第5話 デブの魔法使い、心が弱る(仮)

第四章 


 蓮城莉緒こと、ロッセッラ・リオ・ロンバータ・ヴィテッロは多忙であった。

 日々、元老院からの陳情書が山のように届き、それに目を通すだけでも一日が終わってゆく。バローニ通り孤児院近くの下水道が壊れたので国からお金を出してほしい(予算はすでに降りているが全然足りないので少しでも高くくださいよゲヘヘ)というような、そっちで解決してくれよというものが大半だが、近くの街道に帝国軍が出て怖いので速やかに兵士を派遣してくださいといった重要度の高い項目がたまに混ざっているから気が抜けない。

 しかもここ最近は帝国軍に兵士の動きが見透かされているらしく、王国内で悪さを働くやつらを全然取り締まれないのが頭痛の種だ。誰かが情報を横流ししているのではないかと疑っているが、一向に犯人が掴めない。

 それ以外にも戦争中ということで、今は貴族同士の揉め事が非常に多かった。国王の仕事の大半は人と会うことだが、わざわざ王都まで訴えにやってくるだけあって、来る人来る人みんな怒り狂っているので、現代のクレーム処理に似たつらさを感じる。

 先日も、ふたりの貴族がやってきた。

 ひとりは戦争で有力貴族の誰々が死んでしまったから、どこどこの領地を減らすべきだ。代わりにうちの領地を増やしてほしいと言う。

 もうひとりは言う。川からこちら側はもともと爺ちゃんの土地だったそれを貴様達が奪ったのだこの蛮族め。

 そしてふたりが玉座の間で出会ってしまった。なんだとならば力づくで奪い取ってやってもいいんだが? うるせえ馬鹿野郎殺すぞテメー。ンだオラー、ッスゾオラー! などという言い争いを必死になって仲裁していた。ターヴォラ伯爵がその場に同席していてくれなければ、今頃は莉緒がブン殴られていたかもしれない。

 結局その火種は今もくすぶったままである。内紛が起こるのだろうかと心配すぎてきょうは寝られない予感がした……。

 これでは姫の影武者なんて、貴族の緩衝材みたいなものではないか。やってることはただの喧嘩の仲裁ばかりなのだから。おかげですっかり貴族の嫌われ者だ。

 中学校では腕利きの学級委員長としてクラスの問題を解決してきた莉緒だったが、ここはひとつなにかを間違えば人死が出る場所だ。精神のすり減り具合が半端ない……。よくこんな環境で、一ヶ月も耐えてきたものだと自分でも思う。

 本日の激務も夜遅くに終わって、疲れたまま自室へと向かう。

「うう、お兄ちゃん、お兄ちゃんに会いたいよう……。すりすりして、くんくんして、はむはむしたいよう……。ぎゅっとしてあのふかふかのお腹を全身で感じてそのまま石になって永遠に添い遂げたいよう……」

 危険な思想に身を焦がしているとだ。足をもつれて転びそうになったところで、誰かに支えてもらった。

「まったくフラフラとしおって、ほれ、まっすぐ歩くがいい」

「えっ、あっ、すみません……えっ!?」

 二度見する。彼女こそ先日兄との決闘に敗れ、スレンダー美少女に大変身してしまったアリーチェだった。

 しかし痩せたからといって、性格が変わるわけもない。莉緒は今までずっとアリーチェに責められてきた経験から、彼女にとてつもない苦手意識をもっていた。

「な、なにか御用でしょーか、アリーチェさん」

「一国を治める国王代理がそのような弱々しい姿を晒しているのでは、民や臣下に示しがつかぬ。それではこの国の行く末もたかが知れたことよ。まったくもって情けない」

「ううう」

 言っていることはド正論で、ぐぅの音も出ない。

 自分が未熟なのは本当なのだ。あたしだってがんばってるのに……。と言い返したいところだが、戦争中のこの国においてがんばっていない人など誰もいないのだから。

「ま、未熟な割にはよくやっていると思うがの」

「……へ?」

 思わず聞き返してしまった。あの、結果以外にはまるで興味がないようなアリーチェが、自分を認めてくれた……?

 アリーチェは腕を組んで顔をそむけたまま。

「インサラータ子爵とブディーノ子爵の件じゃが、わらわが口添えをしておこう」

「ふぇ!?」

 今度こそ変な声が出た。領地を奪い合うふたりの貴族家の争いは、目下、莉緒の悩みの種だったからだ。

「奴らには大層貸しがあるでな。わらわの言うことには逆らえまい。他にも憂慮があるならば、なんなりと申すが好い。聞いてやるのもやぶさかではないぞ」

 その問題が解決すれば、莉緒の抱えている仕事は相当楽になる。いや仕事の量は大して変わらないけれど、心情的には格段の違いだ。

「あの、アリーチェさん……?」

 だからこそ、どうして急にそんなことを言い出すのかわからない。

 戸惑う莉緒を横目にちらりと見たアリーチェは、静かに首を振る。

「上に立つ者に才知は必要不可欠じゃが、それよりも大切なことがある。人柄じゃよ。そなた自身に何の力がなくても、そなたを大切に想う者が居れば、おのずと仲間は増えてゆくものじゃ。ふん、人に恵まれたことを感謝するが好い」

 そう言い残すと、アリーチェは振り返らずに去っていった。

 莉緒はしばらくぼうっとした後、ハッと気づいて自室へと急ぐ。後ろ手にドアを締めて背中を預けた。

 頬を押さえる。

「お兄ちゃんだ……」

 間違いない。アリーチェの急な変心には、兄の介入があったのだ。そうに違いない。

「うわ、やばい……うわあ、うわあ……」

 どんどんと体が熱くなってきた。心音が早鐘を打ち、いても立ってもいられない。まぶたの裏に兄の顔を思い浮かべると、じんわりと涙がにじむ。

「だめ、だめ……。こんなの、嬉しすぎ……」

 兄が自分のために苦労してくれたということが、申し訳なくもあり、それ以上に泣きたくなるほど嬉しかった。

 たとえ一緒にいられなくても、兄はいつでも自分のことを想ってくれているのだ。その気持ちが確かに伝わってきて、莉緒はついにしゃがみ込んだ。歓喜に震えて、腰が砕けてしまいそうだった。

