第3話 由宇
ちさはホテルで一人、夜を明かした。一泊六千円ほどの宿泊費は自分でも支払えたのだが、
夜の一人の時間は、思ったほど苦痛ではなかった。その日の出来事や考えをまとめて、気持ちを整える事ができた。むしろ辛かったのは朝起きた時だ。どうやらお父さんとお母さんは本当に死んでしまったようだと、ここで気付いた。
朝日が零れるカーテンを開け放つと、目元にあったほんの少しの涙がその光に輝いた――と、もう少し一人でいたかったのに、光度を認識したキネコが
ちさは紋白端末からメッセージアプリを立ち上げ、昨日交換した瀧也の連絡先にメッセージを送った。
『おはようございます。本日、
メッセージにはすぐに既読が付き、返事が返ってくる。
『面倒見るのはそこまでだぞ。じゃあ一時間後に』
ちさは準備をはじめた。
ちさはアレルギーが多いので、食品の多くをサプリタブレットで補完している。錠剤だらけのつまらない朝食と発展途上な化粧を終え、準備してきた制服に着替える。
部屋のチャイムが鳴り、ドアを開けると、白い作業着姿の瀧也がいた。彼はちさを見下ろすと無言で踵を返し歩き出したので、こちらも黙って後を追う。外に用意されていた車に乗り込み、静かな電気モーターが車を動かし始めた。早朝の青葉台は人も車も少なく、どこか寂しい。
「
「いえ――連絡しておいた方がよかったですか?」
「いや」と短く答え、瀧也はウインカーを操作する。「向こうからも連絡はないんだな」
「はい」
「まぁ、どうせあいつはいつもと同じ時間に同じ場所を歩いてるんだ。そこを拾うさ」
車はしばらく環状四号線のイチョウ並木を走った後、国道十六号線を進んだ。
「あの」とちさは昨日の話を思い出す。「今日、私は死ぬんですよね」
「たぶんな」
淡泊な瀧也は変わらずハンドルを握っている。
「私がいなくなることが、この世界のためになるんですよね」
瀧也は答えない。誤魔化すように「遅い車だな……」と前の車を見ながら呟く。
ちさは、そんな瀧也をジッと見つめていた。この人はとても誠実な人だ。ふと、父親が好きだった映画を思い出す。もし彼がレオンほど無垢な人間なのだとしたら、自分はマチルダになれるだろうか。年齢的にはピッタリだし、彼女には敵がいた。あのキレッキレのヤク中の麻薬捜査官だ。そいつが彼女の両親を惨殺した。
立場は同じだと思った。
自分の両親を殺したのはゲームだ。そしてゲームを決めたのは
一方で瀧也は、ちさの短い質問の答えをずっと探し続けている。
由宇のゲーム相手が死ぬことが、果たして世界のためになるのか? それこそ、由宇が特別な人間だと気付いたその日から――
通常であれば、答えはイエスだ。サイコゲームで相手を演じられないような人の気持ちが分からない人間は死んで当然と答える。しかし、相手は由宇なのだ。今までの由宇のマッチング相手は判定1を何度も取り続けていたような相手ばかりだったが、由宇の前ではいやおうなしに3Aの判定を受け紋白端末に命を奪われている。明らかになにかがある状況だ。しかしそれに対し“おかしい”と声をあげれば、それはつまりAIや政府や国民や、今までゲームで失われてきた多くの命をも冒涜する声になる。特に公的任務を負う立場にある自分が、そんな考えを持つわけにはいかない――
前の軽自動車がようやくどこかに消えてくれた。由宇のいる伊勢佐木長者町までは、もう少し時間がかかる。
*
珍しく、連絡が来ない。
由宇はスーツを着込みつつ、宙に浮くキネコを眺めながら思った。残り時間は三四時間と表示されているが――もっとも、それならそれでいい気もした。三四時間経ってもゲームが開始されなければ、自分と相手は命を落とすことになる。しかしそれはつまり、今の日本社会に蔓延する自己中不要論によって淘汰されるだけなのだ。そうなれば今後、自分の理解不明な思考を読み解けず不慮の死を遂げる被害者がいなくなる。それは多くの日本人が歓迎すべき事のハズだ。
