7.深夜の侵入

 暗い通路を抜け、物置の地下室に入る。私は懐中電灯にスイッチを入れた。物音を伺い、戸を開ける。

 一階に人はいない。懐中電灯を消し、床の戸を少し開いた状態にしておく。もし見つかった時、素早く入り込めるように。


 伊織が玄関の扉を開け、庭を伺う。誰もいないようだ。私も外を覗く。

 冷たく鋭い風が目を刺し、凍みるような冷気が体を包む。

 黒い空には月も星も見えない。街灯の灯りだけが、寂しげに宙に浮かんでいる。


「この通路、いつくらいからあったんだろうね」


 緊張を誤魔化そうと、今ここでしなくてもいいお喋りをしてみる。


「さあ。でも、見つけたのは向こうの人間じゃなくて秦家なんだろうな。新宿からここに来るには、ビルの部屋の鍵だけ開ければいいんだから」

「そう考えると不用心だよね。まあ、うっかり向こうからこっちに来たって、面白くないだろうけど」


 私の言葉はそこで止まった。

 伊織の息遣いが変化している。呼吸が不自然に深い。


「少し、休もうか」


 伊織は具合が悪いのを隠す時、こういう呼吸になることがある。ここで無理をして、この間みたいなことになったら大変だ。


「え、なんで? いいよ、早く行こう」


 伊織は鳩尾を押さえ、深く息を吐きながら、声だけはいつもの調子で答えた。


 分かっている。本当はここでのんびりしない方がいい。暫くすると調乳のために先生が起きてしまう。そして授乳が終わり、赤ちゃんが深い眠りに入るのを待っていると、今度は食材を納入する業者が来て、先生が何人も起きてしまうのだ。


 そうはいっても伊織の体が心配だ。だが、「あなたの具合が悪そうだから侵入の時間を遅らせましょう」と言ったら、多分彼はむきになって元気ぶるだろう。

 彼の体調不良に気付いていないふりをしながら休ませる、何か適当な理由を考えないと。

 ええと……。


「か、考えてみればさ、赤ちゃん、ずっとお腹をすかせた状態にさせちゃうのって可哀想だよ。だから授乳が終わるまでここで休んでいこうよ。ほらあの部屋で、体、こっち下向きにして横になって」


 あ、駄目だ、空腹の件は勝巳さんが対応してくれるんだった。それに今の台詞って絶対わざとらしかった。

 もっと上手な理由、理由、ええと……。


 私が少ない頭を巡らせていると、その頭に、ぽん、と伊織の大きな手が乗った。

 外から漏れる光の中で、伊織が微笑んでいる。


 ああ、しまった。気付かれてしまった。


「ごめん。気を遣わせた。俺なら大丈夫だから」


 私の髪をくしゃりと掴む。

 少しかがみ、私と目線を合せる。

 頭から手を離す。

 顔が近づく。


「いとしいな」


 接吻くちづけのちいさな音に、耳の奥がじんと痺れる。

 重ねられた彼の唇は、柔らかく、あたたかく、微かな湿度を含んでいる。


 私達は扉を開け、外に出た。

 置き去りにされた甘い唇の余韻を抱いて、火照る胸をそっと押さえる。




 農場の前に立つ。私が十四年間、ただ吸血族の『餌』となるべく育った農場は、少し離れた所にある街灯の灯りを受けて、塀の向こうに変わらぬ姿を覗かせている。


 農場の塀は周辺の民家のものに比べれば高いが、伊織からすれば塀のうちに入らないのだろう。彼は少し周りを見回した後、塀の石の隙間に手足を引っ掛け、するすると上って敷地の内側に侵入した。

 勝手口側の小さな扉が音もなく開いた。


 手入れのされていない裏庭を抜け、乳児室へ向かう。

 足元の雑草がさくさくと音を響かせる。靴の踵が湿った柔らかい土に沈む。冷たい風が木々の葉を揺らす。


 農場の母屋は二階建てで、乳児室は正面玄関から見て右側、一階の端にある。その中でも新生児の小部屋は一番端に仕切られている。新生児は昼夜を問わずに泣くので、他の赤ちゃんの睡眠を妨げるからだ。