「お兄ちゃん、好き……大好き……大好き……」

 ひとりつぶやく。何度も言い続けてきたはずなのに、その言葉は妙に気恥ずかしく、誰にも聞かれてやしないかと辺りを見回してしまう。もちろん誰もいない。

 はぁ……と莉緒は熱っぽいため息をついた。

「……ありがと、お兄ちゃん……」

 まるで兄の温もりに抱かれているように、体の奥からポカポカとした温かい感情が溢れてくる。それはエネルギーとなって、莉緒の小さな体を駆け巡った。

 今ならなんでもできそうな気がする。

 この情熱をそのまま紙に叩きつけてお兄ちゃんの華麗なる姿を絵にしたいけれど、でも、それはまた今度だ。今は体力の回復に努めなければ。

「明日からもがんばろ。うんっ」

 莉緒はベッドに飛び込む。

 体はいい具合に疲れていて、きょうはとても素敵な夢が見られそうだけれど。

 しばらくはこの幸せな気分に浸っているのも、悪くないのかもしれない──。



     ***



 腹減った……。

 などと言おうものなら、どこからか妹たちがやってきて俺の口にパンパンに食べ物を詰め込んできそうなので、ただただ悲しくため息をつく。つらい。

 今はとりあえず、王城の庭でのウォーキングをがんばろう。

 それにしてもだ。

「お兄さまぁ、がんばってくださぁい。あんよが上手、あんよが上手ですぅ♪」

「……」

 ミィルの手拍子に、俺は暗澹たる顔をした。

 俺がよりかかっているのは、輪っかを縦に並べたような形をして、下の輪っかにはキャスターがついているものだ。

 ジャストサイズで、これを巻いている限り非常に歩きやすい。とてつもない安定感があった。

 それもそのはず。これはルッツが製作した手作り歩行器なのだ。

「なぜ普通に歩かせてくれないんだ……?」

「だ、ダメですぅ。お姉ちゃんが言ってましたぁ! 『この国を守護する役目をお持ちのお兄さまがもし足でも怪我されたら、私たちの監督責任として、ミィルがクビにされちゃいますです』ってぇ……」

「なんでミィル限定!?」

「てへへ、ミィは首にされてもいいんですけど、お兄さまぁには怪我をしてほしくないですからぁ……。お兄さまぁの体はこの国の宝ですぅ。どうぞ大事になさってくださいませぇ」

「そういう儚い笑顔、心に来るからやめろ!」

 俺は頭をがじがじとかく。

 このウォーキング、楽すぎて効果があるのかまったくわかんねえ。

 気分転換ルビ:げんじつとうひに、俺はカルガモの子どものように後ろをついてくるルッツにうめく。

「ミィルは本当にルッツが大好きだよな……」

「はいぃ♪」

 すごくいい笑顔をされた。

「でもあいつ、けっこうロクでもないだろ……? 平気で嘘つくし、楽するためには人をこき使うことをなんとも思わないし……。いや、これは悪口とかじゃなくて参考のために聞かせてほしいんだが、あいつのなにが好きなんだ?」

「ん~~~~~」

 するとミィルは急にしかめっ面で首をひねる。で、難しく考え始めるから。

「ふぎゃんっ!」

 となにもないところで転んでしまった。今のは顔面からいったから、めちゃくちゃ痛そうだ。

「だ、大丈夫かよミィル」

「へいきれすぅ~~~~~~」

 手をパタパタと振る。お前こそ歩行器が必要なんじゃないか?

「体は頑丈なのでぇ……で、そうですねぇ、お姉ちゃんの好きなところは、ちょっとよくわかんないですぅ」

「わかんないて」

「お姉ちゃんは生まれたときからお姉ちゃんだったので、どこが好きとかもうよくわかんないですぅ。でも、ミィは世界中の誰よりもお姉ちゃんが大切なので、それだけわかっていれば大丈夫なんですぅ」

 俺は莉緒のいいところなら、5000兆個でも挙げられるけどなあ。

 でもまあ、そうか。

「そういう形の姉妹もいいな」

「はいぃ」

 ミィルは褒められたと思ったのか、嬉しそうにピースサインを突き出す。

 その頭を撫でる。ミィルはホント子犬みたいだな……。姉はふてぶてしい大型犬みたいになっているが。

「はあ、それじゃあもう帰ろうぜ。帰って踏み台昇降運動しよう。そっちのほうがカロリー消費できそうだ……」

「はぁい」

 見えない尻尾を振りながらついてくるミィルを従え、俺はガラガラとキャスターの音がする歩行器を引きずりつつ、目と鼻の先の屋敷に帰るのだった、


「ただいま……」

「おかえりなさいソウタさま。こちらタオルと運動後の水分補給にダークモカチップクリームフラペチーノダブルのシュガーマシマシです」

「濃い濃い濃い濃い」

 ルッツが差し出してきたマグカップを押し返す。こいつはきょうも絶叫調だ。莉緒の優しさが恋しい。

 俺は歩行器を外し、踏み台昇降運動を30分ほど終えてから、汗を拭いてどっしりとソファーに座り込む。膝が痛くなってきたので本日はここまで。

「ふぃぃ、疲れた。だがこれで俺は少しだけでも痩せただろう……。毎日痩せていっている……。ふははは、そのことが重要なのだ。俺もいつかはスリムガイに変身するだろう。なぜなら現在進行系で痩せていっているのだからな」

 俺の手がガサリとなにかを掴む。それを口元に運ぼうとしていたところで我に返った。

「うおう! なんでテーブルの上に山盛りのお菓子が!」

 ふざけんなよ、デブの心理をえぐるような罠を仕掛けやがって!

 舌打ちするルッツを睨みつける。てめえ。

 なんて地味で効果的な嫌がらせだ。俺の精神力を如実に削っていくやつじゃないか。

 お菓子をそっとテーブルに戻す。去り際お菓子が『ボクをたべてくれないの?』という目でこちらを見ていたような気がした。幻覚だ。俺は振り払う。

「あーもう……お菓子食べたい……甘いの、しょっぱいの、甘いの、しょっぱいの……」

 知らず知らずのうちに口から漏れ出ていた言葉を聞いたのか、バーンとドアが開け放たれた。

「喰らいたければ喰らえばいいのではあるまいか? あにうえ。なぜ我慢をしているのじゃ? もしやその我慢こそがあにうえの力の秘密というわけか……? ほほう、成る程、興味深いのう」

「ぜんぜん違うから帰ってくれ。ていうかアリーチェ、毎日ここに押しかけているけど、暇なのかなんなのか」

「ただの優先順位の話じゃな。わらわが強くなれば、ヴィテッロ王国はさらに栄える。ならばわらわが今こうしていることこそ、最上の選択よ。ほれ、諦めてその魔力の秘密を語ってくれれば、あにうえの妹君の力になってやるのも、やぶさかではないぞ?」

「だから秘密なんてねえんだって!」

「いもうとがこれほど頼んでおるのに、いけずぅじゃのう、あにうえは」

「お前は妹なんかじゃないだろ!? 妹じゃ……うう、妹なんかじゃ……」

「あにうえ、あにうえ、わらわは愛くるしいいもうとじゃよ。ほれ、生まれたときから一緒にいたじゃろ? ほれ、ほれ。あにうえ、のう、あにうえ」

「うう、妹……お前は妹……? 俺の妹なのか……あれ、なんかそんな気がしてきたぞ」

 ちろちろと指で喉を撫でられ、その気になってしまいそうなところで、俺は慌てて首を振った。

「いやいや、なにを言ってんだよお前。危ないところだったわ、もう少しで洗脳されそうなところだったわ……。半分ぐらい妹なんじゃないかって思えてきたわ……」

「フフ、ならばあともう一息じゃのう」

 アリーチェはテーブルの上の菓子を美味しそうにつまむ。菓子はどんどんと二分の一妹ルビ:アリーチェの腹の中に消えていった。食べることが心から好きなのだろうと感じられるような、いい食いっぷりである。あ、見てると腹減ってきた……。