昨日の夕方過ぎに、そのキネコは飛び出してきていた。
「君はサイコゲームの対象者に選ばれたにゃん!」
新横浜から自宅へ戻る途中での出来事だった。
その時の由宇は、電車の中で見知らぬサラリーマンと話をしていた。新しく猫を飼い始めたらしい。そして彼らの家族は、猫を外出自由にすべきかどうかで悩んでいた。ペットショップで購入した猫だから、きっと近所の猫たちからはよそ者扱いされ邪険にされるだろうと心配しているのだという。また、近所の猫たちの中ではわが子が一番かわいいので、近所の家々に餌付けされ戻ってこないのではないかとも心配していた。
由宇は答えもなく、ただうんうんと聞いていた。そして、日本社会の変容を大きく感じていた。
周囲を見渡せば、電車は和やかな雑談の雑音に包まれている。数年前の――数百名が詰め込まれた異常なまでの静寂世界とは大違いだ。その頃は、肩と肩がぶつかるだけで戦闘が開始されていた。人々はスマホや小説を手に牙城を築き、他人の存在を極力無視しようと努めてきた。それが今では――サイコゲームが開始されてからは、相手が他人であれ誰であれ、その時話したいことを話せる距離感があるスペースとなっていた。
そんな中、座席に座っている二つ向こうの男性の紋白端末が発光し――周囲はその通知の中身を知ることはできないが、持ち主はガクッと頭を垂らして「キネコだ……」と独り
すると、正面に立っていた人が彼の肩をポンポンと叩いた。「がんばってください。私は昨日終えました。無事、二人ともゲームを終えることができました。あなたもきっと大丈夫ですよ」
アットホームな空間だ。
これは電車の中だけでなく、社会のあらゆる所で見られる光景だった。
サイコゲームによって何が変わったかと言えば、他人の存在が近くなったという事だ。主観は客観を寛容する事を学び、いざというとき自分は他人のそれに甘える事ができるので、もう過剰なまでに気を張って外出する必要がない。
由宇は再び、自身のキネコを見つめた。キネコのホログラムが由宇の視線を感知すると〈紋白端末〉の表示を切り替えて『ここをタップ!』という立体文字列を表示させる。ここで自分も頭を抱えてみるべきだろうか。周りは構ってくれるかもしれない。しかし、そういう気分でもないのだ。
「すみません、ちょっと考え事をしてもいいですか」
猫自慢をつづけているサラリーマンの言葉を遮って、由宇はイヤホンを耳にはめた。呆気に取られた表情で言葉を止める、猫を愛する――穏やかな誰かの父親だった。
革靴を履いて、玄関から出る前に簡単に磨きをかける。
昨日のうちにまとめておいた燃えるゴミの袋を持ってエレベータを下り、収集所に置いた後、マンションエントランスの自動ドアを通る。いつもの出勤がはじまる。
「よぉ」
聞き慣れた声がした。由宇が振り返ると、自動ドア横の壁に死体回収員の瀧也が寄りかかっていた。
由宇は、瀧也には見えていないはずのキネコを一瞥する。
「すごい嗅覚ですね」
「何の話だ」
「職人の勘ってやつですか」
「そう言いたいところだけどな――」瀧也は馴れ馴れしく由宇の肩に手を回す。「まぁ、そんなところだ」
「どっちですか」
「悪いが事情は言えない。おれには守秘義務がある」
由宇は、相手にしても仕方がないと判断し、彼に背を向けた。いつもの出勤に気持ちをもっていこうとする。しかし、そんな由宇の正面に、紺色の制服を着た一人の女の子が立っていた。
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