 部屋に近づくと、赤ちゃんの泣き声が聞こえた。

 窓のカーテンは、きちんと閉められておらずに隙間があった。窓枠に手を掛け、少し背伸びをして小部屋を覗く。三つあるベッドのうち、使われているのは一つだけのようだ。赤ちゃんの様子は分からないが、毛布がもぞもぞと動いているのが見える。


「泣いちゃっているな」


 伊織が僅かに眉を顰めた。

 

「じゃあ、周りを見張っていて」


 頷く。この時間、この辺りに人が来ることはまずないと思うが、眠れない子が外を散歩するとか、何があるか分からない。


 伊織はポケットから細長い器具を取り出し、窓に向かった。暫くすると、窓ガラスに亀裂が入った。

 伊織がふっと息を吐く。

 もう一度窓に向かう。


 風に木の葉が揺れる音がする。

 ガラスにもう一箇所亀裂が入る。

 みし、という微かな音が、やけに大きく聞こえる。

 私は辺りを見回す。

 室内を覗いてみる。


「伊織っ」


 鋭い声で囁き、一点に視線を集中させていた伊織の手を掴んだ。

 窓ガラスには既に何箇所か亀裂が入っている。もう少しでガラスに穴が開きそうだ。


「音がする」


 動転して言葉が足りなくなってしまったが、伊織は理解した。二人で窓の下にかがみ込む。

 木の葉の揺れる音に混じって、小部屋の扉が開く音が聞こえた。

 かがんだまま窓の方を窺うと、微かに灯りが揺れている。


「……ったらもう」


 言葉は聞き取れないが、刺々とげとげしい大人の女性の声が聞こえた。先生が部屋に入って来たのだろう。


 どうして。授乳の時間まで、まだ間があるのに。

 

 刺々しい声で何かを言っているのが聞こえた後、赤ちゃんの泣き声が止んだ。暫く耳をすませていたが、部屋の中からは何も音が聞こえない。

 何しているんだろう、と部屋の中を覗いた所を伊織に押さえつけられた。

 私の頭を押さえ込み、険しい表情で首を横に振っている。私は小さく頭を下げた。


「ミルク、あげていた」


 屋外の声というのは、意外と部屋の中まで聞こえるものだ。私は伊織の手を頭から外し、彼の耳元に顔を寄せ、囁いた。

 囁き声の息に驚いたのか、伊織は肩を震わせて身を引き、私が囁いた方の耳を押さえた。私の顔を見つめ、驚いたような困ったような顔をしている。

 彼はそのしぐさのまま無言で何度か頷いた後、落ち着きを取り戻したのか、再び窓の下にかがみ込んだ。


 先生は、赤ちゃんにミルクをあげていた。

 普通、授乳の時間は決まっていて、それ以外の時間は泣いても放っておかれる。だが稀に、泣き声が大きくて他の子の睡眠が妨げられる場合、時間外でも大量にミルクを飲ませることによって、眠らせてしまうことがある。よりにもよって今日、それにあたるとは。


 先生はベッドの傍に座り、片手で瓶を持ってベッドの中の赤ちゃんにミルクをあげている。私が見た時は先生は扉の方に顔を向けていたが、もし窓の方を見ていたら顔を見られる所だった。


 いや、私と顔が合わなければいいというものでもない。

 もし、先生が窓の方に目を向けたら。

 そしてもし、窓の亀裂に気づいたら。


 窓を見上げる。

 亀裂がはっきり浮かび上がっている。

 先生がこれに気づいて、窓を見にここまで来たら。

 亀裂に気づかなくても、カーテンを閉めに来たら。


 喉が詰まる。息が苦しくなる。


 腕を伸ばし、伊織の手を握る。冷たくなった私の手を、伊織が強く握り返す。窓の真下から逃れようと足を踏み出すと、さく、と草を踏む音がする。二人同時に歩いた時、音や気配で気付かれるだろうか。歩くのを諦め、その場で様子を窺う。