 そうだよな、こいつもともとデブだったんだよな。しかもそれを俺の目の前でやるとは。

「あにうえ、ずいぶんと物欲しそうな顔をしておるが、どうしたのかの?」

「なんでもねえよ……。妹がおいしそうに食べているから、俺も幸せだ」

「ほほ、あにうえにそう言ってもらえると、いもうと冥利に尽きるわい」

 アリーチェの鼻をつまむ。「ふぎゃー」と鳴かれた。

 そのときだ。厨房のほうからもすっとんきょうな声が聞こえてきた。

「ご主人さまお兄さんー! おかえりーっ!」

「ああ、またなんか作ってんのか」

 メイド服にコック帽をかぶってやってきたのは、王宮食堂の料理長兼メイドのココノである。こいつも決して暇なはずないのだが……。

「今、晩御飯作ってるからねっ! きょうはお兄さんの大好きなステーキだよっ!」

 声を弾ませるココノ。さっきからやたらと肉の焼けるいい匂いがしていたのは、末期状態の俺の幻覚じゃなかったんだな。

「お前、うちで料理するときほとんどステーキな」

「だってステーキが嫌いな男の子なんているはずないでしょっ?」

「そうじゃの。男は媚肉が好きじゃと、相場が決まっておる」

「変な言い方するな……。お兄ちゃんそういうはしたない妹に育てた覚えはないぞ」

「そうじゃったの、失礼した、あにうえ。いもうとたるもの、気品と優雅さは常に最高値を更新し続けなければなるまいな」

 ウンウンと得心するアリーチェ。こうしてまたひとり公認の妹が増えた。来る妹拒まずの精神を体現してしまった……。

 というところで、ココノが皿をもってきた。

「さ、ステーキできたよーっ!」

 ドンッ、とテーブルの上に置く。1キロクラスのステーキが三皿だ。見た目の満腹感がすごい。五感のすべてが『これはおいしいものだ!』と俺に訴えかけている。本能が屈服しそうだ。

 かぶりつきたい……。

「こっちは赤みのステーキだよ。表面を軽く焼いた肉を熱した鉄板の上に乗せて予熱で火を通しているから、ちょうどいい加減になったらお好きなタイミングで召し上がってねっ。この特製ソースがおいしいんだ」

 黒いタレを上からかけると、じゅーという湯気が立ち上った。部屋にジューシーなソースの匂いが立ち込める。

「お次は焼き目のついた骨付きの、特製熟成肉! 旨味の中に甘みがほんのちょっぴりあるから、塩コショウだけでも十分楽しめるんだっ。どう? 骨付きだから見た目のボリュームがすごいでしょっ。ボクのオススメっ」

 マンガの原始肉みたいなのとは少し違うが、ココノの手で仕上げられたステーキはそれよりもずっと美味しそうだ。

 しかも肉は骨の周りが一番ウマいっていうしな。

「最後は一風変わったクリームソースのステーキ! 脂の少ない赤身肉をガーリックバターとか特製調味料で、こってり味付けしてあるよっ! ひとくち食べたら鼻の奥までガツンと来るパンチ力! 男の人ってこういうの好きでしょっ?」

 ステーキとにんにくの相性の良さは言わずもがなであり、異世界に来たところでそれは共通なのである。

 人間が知的生命体である以上、にんにくステーキを好きになるのは自明の理なのだ……。

「さすがはココノ料理長じゃのう。わらわが認めた唯一の料理人よ。わらわは料理の上手な者が好きじゃ」

 と、アリーチェが満足そうな笑みを浮かべる。

 全力で同感だ。だが……。

「俺、イラナイ」

『えっ!?』

 ふたりが同時に驚愕した。

 俺だって言いたかないよこんなこと……。

「今、ダイエット中なんだよ……いい加減、覚えてくれ……」

「じゃあひとくちぐらい、どうっ?」

 ココノが最後に紹介してきたステーキを切って、俺に差し出してくる。肉汁の滴るそれを目の前に突き出されて、思わず喉が鳴る。

 別に、一口ぐらいなら……一口ぐらいならいいのではないだろうか……。

 肉は太りにくいって言うし、たまには美味しいものを食べたってバチが当たらないよね……。

 俺はゾンビみたいにふらふらと顔を近づけてゆく。

 それを見たココノが発情期の猫みたいに息を荒げる。

「お、おお……お兄さん、もしかして、た、食べちゃう、食べちゃうの……? ボクのお肉、ボクのお肉、食べちゃうの、お兄さん……はぁ、はぁ……! ボクの、ボクの食べて、食べて……っ!」

 俺の精神が揺らぎそうになったそのとき、頭の中に声が響いた。

『ダイエット、応援してるからね、お兄ちゃん──』

 最愛の妹の、天使のような眼差しが脳裏に浮かぶ。

 目を閉じる。じわっとまぶたの裏が熱くなる。

 そうだ、今は莉緒もがんばっているんだ。俺だけ食の誘惑に負けるなんてこと、あっちゃいけないんだ。

 か弱い笑顔を浮かべる。

「いいんだ、ココノ……。お前のその想いだけで、俺は胸いっぱいさ……」

「まさかこれでも食べてくれないなんてっ……お兄さんはどこまでボクを弄べば気が済むのっ!? 鬼畜っ! ドSっ! 卑しくない雄豚っ!」

 最後のはなんだかわからないが、とりあえず俺は首を振った。

「さ、その肉厚な上質ステーキは、お前たちで食べてくれ……」

 アリーチェはしばらく怪訝そうな顔をしていたが、「ならばお言葉に甘えて」とステーキにかぶりつく。

「ややっ、一口食べた途端に口の中にじゅうっと肉汁があふれおる! これほど柔らかく旨味が詰まったステーキを食べたのは初めてじゃ! ココノ料理長、褒美を取らすぞ!」

 料理を美味しそうに食べる女性を見るのは、決してきらいじゃないのだが、今の俺にとってはなによりも喪失感が勝った。

 くそう、アリーチェめ……。妹なのに憎い……。

 ダイエットは俺の勝手だからな……そうだ、そうなんだよ……人に当たるなんてどうかしているさ……。

「兄さんー、なんかすごいでっかい荷物が届いたわよ。まったく、こんな力仕事を妹にやらせないでよね。罰としてあとでポンポポランに付き合ってもらうんだから」

 見やれば、メイド服の少女レァナが大きな機械を台車で押しながら、こちらにやってくるところだった。

 おお、完成したのか。

「別にいいけど、また連勝記録を伸ばしまくっちまうぞ。そろそろ四枚落としとかでやるか? もちろん俺が落とすほうだけど。ああ、あとさ、お前取ったコマをすぐに使うのやめたほうがいいって何度言ったらわかるんだ。大事なのはタイミングなんだよ、タイミング」

「ふ、ふんっ、いいわよそんなの! タイミングなんて関係ないの! わたしはわたしの好きなときにコマを置くのよ! 生まれつき天才的な本能タイプだし!」

 そうか……。あと百年経っても、こいつに負けることはないな……。

「なによその顔……まったくもう。で、これはどこに置けばいいの? 二階に運ぶのはムリなんだからね」

「ああ、そこらへんに置いといてくれ」

 その機械は俺がお城の人に頼んで作ってもらっていたものだ。

 機械の片方には天秤の皿があり、もう片方は水槽のようなものが備えつけられていた。魔法で水を発生させることによって、乗ったものの重さを測ることができるという装置だ。ちなみにキロリットル表記に合わせて作るのに一番苦労したらしい。

