6.私の居場所

1.裏切り者

 腕の中の赤ちゃんは、黒目がちな目で大人しく私を見ている。

 口元についたミルクを毛布の端で拭く。あとできちんときれいにしてあげよう。


 後ろを振り返る。農場は、暗闇の中にひんやりと沈んでいる。

 赤ちゃんを抱きなおす。伊織が扉を開ける。

 一緒に表に出る。


 扉をくぐった途端に、左腕に強い痛みを感じた。


 左腕を強く引かれ、赤ちゃんを落としそうになる。

 私の右側にいた伊織の表情が変わる。

 

 胸の音が激しくなる。

 頭の血がすっと下がる。

 自分の左側を、ゆっくりと見る。


「信じようって思ったのに。伊織は裏切らないって」


 私の腕を掴んだ嶋田さんは、そう言って指先に力を籠めた。




 街灯の僅かな灯りが浮かぶ中、木の葉が風に揺れる音がする。

 冷たい空気が頬を刺す。右手で赤ちゃんの頬を庇う。

 切れそうなほど冷たい風が吹いているのに、激しい鼓動で胸に不快な熱を帯びる。


 なんで私達が『農場』に来るのが分かったんだろう。


 嶋田さんは、私の腕を掴んだまま伊織から離れるように後ずさりした。

 私の腕を強く掴み、微かに声を震わせながら、伊織に向かって話しかける。


「僕をぶん殴って逃げようとしても無駄だよ。この辺にいるのは僕一人じゃない」


 伊織が少し離れた所にある街灯に目を向けた。私も同じ方を見る。街灯の陰から人が現れ、どこかに走り去っていった。

 伊織は舌打ちをして脚で地面を蹴り、眉をひそめた。


「伊織、随分と品のない仕草だね。やっぱり地下独房に入る奴は、それなり、ってことなんだ」


 嶋田さんは私の方に目を向けた。


「凛子さん、急に命が惜しくなったんですか? で、その子は」

「嶋田さんに関係ない……」

「ふん」


 私の言葉につまらなそうに答えた後、嶋田さんは視線を動かした。その隙に、伊織が前に踏み出す。


 私を掴んだ嶋田さんの腕に手を掛け、強く引く。嶋田さんの手が離れる。嶋田さんが伊織の手を払う。赤ちゃんがぐらりと揺れる。慌てて抱き直す。脚を一歩前に踏み出す。


 今だ、逃げなきゃ。


 伊織に顔を向ける。彼の手が私の腕を取ろうと伸びる。体を前に倒し、走り出す。

 だが、そこで外套の襟首を強く掴まれ、私は投げ飛ばされるように大きく後ろに傾いた。手をつく事が出来ない状態で尻餅をつく。お尻と腰に強い衝撃が走った。


「凛子っ!」


 衝撃を受け、腕の中の赤ちゃんがもぞもぞ動く。

 そして顔をくしゃりと歪めたかと思うと、ほわあ、と泣きだした。


 ほわあ

 ほわあ

 ほわあ


 再び襟首を掴まれ、立たされる。背後の嶋田さんと農場に意識を向ける。

 泣き声が風に乗ってあたりに響く。

 背中にねばついた汗が伝う。

 伊織は前傾姿勢を取りながら、機を窺っている。

 車のエンジン音が遠くで低く響く。


「『凛子』、ね」


 嶋田さんの震える声が赤ちゃんの泣き声に被さる。


「君達の仲。女中達の噂は本当だったんだ。でもさ、あれだけ恩義のある叶様の『花嫁』を惑わして連れ去るなんて、そんな」


 周りの空気に怯えたのか、赤ちゃんは手足を動かし、激しく泣き続けた。

 建物の陰から男が二人走り出し、一人が伊織を締め上げる。普段、お屋敷の雑用や夜間の見回りをしている下男達だ。嶋田さんが私から手を離す。間髪を容れずもう一人が背後から私の首に手を回す。


