人はふいごを踏んだようにぶわっと白い息を吐きだし、笑った。

「ひと月後にはまた、ハリ高原は吹雪のなかに閉ざされる。ぞんぶんに市を楽しむといい。そして、市の楽しさをよおくおぼえておくんだ。十一か月後にはまた、ペルニに来られるのだと楽しみにできるようにな!」

 そう言って、父と友人は橇のそばで近況を語りあいはじめた。

 ロソは好奇心に開かれた瞳でペルニの市を眺める。

 多くの屋台が軒を連ね、あたたかそうな湯気の柱がいくつもたちのぼり、たくさんの人が汁を啜って、凍えた体を温めている。並んでいるのは飲食店だけではない。荷を山と積んだ橇や、色とりどりの絨毯が雪の上に広げられ、種々様々な品が客を出迎えている。

 ロソは話の尽きる様子がない父に焦れて、橇の後ろでじっとしている母に顔を向けた。寡黙な母が心得たようにうなずいてくれたので、ロソは顔を輝かせ、雪の上をのしのしと歩きだした。

 三弦琴と太鼓が賑やかな音楽を奏でている。男たちの銅鑼を叩いたような笑い声に、女たちが露天商相手に辛抱づよく値切り交渉をする声、それらを鬱陶しがって売り物の家畜がメェ、ベェと鳴く声も聞こえてくる。

 ロソは赤い絨毯の前で足を止めた。並べられているのは、毛皮や革製品、家畜のための鞍や鞭だ。ロソは短刀をおさめた革の鞘に見惚れた。かっこいい。あの太陽の模様は、どうやって施してあるのだろう。興奮に胸がおどるが、露天商の男がにぃと笑うのを見て、ロソは急にこわくなって立ちあがった。

 ふたたび人の群れにまぎれこむ。

 そのときだ。ロソの瞳が、ある屋台の前に立つ女の子に釘づけになった。

 自分よりも少し年上に見える女の子は、両手に収めた商品を熱心に見つめている。

 その横顔は、手のなかの品を凝視するようでいて、遠くを見つめるようでもあり、ロソは不思議に思った。

「……おい。あれは魔法使いじゃないか?」

 ふいに、背後でだれかがささやいた。

「まさか。昨年、あれほどこらしめたのに」

「ペルニの長を呼んでこい。警邏もだ」

 足早に立ち去った男たちは警戒した様子だった。

 ロソは身をすくめるが、どうしてだろう、女の子が商品を見つめる眼差しは、おそろしいものを見る目ではなく、どこかうっとりとして見えた。

 くだんの屋台に足が向いた。女の子がまだいたので、人見知りをして後ろから回りこむ。

 と、女の子の手の中にあるなにかが白く輝いた。煌めく光に吸い寄せられ、ロソは女の子の隣に立って背伸びをした。

 覗きこんだ手のひらには、体の透き通った小鳥が一羽、留まっていた。

 翼を大きく広げている。今にも飛び立とうという格好だが、ぴくりとも動かない。羽ばたく直前の刹那の姿を留めたまま、冷たく凍りついている。

「氷の彫刻だよ」

 突然の男の声に驚く。ロソの背丈では覗けない屋台の奥から「台に乗っていいよ」と声がした。

 重たい毛皮をたくしあげ、屋台の前に置かれた台に乗っかると、雪狼の毛皮をまとった男の姿が目に飛びこんできた。誰もが茶色く、ずんぐりした毛皮を着ているのに、男の毛皮は雪のように白く、ほっそりして見えた。

 ロソはぽかんと男の風体を眺め、ふと屋台にもたくさんの「刹那」が並べられていることに気がついた。

 後ろ肢で大地を蹴って跳ねた兎、ほころびかけた花の蕾、翼を畳もうとしている鷹、細い舌を見せて身をくねらせている蛇……すべて手に収まるほど小さく、なにかの動作の途中で凍りついている。

「お兄さんが彫ったの?」

「そうだよ。私は氷に命を与える〈氷雪の細工師〉だ。気になるものはあるかい?」

 ロソは雪焼けした頬を赤らめ、数多の「刹那」を眺める。

 そのなかに、見たことのない形が混じっていることに気づいて、ロソは身を乗りだした。

 花弁のように見える。木の器にも、薬湯を掬う匙のようにも見える。そのどれもと違って見え、そのどれよりも神秘的で美しい。

「触れてごらん」

 男に言われた瞬間、是非そうしたいという渇望に襲われた。「だめだ」と遠くで父の声がした気がしたが、ロソはぼうっとしたまま手から手袋を抜きとった。外気にさらされた指が一瞬で凍える。