「なんじゃそれは……まさか、これが秘中の秘に通じる兵器……?」

「目をキラキラさせるな。違う。これはな、『体重計』だよ!」

 アリーチェに自慢げに告げる俺は皿に乗る。

 そして魔法で水を発生させた。

 なんだかんだで最近は魔法の使い方も上達してきたので、水は見る見るうちに水槽を満たしてゆく。100キロを超えた辺りからは、微妙なコントロールが大切だ。

 いったいどれくらい痩せたか、楽しみだ。

 ここ最近はずっと節制していたからな。

 110キロ、120キロ……いまだに天秤は傾かない。

 徐々に俺の顔がこわばってゆく。

 いやいや、そんな。

 ……ウソだろ。

 ようやく天秤が傾いた頃には、俺の体重は……。

「──こっちに来る前より太っているじゃねえか!」

 肉の焼ける匂いの漂う室内に、俺の叫びが響き渡った。



 俺は部屋に閉じこもっていた。

 アリーチェにもココノや妹メイドたちにも、誰にも会いたくなかった。

 異世界にやってきて、けっこう頑張ってきたつもりだ。

 誰の誘惑にも負けず、毎日茹でたブッコロリーばかり食べてきたのに。

 ひょっとしてこの世界で、俺は痩せることなんてできないんじゃないだろうか。

 俺の脂肪は魔力濃度が濃いと誰かが言っていた。どんなに魔法を使っても痩せないのはそのためだ。しかしなぜ太る? 俺の体がこれ以上の魔力を欲して、どんどんと脂肪を体に溜め込んでいるというのか。この世界で俺は痩せることはできないのか?

 だとしたら俺はいったいなんのためにがんばってるんだ。

 いったい誰のために……。

 両手で顔を覆う俺は、ため息を噛み殺す。

 ……いや、誰のためにだなんて、決まっているよな。

 部屋のドアを開くと、そこには『気が向いたら食べてください』という置き手紙とともに、お皿があった、分厚いステーキが乗っかっている。

 ったく、あいつら、こんなときまで……。

 俺は皿の横を通りすぎ、こっそりと家を出た。

 着の身着のままで、大したものは持っていない。

 俺はこれから旅に出るのだ。痩身の旅に。

 本当は寺とかに入りたかったのだが、ミィルに聞いてみたら「テラ? なんですかそれぇ? すごいたくさんってことですかぁ? あ、神殿ならありますけどぉ」と怪訝な顔をされたのだ。

 しかも神殿は食の女神を祀っているところらしい。満腹こそが幸せに繋がるという教義だとか。それはとても素晴らしいけれど! 今ここで空腹にあえでいるものは救ってくれないのか!

 とまあそんな感じで、人里では俺は痩せることができないのだろう。周囲の妨害もあるし。だから旅に出ることにしたのだ。

 人目を忍んで王城の庭を出る。外から中に入る人は厳しくチェックするが、中から外に出るやつに関してはザル並の警護だ。

 広がる城都の町並みは、夜だからあまりわからない。昼間に散歩した時は歩行器が恥ずかしすぎてすぐに帰ってきたんだった。

 あちこちにぽつぽつと魔法の明かりが点っている。俺はそれを避けるようにして暗がりを歩き、やがて街を出た。まるで犯罪者みたいだ。

 そうそう、地図で見たとおりだ。城都の近くには湖があって、そこはちょっとした森になっているらしい。

 俺はきょうからここで暮らす。野宿だ。

 ふふふ、これでこそ強制的なダイエット生活……! 食べるものがなければ痩せられるのは、自明の理……!

 ここが現代なら不審人物が怖いけれど、今の俺は王国最強の魔法使いを倒すほどの使い手だ。俺の自由を阻むものはどこにもいない。

 そうと決まったら、きょうは早く寝よう。街からここまで歩いてきて疲れたしな。

 こうして俺の体を張ったダイエットが始まった。


 翌日、陽の光とともに目覚めた俺は、湖水で顔を洗う。清々しい朝だ。

 木こりのおっちゃんにビビられながらも挨拶を交わしたりして。

 さて、辺りを見回す。

 当たり前だが、都合よく食べられそうなものが実ってたりはしない。どの草が食べられるかわからないし。

 湖の水をふっ飛ばしたら魚ぐらいは採れるだろうが、別に自然破壊をしに来たわけじゃないしな。

 そうだ、これでいいんだ。

 俺は草の上に座って、透き通った眼差しで湖を見つめる。

 うむ、心が洗われるようだ。

 莉緒も言っていたが、デブはミネラル・ビタミンが枯渇しない限り、理論上は水だけでも生きていられる存在だ。

 俺は座禅を組む。湖面のように波打つことのない精神は、もう食の誘惑なんかに負けたりはしないのだ。食べたいものなどなにもない。しいて言えばアツアツのハンバーグぐらいだろう。ナイフを差し込むととろりとチーズが垂れてくるような。

「なにを言っているんだ俺は!」

 叫ぶ。近くで木を伐っていたおっちゃんがビクッとこちらを振り向く。

「邪念だ! 邪念よ退散! あばばばごぼぼぼ!」

 頭を湖に突っ込み、顔をあげる。よし、これでもう大丈夫だ。

 決してカリッカリに揚げたポテトと、ふわふわのパンズに挟まれたケチャップ味のハンバーガーが食べたくなったりはしない。

 飲み物はコーラで、さらに25ピースのチキンナゲットも加えよう。マスタードソースとバーベキューソースはどちらも必要不可欠だ。ハンバーガーが一個で足りるはずがない。トレイいっぱいに積み上げられたハンバーガーピラミッドを上から崩してゆくのはまさしく盗掘者のような格別の背徳感が

「ウオオオオオオオアアアアアアアアアアアアア!」

 湖に頭を沈めて叫ぶ。

 まだ一食抜いただけだぞ! それなのに俺ってやつはどこまで意地汚いんだ! こんなんで痩せようだなんて無理に決まっているだろ! 頭を冷やせ!

 だが振り払おうとすれば振り払おうとするだけ、ジャンクメニューの鎖が俺の脳を締め上げる。ほくほくのマッシュポテトや、ふんわりと甘いビスケット。スパイシーな辛味がたまらないフライドチキン。口の中にヨダレがあふれる。俺は自らの頭を殴りつけた。

 己の心の弱さが恨めしい。情けない。莉緒は今もひとりでがんばっているのに。

 99回もダイエットに失敗してきた俺だ。当然100回目もあり得るだろう。莉緒のためならたいていのことは耐えられると思っていたのに、ダイエットひとつができないだなんて。

「うう、お腹すいた……ひもじい……ごはんたべたい……」

 流れ落ちる湖水が頬を濡らす。俺はぼんやりと佇んでいた。

 気づけば夕方だった。

 知らないうちに眠っていたらしい。

 湖を染め上げるような赤い夕焼けはとても綺麗だったが、それを見て思ったのはこってりとした赤味噌のチャーシューメンが食べたいな、という意地汚い欲求だった。このまま数日間ここにいたら頭がおかしくなりそうだ。

