第2話 キネコ
ちさは、涙の力に感謝していた。
瀧也が足を止めてくれたこともあるが、それよりも、自分自身を虚無から救い出してくれたのだ。
本来なら大人向けの制度である〈サイコゲーム〉の案内が突然届き、その原因が両親の突然の死によって扶養から外れたことだとわかり、それでもテレビは今も変わらず楽しそうに番組を続けている。
苛立ちも悲しみも虚無感も――そしてこれからの人生への不安も消えたわけではないが、それでも心は落ち着いてくれた。冷静に、いま自分がすべきことを考えられるようになった。
ソファに深く腰を下ろしたちさは、隣に座った
「それじゃあルールを説明するにゃん!」
ちなみに、このキネコは瀧也には見えていない。ちさが体験している
「〈サイコゲーム〉は二人一組でお互いを演じ合う心理ゲームにゃん。テーマに沿って相手の気持ちを想像しながら会話を交わして、相手の気持ちがわかればゲームクリア! もし相手の気持ちがわからなければゲームオーバー! 〈
そしてキネコは「判定の詳細は政府ホームページを参照してほしいにゃん!」と続けると、空中でくるりと回転し、ちさに“はい/いいえ”の選択を求めてくる。
ちさは“はい”を選択した。
「それでは、
“はい”
「マッチング相手は、この人にゃん!」
ちさの手の甲の泉から、名前とゲームIDが飛び出してきた。読みにくい名前だなと思ったところで、少し遅れて振り仮名が表示される。
「うれ、い……ゆう?」
その言葉を聞いた瀧也が急に大きく息を吸って、今度はそれを時間をかけて吐きだした――まるで不意の動揺を呼吸で鎮めたかのように。
ちさの〈紋白端末〉は、その光の紋様から“
キネコが言う。「この名前をタップすれば、相手と通話ができるにゃん! あとは二人で合流場所を決めて、四十八時間以内に〈サイコゲーム〉を開始してほしいにゃん!」
するとキネコは胸元にタイマーを表示させ、カウントダウンを開始した。説明はなかったが、この数字がゼロになると自分は死ぬのだろう。
あとはこの由宇という人――(男かな、女かな)――と連絡を取る必要がある。が、とりあえずはここで一区切りといったところだろう。ちさは瀧也を見た。
「終わったか?」
ちさは瀧也の横顔に向けて頷く。しかし、瀧也の顔が妙に険しい事に気付いた。眉間にとても深い皺を寄せている。
「どうしたんですか?」
「別に」
「……一緒に居てくれてありがとうございました」
「ホントだよ」と言いながらソファから身体を持ち上げる瀧也。「おれはまだ仕事中なんだ。一日に何人も死ぬから忙しくてな」
「辛い仕事ですね」
「そうでもないな」
「そうなんですか?」
「……なにせ、生きてる頃のそいつを知らないからな。第一、人の気持ちがわからなくて死んだ奴だ。大した感情はわかないよ」
そこまで言ったところで、瀧也は自分がなぜこの家に上がり込んでいるのかを思い出した。
「すまん。おれは別に君のご両親を――」
「いいんです」と、ちさもソファから立ち上がる。「喧嘩が絶えない二人でしたから」
「だが――」と言いかけて、瀧也は言葉を止めた。ちさは気付かなかったかもしれないが、死体回収員の仲間は死んだ二人の固く結ばれた手をほどくのにとても苦労していたのだ。しかし、もはやそれはちさが知らなくてもいい事だ。この子は、この過酷な状況を乗り越えようと涙を払い、前を向いたのだから。
「まぁ、そうか」と、軽く誤魔化す瀧也。
とはいえ心の中に生じた憂いは、喉に引っかかった魚の骨のように瀧也の心に突き刺さっていた。近いうちに、きっと気が滅入るような仕事を強いられることはまちがいない。つまり、目の前にいるこの少女――ちさの死体を回収するという仕事だ。
今を乗り越え健気に生きようとしたところで、次の相手は愁衣由宇なのだ。情に流されてとんでもない奴の相手をしてしまったと、瀧也は隠れてため息を吐く、