「うるせえガキだな」


 下男が私の耳元で呟いた。つんとした口臭が鼻につく。嶋田さんは羽交い絞めにされた伊織に向かって行った。襟元を掴み、顔を寄せる。

 車のエンジン音がする。


「なんではた慈善孤児院に僕らがいたのか、聞かないの?」

「……聞いて逃げられるのなら幾らでも聞いてやる」

「てめえ、嶋田さんに向かってなんて口の聞き方しやがるんだコラ!」


 伊織を羽交い絞めにした下男が怒鳴った。静かな通りに声が響く。反射的に農場の方を見た。だが塀に囲まれた農場の中の様子は分からない。


「信じようって、思ったのに」


 嶋田さんはもう一度そう言い、俯いた。


「伊織とは、仲良く働けるって思ったのに」


 顔を上げる。

 瞳の奥が光る。


 街灯の仄かな光を受けて、彼の中に眠っていた吸血族の血が、その双眸に強い光をたぎらせる。


「この、裏切り者が!」


 逃げ出そうともがく伊織を下男が押さえつける。三人で揉みあうようにして農場の塀にぶつかる。私は叫び声を必死に抑えた。腕の中の赤ちゃんは、ますます激しく泣き叫ぶ。

 嶋田さんは下男に押さえつけられた伊織に体を押しつけ、口を開き、その首筋に牙を突き刺した。


「伊織っ!」


 抑えていた叫び声が唇から溢れ出す。伊織のもとへ駆け寄ろうとして下男に首を締め上げられる。赤ちゃんが泣き叫ぶ。

 嶋田さんの牙を受け、伊織は消え入りそうな喘ぎ声を漏らして痙攣した。


 なんてことを。

 嶋田さん、あんなに伊織の血を嫌がっていたのに。どうして、どうしてこんなことをするんだ。

 自分が嫌な思いをしてまで、伊織を苦しめたいのか。

 そんなにも、伊織の裏切りが。


 男達の乱れた足音と赤ちゃんの泣き声が、車のエンジン音に掻き消された。


 私を押さえつけていた下男の動きが止まる。嶋田さんは伊織の首筋から離れ、エンジン音のする方を見た。

 ガソリンの匂いを漂わせ、見慣れた黒塗りの車が、私達のすぐそばに停まる。 

 運転席から井村さんが降りる。

 そして後部座席のドアを自ら開けて、険しい表情の怜様が姿を見せた。




 怜様は私を一瞥すると、真っ直ぐ伊織の方へ向かった。

 伊織から嶋田さんを引き剥がす。口元から血を滴らせた嶋田さんの胸倉を掴み、擦れた低い声を投げつける。


「半吸血族の分際で、ふざけた真似を」


 井村さんは私の背後に回り込み、下男に代わって私を捕えた。両腕を掴まれ、ほどこうとすると爪を喰い込ませて力を入れる。


「その赤ん坊が、目的だったんですか」


 井村さんが耳元で囁く。言葉の意味を訊こうと口を開いた時、怜様の声がした。


「あなた達はもう結構です。屋敷に帰りなさい」


 伊織の服を掴みながら、嶋田さんに向かって言い放つ。嶋田さんは何か言いたげに顔を上げたが、怜様の視線を受けて、黙って頭を下げた。

 嶋田さんが下男達に目くばせをすると、彼らは頭を下げ、私達のもとから離れた。


 嶋田さんは口元の血を手で拭った。伊織に向かって何かを呟き、下男達と共に立ち去る。

 嶋田さんの呟き。赤ちゃんの泣き声と風の音でよく聞き取れなかったが、私にはこう聞こえた。


「僕は、伊織と、友達になりたかったんだ」




 嶋田さん達が立ち去った後、赤ちゃんは泣き叫ぶのをやめ、ぐずぐずと機嫌悪そうに私の腕の中で動いた。

 怜様は伊織の首筋に目を向ける。伊織は焦点の合わない目で怜様を睨みながら、首筋から黒い血を流し続けていた。


「あの未熟者の半吸血族が。吸いっぱなしで立ち去るとは」


 怜様は伊織の首筋に顔を寄せた。光っていない目を少し細める。舌を首筋に這わせ、流れ出る血を拭う。穿たれた二つの牙の痕を、舌先で舐める。

 首筋を流れていた血は、ぴたりと止まった。


「これは酷い。ざらざらとしていて、なんの味もしない。水というのは、こんな味なのだろうね」


 睨み続ける伊織の服を引きながら、怜様は美しい眉を僅かに顰めた。


「こんな血の流れているような体で、私を裏切り、『花嫁』をかどわかし、一体何をしようとしていたのですか。さあ、言いなさい。どうせもう逃げられない」


 伊織に向かって白い歯を見せ、口角をきゅっと吊り上げて笑う。

 