 ただ俺は痩せたいだけなのに。

 それがどうしてこんなにも難しいんだろう──。

「お兄ちゃん!」

「え……?」

 聞き慣れた声に振り向くと、そこには莉緒が立っていた。なんだろう、もうすでに頭がおかしくなっていたのだろうか。彼女は莉緒の顔をしているが、正体は俺を迎えに来た天使なんだろうか。

 莉緒は息を切らして、俺の前にやってきた。肌の質感も本物っぽい。

「本物? 天使じゃなくて? VR妹じゃない?」

「なに言ってるの……。もう、心配したんだから! もう、もう!」

 莉緒が力なく俺の頬をぺしぺしと叩く。

 触れられる。温かい。妹の感触だ。

 なぜだか涙がこみ上げてくるけど、その前に泣いていたのは莉緒だった。

「家出しちゃうなんて、どうしちゃったの。なんでそんなことしちゃうの? ね、異世界やだった? お兄ちゃんがいなくなったらあたし……。あたし……」

 悲痛な顔で言う莉緒を見て、俺は自分がしでかしたことの重大さを知る。

「あたし独りぼっちになっちゃうよ……お兄ちゃんがいなくなったら、また……せっかくお兄ちゃんが来てくれたのに……どこにもいっちゃ、やだよう……。お兄ちゃぁん……」

「莉緒……ごめん」

 えぐえぐと泣く莉緒を抱きしめる。

「でも、このままじゃ痩せれなくて……」

「痩せ……ふぇ? ふぇ?」

 莉緒は俺を見上げ、目を瞬かせる。

「実は……」

 俺はここにやってきた経緯を語る。家にいるとみんながごはんを食べさせてくるから、なにもないところで野宿をしていれば、自然と痩せるのではないかと……。

 それを聞いた莉緒はしばらくぽかーんとしていた。

 いつも聡明で愛らしい莉緒が間抜けな顔を見せるのは、一周回ってすごい可愛かったけれど、今のろけてもブン殴られるだけだろうと思ったから俺は黙っていた。

「そう、だったんだ……」

 莉緒は全身の力が抜けたかのように、その場にへたり込んだ。

「よかった……。お兄ちゃんが、もうなにもかも嫌になっちゃったのかと思って……。あたしがずっとそばにいてあげられるわけじゃないし……。だから、あたし、あたし……不安で、仕方なくて……」

「……莉緒を残してどこにも行くわけないだろ」

 しばらく頭を撫で続けていると、莉緒はようやく落ち着いてきた。

「泣いちゃってごめんね、お兄ちゃん……。あたし、もっとちゃんとお兄ちゃんのこと信じて、にっこり待ってなきゃだめだよね……。こんな泣き虫な子、やだもんね……?」

「そんなわけないさ、どんな顔をしてても、俺はずっと莉緒のことが好きだよ。それにしても、どうしてここがわかったんだ?」

「それは」

 莉緒が横に避けると、そこには見慣れたひとりの少女が立っていた。ルッツだ。彼女は粛々と頭を下げる。

「お兄さまがコソコソと夜中に家をお出かけになったので、こっそりと後をついていきましたです。その上で私ひとりでは判断がつかなかったので、姫様にもご報告させていただきましたです」

 さらに後ろには、迎えの馬車やら騎士やらが大勢いた。

 え……? えっと……。

 俺は先ほどの莉緒の焼き直しのように、ぽかんと口を開く。

「……全部バレてたってこと?」

「はいです」

 なんてこった。決死の覚悟もなにもかも見透かされたような気分になった俺は、力なく膝から崩れ落ちる。これじゃまるで小学生の家出じゃないか。

 それが莉緒まで呼び寄せる大事になって。情けないったらありゃしない。

「ごめんな、莉緒……ふがいない兄貴で、ごめんな……」

「ああっ、お兄ちゃん!? えっ、ちょっ、お兄ちゃんー!?」

 俺はその場に倒れ込んだ。

 もうお腹が減って、一歩も動けそうになかったのだった。



 その日の夜、家に連れ戻された俺はいつものように茹でたブッコロリーをもさもさと食べていた。

 もういい加減、ダイエットを諦めたほうがいいんじゃないかと思いつつある。

 だから付け合わせのステーキも温めてもらおうかと考えたんだが……なぜだろうか、気が進まなかった。

 こんな八方塞がりな状況なのに、俺はまだ自分がダイエットを成功できるだなんて思っているんだろうか。

 バカな。どんだけ自己評価が高いんだ。できるわきゃない。

 俺に莉緒の期待は重すぎたのだ。

 腹が減って気分が落ち込んでいるのがわかる。この世界の女神の教えは正しい。腹いっぱいの人間の元に幸福が訪れるのだ。俺は今、自分の弱さとみすぼらしさを突きつけられていた。

 自分の腹の肉をつまむ。こんなに肉が余っているのに、どうしてお腹は空くのだろう。もう一生腹が空かなければいいのに。油とガソリンで生きる機械になりたい。

 コン、コン、と窓がノックされる音がした。

 なんだろうかと近づくと、そこには後ろに髪を縛った莉緒がいた。動きやすそうなジャージっぽい衣装をまとっている。

「り、莉緒? なんでまたこんなところに。お前、城を抜け出してきたのか?」

「しーっ、お兄ちゃん声おっきい、しーっ」

「あっ、はい」

 慌てた顔で唇に人差し指を当てる莉緒は、辺りをきょろきょろと見回した上で、俺を見て微笑む。

「ねえお兄ちゃん、今からお散歩にいかない? いこ? かわいい妹と一緒にいこうよ。ね?」

 その誘いはまるで、俺を誘惑しにやってきた夜の精霊のようだった。

「散歩って、こんな真夜中だぞ。しかもその格好は」

「えへへ、たまには妹のわがまま聞いて? いいでしょ、お兄ちゃん。あたしといいこと、しよ……?」

 手招きする妹のおねだりに、抗えるはずもなく。俺はなんとなく落ち込んだ気分を抱えたまま、着替えてついてゆく。

 月明かりの下、妹とふたりで王宮の庭に抜け出した。

 昼間に会ったときに泣きじゃくっていた莉緒とは裏腹に、今の莉緒はずいぶんと元気そうで、それだけが俺にとっての救いだった。

 前を歩く莉緒の歩調は軽やかで、散歩というよりはあまりにも足早でスタスタとして俺をどんどんと引き離し……。

「ウォーキングだこれ!」

「え、いま気づいたの!?」

 腕を振りながら足を動かすと、体中が汗ばんできた。

 異世界の気候はずっと春みたいで、運動するには適温である。

「いいことって言うから、なんかてっきり」

 その言葉に莉緒は『え~、えっちなこと考えてたんだ~? えへへ、でもあたし、お兄ちゃんが望むならいつでもオールオッケーだよ……? ね、大好きなお兄ちゃん♡ ふたりで創世神話、作っちゃおっか?』ぐらいのことを言ってくるんだと思っていたが。

 しかし、莉緒は俺から目を逸らした。

 えっ!?