 骨が軋むように痛んだけれど、少しも気にならず、ロソは指の先でその不思議な彫刻に触れた。



 ざぁん……と耳の中で音が反響する。

 遠くから迫ってくるような、優しくて、力強くて、どこか恐ろしい音。

 白い砂のうえに立つ自分の足元に、信じられないほどたくさんの水が押し寄せてくる。靴を濡らす水はあたたかい。驚く間もなく水は遠のき、けれどまた迫ってくる。

 ナァ、ナァ、と聞き慣れぬ鳴き声がした。

 頭上を見上げると、見渡すかぎりの真っ青な空を、数羽の鳥が飛び去っていくところだった。皆、透明な体をしている。精緻に彫られた氷の翼を羽ばたかせ、どこまでも高く昇っていく。

 ――眩しい。

 目を細める。鳥が目指す先では、真っ白に燃える円が浮かんでいた。毛皮を着ていては熱いぐらいの陽射しが地表に降りそそいでいる。

 ロソはぼうっと顔を前に戻し、目を見開いた。

 眼前に、地の果てまでつづく、碧色の透きとおった水たまりがあった。

 村にある氷の湖よりもはるかに大きい。水の表面は陽射しを浴びて宝石のように輝き、目に痛いほどだ。寄せてはかえす白波が砂を濡らし、雪のこびりついた革靴を優しく洗っていく。

 ロソは呆けて、己の手に視線を落とした。

 そこには、あの不思議な形をした氷の彫刻。

 同じ形をしたものが、足下の砂原にも、たくさん、たくさん埋まっている。

 ここは、どこ――?



「ロソ!」

 肩を掴まれ、ロソは我にかえった。

 目を幾度もまたたかせて振りかえると、背後に父が厳しい顔つきで立っていた。

 父はロソの手に収まった彫刻に視線を落とし、屋台の奥にたたずむ白い毛皮の男を睨みつけた。

「魔法使い、幼子までたぶらかすな。おまえのせいで、多くの若者がこの地を去った。そして二度と戻ってはこなかった。私の子まで連れて行く気なら、今、この場で叩き斬ってやるぞ!」

 猛烈な怒りだ。ロソは青ざめるが、男は穏やかに微笑んだ。

「いま、この子が見たのは夢の世界などではない。現実の光景だ。――信じてくれ、ハリの民よ。すでに氷河期は終焉に至った。大地は雪解けを迎え、多くの民が春のどけき世界を求め、地上へとくだった。この彫刻は、私がこの目で見てきた世界を封じたものなのだ。恐れることはない、ハリの民よ。地上は君たちを優しく迎えるだろう」

「信じるものか、嘘つきの魔法使いめ!」

 父は銅貨を三枚取りだし、ロソが手にしていた氷の彫刻を奪いとると、魔法使いと呼ばれた男に投げつけた。

 背を押され、雪原を歩きだしたロソは後ろ髪をひかれて屋台を振りかえる。

「地上には、君が見た世界が広がっているよ。帰っておいで」

 屋台の奥で、白い毛皮の男が優しくほほえんだ。

 ロソの耳の奥で、ざぁん……とあの不思議な水の音がした。


 今から百年前、地球は過去に類を見ない規模で訪れた氷河期によって、真っ白に凍てついた。

 大都市は余すことなく氷に呑まれ、多くの人々が凍死し、あるいは餓死した。

 この危機をあらかじめ予期していた国家は、外界から閉ざされた世界――円蓋都市〈ドーム〉を築き、優れた遺伝子を持つ者〈優性の民〉を送りこみ、住まわせた。

 見捨てられた〈劣性の民〉は自力で氷河期を生き残るため、食料となる獣を求め、世界の各地へと散っていった。ハリの民はそのひとつである。

 ロソが夢の世界を求め、多くのハリの民を引き連れ、帰還の旅へと出発するのは、まだ先の話。

 この日、ペルニの市で見た氷の彫刻が、貝殻と呼ばれるものだと知るのもまた、ずっとずっと先のこと。



おわり

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ペルニの市 翁まひろ @rojim

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