「両親の他に家族は?」
「いません。お父さんもお母さんも、それぞれ家族の反対を押し切って結婚したみたいで。私も、そんなおじいちゃんおばあちゃんを探したくないし」
「じゃあ、今日から一人か」
「ですね」
ならば余計に長居は無用だ。
「いいソーシャルワーカーを紹介してやるよ。学校も夢も君には必要だろう。弁護士は法律上の整理しかしてくれないが、ソーシャルワーカーなら生活上の整理をしてくれる」
瀧也は自分の〈紋白端末〉を起動させ、電子名刺を共有スペースに流した。これでちさにもデータが見えるはずだ。ちさが自身の〈紋白端末〉を近づけることで、そのデータは吸収され活用できるようになる。
しかし、ちさは手を持ち上げなかった。
「ありがとうございます。でも、大丈夫です」と、ちさは笑った。
まだ中学生だというのに、その笑顔は女性としての気品を纏っている。それは突如として両親を失った悲壮も相まってのものだったが、果たして普通の少女にこんな表情ができるものなのだろうか。
……まぁ、本人がそう言うならそれでも構わない。
瀧也は踵を返し、玄関へ向かう。仲間はさぞかし待ちくたびれていることだろう。閉じられた
瀧也は振り返って――裾から手を離したちさの様子をしばらく観察する。ちさは俯いており、何を言うでもなくただ静かにそこに立っている。
「一人が寂しいのか」
コクリと頷くちさ。
はぁ……と溜息を吐いて、瀧也は自分ができる最大限の譲歩を考えてみる。
「簡易施設を紹介してやるよ。今日はそこで休め。そしたら明日、由宇の所まで連れてってやる」
そして、自分のミスに気付いた。
ちさは俯いたまま目を横に流す。
「……愁衣さんのこと。知ってるんですね」
もっとも、隠す意味も義理もない。「まぁな」と、瀧也は平然を装った。
「何で知ってるんですか? 友達?」
「おれがこういう仕事をしているからだ」
「死体回収?」
「由宇のゲーム相手は、いつも死ぬんだよ」
「じゃあ、きっと私も」
「だろうな」
ちさは特にショックを受けた様子もなく、何度かに分けて頷いていた。
タバコが欲しい。ポケットの中でお目当ての箱に手が触れたが、許可のない場所での喫煙は犯罪だ。
「でも、なんで」
ちさは顔を上げ、無垢に見開いた瞳を瀧也に向けた。死の話をしているというのに、その瞳には若干の好奇心の色が混ざっている。
「でもなんで、愁衣さんのゲーム相手はいつも死ぬんですか?」
「あいつは特別なんだ」
「特別」
「ゲーム相手が由宇の気持ちを理解できないんじゃない。由宇が、他人に気持ちを理解してもらえる人間じゃないんだよ。頭の中に独特な世界を持つ奴なのさ。だから、今まで由宇の気持ちを分かってやれずに死んだ奴らに非はない」
「可哀想」
「おれもそう思う。あいつのせいで全く罪のない――」
「そうじゃなくて」割り込んできたちさ。「誰にも気持ちをわかってもらえていない愁衣さんが、可哀想」
【44616e6765726f75732074686f75676874】
致命的だ――と、瀧也は少々動揺した。まさか自分が、相手の言葉の読みを間違えるなんて。
このやりとりが〈サイコゲーム〉だったらと思いかけ、瀧也は考えるのをやめる。
「由宇が可哀想、か」
「あの。吸うなら、換気扇の下で」
気付けばタバコを一本取り出して、火を探している自分がいた。
「悪いな」
「いえ」
瀧也は雫草家のリビングへ戻り、ダイニングキッチンにある換気扇のスイッチを押した。安物のライターを取り出して、タバコに火をつける。灰色の気体が肺に溢れ、安堵の息を吐く。街へと通じる黒い換気扇に、魂の一部が吸い込まれていくかのようだ。ちさはその様子を後ろから眺めていた。純白のロングカーディガンを身に纏った、無垢な表情のちさだった。
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