「ほ、ほら、あたしも毎日書類とにらめっこで疲れちゃってさ。たまには体を動かしたいなーって……。その、お兄ちゃんもだいぶ頭ゆだってたみたいだし……?」

 な、なんでそんなもじもじしているの、妹よ。

 いつもみたいに真っ直ぐな愛情表現を求めていたんだよ、俺は。

 そこで気づく。──まさか莉緒は怒っているのではないだろうか。

 少し想像しただけで気が狂いそうになるが、俺はなんとか踏みとどまった。悪いのは俺だ。家出して莉緒に心配をかけてしまったのだから。それぐらいのことはされても当然だ。

 どうすればいいんだ俺は。莉緒に嫌われるのはなによりも恐ろしい。けれど俺は自分の愚かさの代償を支払わなければならないのではないか。

 とりあえず土下座だ。土下座をしたほうがいい。俺がタイミングを見計らっていると、莉緒は自然な態度で「あのね」と振り返ってきた。

「アリーチェさんに口利きをしてくれたのって、お兄ちゃんだよね?」

「え? ああ、まあ……」

 なんだ、そのことで怒っているのか?

 余計なことをしやがってっていうことなのか……?

 俺は莉緒の気持ちも知らず、なんてことを!

 莉緒は両手を胸に当てて、はにかみながらつぶやく。

「すごく……嬉しかったの」

「……え?」

 力が抜けてしまった。

「お兄ちゃんがあたしのこと、想ってくれてるってわかって、ホントに嬉しかった。離れていても心が繋がってるんだって……。なんかそんなことを考えながら、毎日お兄ちゃんのことを想ってたら、お兄ちゃんが家出しちゃうでしょ? だから、もしかしたらお兄ちゃん、アリーチェさんにあたしのことを任せて、自分はどこかに行っちゃう気だったのかな、って」

「そんな」

「ホントは違うってわかってる。でも、もしかしたら、って思っちゃったんだ。だってお兄ちゃんは、いっつもあたしのために自分のことを我慢してくれてるから。あたしの大好きなお兄ちゃんはとっても優しすぎて、いつも自分のことを後回しにしちゃうから……」

「そんなことはない!」

「っ」

 思ったより大きな声が出た。

 びくりと震えた莉緒に咳払いし、俺は続ける。

「ごめん。でも、違う。俺は俺のやりたいようにやっているだけだ。俺は莉緒が好きだから、莉緒のためならなんでもしてあげたいんだ。嫌なことなんてしないよ」

 本当だ。今だって、昔だってそうだ。

「……でも、逃げ出しちゃうぐらい、ダイエットが嫌だったんでしょ?」

「あれは俺に無理矢理食わせようとしてくる連中がいるから……思うように痩せられなかったし、それでついカッとなって……」

 情けない。俺はいったいなにを話しているんだ。

 莉緒は俺の手を引いた。

 月明かりに照らされたその微笑みが、なぜだか今は危うげな魅力を醸し出す。

「お兄ちゃんが本当に嫌なら、逃げちゃおうか」

「え?」

 妹がなにを言っているのか、一瞬わからなかった。

「あたしとお兄ちゃん、ふたりでどこか他の国にさ。元のおうちには戻れなくなっちゃうけど、別にいいよね? ふたりが一緒なら。どこだっていいよ。あたしはお兄ちゃんさえいれば幸せだもん。もしお兄ちゃんがそれでいいなら、あたしはお兄ちゃんのためになんでもするから。ここならあたしとお兄ちゃんが兄妹だって知ってる人もいないから、なんだってできるよ。なんでも、して。お兄ちゃんは最強の魔法使いだし、あたしもこの世界のこともっと勉強すれば、きっとふたりで生きていけるから。ね、ね……ね?」

 すぐに言い返すことはできなかった。

 だけど。

「本当にお兄ちゃんのしたいようにしようよ。あたしはお兄ちゃんのために、なんでもするから。あたしのすべてはお兄ちゃんのものなんだから……。お兄ちゃんが我慢することなんてないよ。王国の人なんてよく知らないのに、その人のために戦うなんて嫌に決まってるね? 気づけなくてごめんなさい。付き合わせちゃってごめんなさい。だから、ね? お兄ちゃん……ふたりならどこへだっていけるよね?」

 戸惑う俺を見た莉緒。

 最愛の妹は、先ほどまでの危うげな表情を新たな微笑みで覆い隠す。

「ごめん、ウソ。全部ウソだから、気にしないで」

「でも、莉緒」

「困らせるつもりじゃなかったんだけど……お兄ちゃんは、優しいもんね。一度手を差し伸べた人を、見捨てられないよね。新しい妹だっていっぱいできたみたいだし……。ヘンなこと言って、ごめんなさい」

「……お前が、そうしたいのか?」

 莉緒は眉をハの字に傾けて、首を振った。

「ううん、あたしは……。よく、わかんなくなっちゃった」

 その頼りない微笑みを前に、俺の胸が痛む。

「でもお兄ちゃんがそばにいてくれるなら、がんばる。いつまでもがんばれるよ。お兄ちゃんがずっとあたしのためにがんばってくれてたんだから、あたしだってできるよ」

 ねえお兄ちゃん、と莉緒が両手をギュッと握りしめてくる。

「これから毎日、一緒にウォーキングしよ? ひとりでダイエットするのが大変なら、あたしもずっと付き合うからさ。夜の、おんなじ時間に待ち合わせして、ふたりっきりで、ね? ね?」

「え、毎日!? お前、大丈夫なのか?」

「もちろん! 継続することによって筋肉がついてきて、基礎代謝もアップするから一石二鳥っ。大丈夫大丈夫、こう見えてお姫様なんてヒマヒマなんだから!」

 はにかむ妹は、そう言って頬をかく。

 もちろん、莉緒がそう言ってくれるのは嬉しい、けれど……。

「無理してないか?」

「違うの。あたしがお兄ちゃんと一緒にいたいの。ねえ、あたしのワガママ……だめ? 毎日知らないおじさんおばさんに囲まれて、ずーーっとお仕事でお城から出られない可哀想なあたしを、お兄ちゃん王子様はエスコートしてくれないの?」

 上目遣いで見つめられて、俺は後頭部をかく。

「エスコートっていうか、どっちかというとダイエットに付き合ってもらっている俺のほうが手を引かれてる感じなんだけどな」

「大事なのは雰囲気だから、いいの! あたしはお兄ちゃんがいないと死んじゃうよー病なんだから! これは不治の病なんだよ!? 一生完治しないんだから、ずっとお兄ちゃんがそばにいてくれないとだめなんだから!」

「それじゃあいつまでも離れ離れになるわけにはいかないな。ずっと莉緒は俺の手の届くところにいてくれないと」

「もちろんっ」

 莉緒は俺の腕に勢いよく抱きついてきた。

 俺たちは久しぶりに兄妹水要らずの時間を過ごす。

 まるで夜の逢瀬みたいだ。

 ──しかしこのことが後に大問題になると、俺はまだ知らなかった。



「お兄さま、きょうのご飯をお持ちいたしましたです」

「……」

 運ばれてきたデカいワゴンの上には、ひとりの少女が全裸で横たわっていた。彼女は両手で胸を隠すようにしながら、顔を真っ赤にしてギュッと目をつむっている。

「おい」

「なんでも、お兄さまの住んでいた地域には『女体盛り』と呼ばれる文化があるそうですね。子どもからお年寄りまで、味だけではなく目で見て楽しむ料理として広く大衆に愛されていると聞きましたです」