「そのために、伊織を『掬い上げ』たのだから」




 風に乗って、農場の中から人の声が聞こえた。

 中にいる人達が起きている。外でこれだけ騒いでいたら、何事かと目を覚ます人もいるだろう。


 お願い。どうか、赤ちゃんがいないことに気づかないで。


 怜様は目を見開いた伊織に向かって、嗤うように言葉を続けた。


「少し考えれば分かるでしょう。確かに伊織は仕事が出来る。でも掬い上げるまでは、読み書き計算が出来ることくらいしか分からなかったんですから。美那さんに文句を言われながら、地下独房入りの囚人を屋敷で働かせたのは、自分の目の届く範囲に伊織を置きたかったからに決まっています」


 怜様の涼しげな目が、私の腕の中の赤ちゃんを見つめる。私は思わず赤ちゃんを庇うように腕に力を籠めた。


「伊織の前科は、不自然な点が多かった。でも少し調べれば誰でもある程度は分かります。二度にわたって秦慈善孤児院に侵入したこと。裁きの場に、何らかの形で秦家が口を出しているらしいこと。そして伊織が明らかに命にかかわる行為を刑務所内で受けているのに、見て見ぬふりをされていること。まるで、弱ってくれと言わんばかりにね」


 伊織は時折、視線を左右に動かし、機を窺っているようだった。多分、農場内の物音にも気づいているだろう。


「この孤児院には、秦家がどうしても侵入されたくない秘密が、隠されているのではないですか?」


 ああ、そうか。怜様は、そう解釈したんだ。


 確かに農場には、とんでもない秘密が隠されている。だが最初に伊織が捕まった理由は、私が農場を逃げ出そうとしたことを、誤魔化そうとしてでっち上げられたものだし、二回目の侵入の真の目的は、誰にも気づかれていない。


 ただ、いずれにしても伊織と農場のかかわりは、秦家にとって世間的に知られたくないものではあっただろう。だから怜様から見て不自然な点が色々あったのかもしれない。

 それに怜様の誤解が混じったせいで、核心に近づいてしまったのだ。

 

 いっそ、ここで秘密を暴露したら、怜様は伊織の手を離してくれるだろうか。


「当家にとって鬱陶しい秦家の秘密を握っていれば欲しい。だが只聞いても、自分の益になることなら言わないでしょうし、仮に何の秘密も知らなければ、叶家の当主としてみっともない姿を晒すことになる。だから緩やかに泳がせていたのですよ。もし、それなりに恵まれた待遇の屋敷を敢えて逃げ出すとしたら、孤児院にはそれだけのものがあるのだろうと思ってね」


 ものを知らない子供に教えるように、静かな声で淡々と話し続ける。私の背後の井村さんは、私を掴みながらも落ち着きなく体を動かしていた。私も怜様の話に驚きながらも、農場の様子が気になって何度も視線を動かした。


 怜様が伊織の服を左手に持ち替え、強く引いた。

 表情が一変し、双眸が吊り上がる。

 空いた右手で拳を握る。


「だから、伊織が一人で逃げるのは、ある程度想定していました。逃げずに大人しく屋敷で仕えるのなら、それでも別にいい。なのに」


 声を荒らげ、拳を振り上げる。


「『花嫁』を逃すなどと……!」


 拳は大きく振り下ろされ、伊織の頬を直撃した。

 激しい拳を受け、伊織の体は鈍い音と共に地面に叩きつけられる。


 言葉にならない叫び声を上げ、私は井村さんの手から逃れようともがいた。

 体を左右に振り、首を動かす。


 視線が農場の扉を捉える。

 体の動きが止まる。

 心の中が凍てつき、強張る。


 農場の扉の隙間から、怯えたような表情の男の子の姿が覗いている。

 男の子は扉を閉じた。


 扉の向こうから、微かな足音と、「先生ー!」という声が聞こえてくる。

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