 部屋の中から灯りが漏れている。まだ先生がいるようだ。伊織は腕に嵌めた向こうの世界の時計を見て、息をついた。

 今、どのくらいの時間なのだろう。授乳に随分かかっていないか。それとも時間が長く感じられるのは気のせいなのか。


 早く、早く。向こうへ行って。食材を納入する業者が来るまではまだ間があるだろうか。どうしよう。早く行かなきゃ。


 部屋の灯りはなかなか消えない。胸がどろどろと音を立てる。口の中が苦い。伊織と握った手に力を入れ、彼に寄り添う。

 露に濡れた足元から冷気が這い上がる。

 そのまま時間が過ぎていく。


 月のない暗い夜が、過ぎていく。




 やがて部屋の灯りが消え、扉を閉めるような音がした。

 伊織が部屋の中を覗き込む。私の方を向き、軽く頷く。先生は窓に気づかないまま出ていったようだ。


 伊織は再び窓に向かった。みし、という音が響く。大きな亀裂が幾つも入る。彼がそれに手を掛け、暫く動かすと、やがて小さな音を立てて窓にいびつな穴が開いた。

 穴に手を差し込み、鍵を開ける。


 低い音を立てて窓が開く。

 外からの風を受けて、カーテンが揺れる。


「じゃあ、頼むよ」


 伊織に言われ、私は窓枠に手を掛けてよじのぼった。その姿勢のまま靴を外に脱ぎ捨てる。窓の周辺に飛び散ったガラスの破片に気をつけながら、小部屋に入る。


 小部屋の中は、ずっと馴染んでいた「農場」の匂いがした。小さなベッドが三つ並んでいるが、二つは毛布類も入っていない。赤ちゃんのいるベッドに向かう。


 赤ちゃんはミルクを飲まされ、眠っていた。そっと毛布をめくり、外見の確認をする。

 万が一関係のない赤ちゃんを連れだしてしまったら一大事だ。髪の毛の量は少なく、眉毛は薄く、睫毛がない。体の大きさは、向こうの基準では大きいらしいが、普通といったところか。眠っているから目の特徴が分からない。鼻は。口は。頬は……。


 やはり、この子だ。


 念のため、産着の中に手を入れる。おむつは取り換えられている。毛布を掛け、刺激しないように体の下に手を差し入れる。

 先生はまだ起きているだろう。ここで赤ちゃんに泣かれたら、折角眠らせたのにとまたここに来てしまうかもしれない。両手でそっと抱き上げる。

 生まれて間もない赤ちゃんの体は軽く、くにゃくにゃしている。揺れないように静かに歩き、窓に向かう。


 外では、伊織が心配そうに見ていた。私は微笑み、頷いてみる。赤ちゃんを片手に持ち替え、窓を跨ぐ。

 片手で窓枠を掴み、体を乗り出す。伊織が私の腰を掴んで支えてくれた。そのまま彼に体を委ねるように外に出る。

 草の上に降り立つ。脱ぎ捨てた靴を履く。

 赤ちゃんを両腕で抱きなおす。


 その時、赤ちゃんが目を開けた。

 私の方を見るような仕草をし、体を動かす。

 そして口からだらだらとミルクを吐き出した。


「わっ」


 声を上げる伊織を軽く睨み、しぃ、と言う。


「大丈夫。ただの溢乳いつにゅうだよ。よくあることだからびっくりしないの」


 目を覚ましてしまった赤ちゃんが泣かないよう、抱き締めながらそろそろと走る。


 勝手口のある方の扉の前に立つ。まだ業者が来るには早い時間のようだ。

 伊織と顔を見合わせ、微笑み合う。


 物置まではそれほど距離はない。あとは向こうの世界へ行くだけだ。

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