 運ばれてきたミィルの上には、魚の切り身が華のように盛り付けられている。きわどいところは見えないように料理で隠されているが、ミィルは今にも泣き出しそうなほどに恥ずかしがっていた。

「狂ってるよ! ていうかいくら姉の頼みでも断れよミィル!」

「うぅ~~……これでお兄さまぁが食べてくださるならぁ、ミィがんばりますぅ……」

「違うから! 俺、女体盛りじゃないと箸が進まない奇病に犯されているわけじゃないから! だいたいなんで妹にやらせんだよ! お前がやれよ!」

「私ちょっと体温高めなので、ナマモノを乗せるには不適切だと判断いたしましたです」

「ミィはこのときのために、冷水に二時間浸かってましたぁ~……お兄さまぁ、どうぞ柔肌の上のお刺身、召し上がってくださいぃ~……」

「今すぐ風呂入って温まってこい!」

 メイド姉妹を追い返し、俺は盛大にため息をついた。

 さて、部屋でブッコロリーかじって、ウォーキングにいこう……。



『ダイエットなんてそんなに難しいもんじゃない。俺はもう100回もやってる』

 前はそんな言葉が俺の常套句だったが、今は違う。

 ダイエット、ホントつらいです。

 夜の庭を莉緒とふたりでウォーキングする。隣を歩く莉緒はいつものように俺を励ましてくれる。世界で一番よくできた妹だ。

「身体が大きいってことは、普通の人よりもたくさんの重りを背負っているってことだから、ちょっと歩くだけで効果が大きいんだよね。むしろこの一点においてお兄ちゃんは普通の人よりダイエットに関して優れているとも言えるわけなんだよ!」

「ポジティブな捉え方だなあ」

 腕を振って歩く俺は、額にかかった汗を拭く。

 家では相変わらずの食料攻め(むしろ逆の意味で)だが、夜にきっちりと運動できることで、俺のストレスは目に見えて減っていった。

 同じように体重も減っていってくれていたらありがたいんだが、そううまいことはいかないな……。

「いかに長い時間、自分と戦い続けられるか。ダイエットは長期戦だからね? だから野宿とか一気に痩せるための無茶はしないで、普段から続けられることだけを無理なく続けてね、お兄ちゃん」

「もちろんわかっているとも。なんだその野宿って。どこのバカがそんなことやったんだ笑えねえわ」

 俺がそう言うと、莉緒は可哀想なものを見るような目をした。慌てて話を変える。

「ま、でもそうだな。続けられるダイエットってのは大事だな。納豆だけダイエットとか大変でモチベーションが続かなかったし。これから一生納豆しか食べられないんじゃ外食すらできないからな」

「お兄ちゃん、今もブッコロリーで似たようなことをしているんじゃ」

「カレーかけたりシチューにしたり、味のレパートリーを工夫してもらったりはしてるし」

 半眼の莉緒に、俺は首を振る。

 それに、別にブッコロリー単食ダイエットをやってるつもりはない。ただ単に俺がブッコロリー好きだから、ブッコロリーを食べ続けているだけだ。三食目はちゃんと栄養バランスを意識した食事にもしている。

「とにかく、付き合ってくれてありがとうな、莉緒。お前のおかげで健康的に過ごせている気がするよ。この体いっぱいに溜め込んだ愛を少しずつ減らす代わりに、せめて俺は口で愛情を表現しようと思う。愛しているぞ、莉緒」

 そんな軽口を叩きながら張り切って歩いていると、後ろから莉緒がぽつりと言う。

「あたしも、お兄ちゃんのことが……ホントに……ホントに……」

「ん?」

 俺は振り返る。

「なんか言ったか? 莉緒」

「…………う、ううん」

 莉緒は透明な笑顔を浮かべた。

 それは妙に心細くて、ずっといつまでも抱きしめていたくなるような笑顔だった。

 けれども莉緒は遠くになにかを見つけたように「あっ」と声をあげると、俺に向かって急に手を振ってきた。

「えと、そろそろ帰らなきゃ。明日もここでね、お兄ちゃん」

「……え、ああ」

 肩のタオルで汗を拭きながら、ひばりのように去ってゆく彼女を見送る。

 もう少し長くウォーキングしていたかったな……なんて思ったのは、初めてのことかもしれない。



 ルッツが夕食まで雇い主のもとに出かけていたため、翌日の夕食当番はミィルだった。こんな日に限ってココノも来ない。

 ソファーに座った俺は帰ってきたばかりのルッツをちらちらと見上げる。

「あのさあルッツ。俺きょうお腹すいてなくて……一食ぐらい抜いてもいいかなーって」

「いえ。ご主人さまの健康管理も私の仕事なのです」

「だったらミィルじゃなくて、今からでもお前が作ってくれよ……」

「なにかおっしゃいましたですぅ?」

 澄ましたルッツの肩越しに、こわごわと厨房から皿を運んでくるミィルの不安げな表情が目に入って、俺は慌てて両手を振った。

「いや、なんでもないよ! きょうはどんなヘルシーごはんが食べられるのか楽しみだなあ!」

「えへへぇ、がんばりましたぁ」

 マスクをして頭に氷嚢を乗っけたミィルは、にへらーとした笑顔を浮かべる。先日の一件で高熱を発しているらしい。アホの子なのかもしれない。

「手伝おうとは思ったんですが、どうしてもご主人さまのためにひとりでやり遂げるんだと発奮していたのです。いかに体調が悪かろうが、自分がご主人さまを飢えさせるわけにはいきませんから、とです」

「お前、実の妹をけしかけるのずるいぞ!」

「なんのことだかわかりませんが、ミィルは責任感の強いメイドなんですよ」

 かすかに微笑むルッツはまるで妹想いの姉のようだ。この野郎。

 ミィルはテーブルの近くにひざまずき、皿を並べてゆく。

「お兄さまぁのお口に合うかどうかわかりませんけどぉ、一生懸命っ! 作りましたぁ!」

 ミィルと俺の間には、謎の黒焦げが乗った皿がいくつも並べられている。

 うん。

 他のメイドたちが俺の食欲を刺激してくるのに対して、ミィルだけは違う。こいつはメイド唯一のメシマズなのだ。

 先週の食事は苦いわ辛いわ甘いわマズいわで、散々だった。三口食べて死ぬかと思った。

 俺はこの見かけ通り、美食家なんて柄じゃない。食えるもんはたいていウマいと感じるお手軽味覚だ。だが、違う。ミィルのメシは食えないのだ。

 嘔吐というシステムが人間の身体を毒から守るために造られたように、ミィルの食事を俺の身体が受けつけてくれないのだ。

 しかしミィルは俺の目を見上げながら、にっこりと熱に浮かされた笑顔で言う。

「よ、よかったら食べてぇくださぁい……美味しくなかったらぁ、捨てても大丈夫ですからぁ」

 そんなミィルの手にはたくさんの絆創膏が貼ってある。俺の胃がズシーンと重くなる。

 ルッツがコソコソと耳打ちしてくる。

「本当に無理だと思ったら、吐き出してくださいです」

「…………」

 こいつ……。

 ミィルは犬ならブンブンと尻尾を振っていそうな目でこちらをじっと見つめている。まったく、食欲じゃなくて罪悪感を刺激してくるとは、とんだ料理人だぜ。

 俺は表情だけで笑顔を浮かべながらスプーンを取る。

 本日の食事は食堂で買ってきたパンに、ミィルが作った灰色に濁ったスープだ。中身がこわい。

 とりあえず俺はいったんスプーンを置いて、パンを一切れちぎって食べた。ウマい、ウマすぎる。どこかの誰かが作ったのパンがウマすぎて死にそうだ。

「あ、あのぉ……今回ミィは、スープを作ったんですよぅ……」

「見りゃわかるよ!」

「ぴっ」

 俺が反射的に怒鳴ると、ミィルは涙目になって固まった。

「あ、いや、そういう意味じゃないんだ。なんかこう見た目が……そう、ミィルらしいなーって! お前の愛情がたっぷりこもっているよ! うん!」

「あぅ」

 ミィルの顔が真っ赤になった。

「愛情だなんてお兄さまぁそんなぁ……ミィはその、あの、そのぉ……てへへ……」

 恥ずかしそうにはにかむミィルは可愛いが、それでスープの邪悪さが浄化されるわけでもない。

 でも、早く食べないと莉緒との約束の時間に遅れちゃうからな……。

「……じゃあ、いただきます……」

 スプーンをスープに浸し、ゆっくりと持ち上げる。

 匂いは無臭だ。無臭っていうのが一番怖い。なにも備えることができない。

 覚悟を決めて口に運ぶ。

 舌先にしびれが走った。

 なんだこれは。背筋が一気に凍りつく。俺はきっと今、人類史に残るようなとてつもないものを口に入れたのだ。そんな衝撃が全身を貫く。

 だめだ。まだ人間には早すぎた味だ。俺の手の中からスプーンがゆっくりとこぼれ落ちる。ミィルが「お兄さまぁ!?」と悲鳴を上げ、ルッツが顔を手で覆っている姿が見えた。

 それが俺の最後に見た景色となった──。


 ──というのは言いすぎだが、気がついたら真夜中だった。

「約束がっ」

 待ち合わせの時間はとうに過ぎただろう。

 体を起こすと、ベッドにもたれかかって眠っているルッツの姿があった。さすがのこいつも、責任を感じて看病してくれていたようだ。

 くーくーと寝息を立てるその姿は無防備で愛らしく、さすがに今ばかりは文句も言わないでおいてやろう。なんだかんだ身の回りのことを全部やってもらっているしな。感謝しているんだよ。

 彼女を起こさないように気をつけて着替えると、いつものように窓を出る。待ち合わせ場所に小走りで向かう。

 まいったな、莉緒はもう帰っているかな。忙しいやつだからな。

 昨日の別れ方が別れ方だったから、ちゃんと会って誤解を解きたかったんだが……。

 しかし待ち合わせ場所に先に到着したのは俺の方だった。

 あれ、莉緒まだ来てないのか。会議が長引いているとかなのかな。

 とりあえずストレッチでもしながら待つか。

 すると、暗がりからこちらに向かって歩いてくる人がいた。俺は一瞬「おっ」と思ったが、しかしそれは莉緒とは背格好がぜんぜん違う。そもそも男だ。

「やぁ、旦那。きょうはいい月夜ですぜ。散歩かなんかですかい?」

 長身の男だ。何度か城で会ったことがある。傭兵あがりの貴族、サーレ男爵とか言ったか。

「いや、まあ、そんなとこだ」

 黒衣をまとうサーレは鼻にかかった声でへへっと笑う。なんとなく嫌な笑い方だった。

「そういえば旦那のダイエットとやらの調子はいかがですかい」

「え? まあ、ぼちぼちだよ。体重はそう簡単に落ちないからな。辛抱強く、長く続けていかないとさ」

「普通の魔法使いはすぐ落ちちまうんですけどね。そこが旦那は大違いだ。その脂肪はまさに神の贈り物ですぜ」

「神は神でも、世話焼きの女神の贈り物なんだよな」

 妹の料理を思い浮かべながら返す。エプロンを着て台所に立つ莉緒は、本当に女神に見間違うほどにきれいなときがあるんだよな。

 しかし、異世界にきてからは妹の料理を一口も食べさせてもらえていない。ココノの料理も美味しいは美味しいのだろうが……。なんだか寂しい。

 一方、不吉なこの男はここから動く気はないらしい。闇色の深い瞳で俺を値踏みするように見てくる。

「旦那はなんでダイエットなんかしているんで? ここじゃ太れば太るだけみんなちやほやしてくれる。旨いモンだって女だって食い放題だ。だってのに、どうしてわざわざキッツイ道を歩こうとするんです?」

「それはあんたたちの価値観だろ。俺には他に大事なもんがあるんだよ」

 するとサーレは目を丸くした。

「太りさえすれば、誰もが旦那を認める。誰もが旦那を求める。俺は旦那が羨ましくてたまらねえや。命ですら、ほしいものはなんだって手に入るんですぜ。それより大切なものが他にあるんだったら、ぜひとも聞かせてほしいもんでさ」

 まるで試すような言葉だ。どうやってかわそうかと考えた俺は、別に言っても減るもんじゃないしなと思い直す。

「俺が大事なのは……兄貴としての、意地さ。約束したんだよ、莉緒と。心の弱さで約束を破るのは、カッコ悪いことだろ? 俺は妹にカッコ悪いところなんて見せたくないんだ。つっても、もう十分カッコ悪いけどさ。だからせめてこれ以上評価を落とさないようにな」

 俺は自分のでっぷりとした腹をさすりながら語る。

 サーレは皮肉げな笑いをやめて、ぽかんと俺を見つめていた。

「たった、それだけ? それだけでこの世の富も名誉も捨て去ろうと?」

「そうだよ。でも十分だろ。妹の笑顔があれば」

 サーレは声を上げて笑った。

 今までの笑い方とは違う、少年のような笑顔だった。

「いや、失礼。まさか旦那がそんな面白いやつだとは思わなかったんで。そういえば思い出しちまったよ、俺にも妹がいたんさ。俺もあんたと同じ兄貴ってやつだったな」

 その言い回しに、俺は顔を曇らせる。

「妹がいた、って……嫁にでもいったのか?」

「ああ。純白のウェディングドレスじゃなくて、真っ黒なドレスを着て、俺じゃ手の届かない神様ってやつのとこにな。おっと、そんな顔をしなさんな。もう昔の話だし、それにこんな時代さ。なんとも思っちゃいねえよ。旦那の生きている妹さんを大事にしてやんな」

「ああ……。なんか、悪いな」

 肩をポンポンと叩かれて、俺は少しだけ安心した。この男はそう悪いやつじゃないのかもな。

 だが、あまり長話をしている暇もない。もしかしたら待ち合わせ場所を間違えているのかもしれないから、莉緒を探しに行かないと。

「あっと、すまない。人と待ち合わせをしているんだ、もう行かないと」

「ああそうかい、引き止めちまって悪かったね」

 歩き出そうとした背に声を浴びせられる。

 それは先ほどまでとはまるで違う、感情の読めない声だった。

「そうそう、旦那。あんたのことが気に入ったから特別に教えてやるさ。ロッセッラ姫に不穏な噂が立っているんですが、知ってますかい?」

「……噂?」

 サーレは再び不吉さをまとい直し、クックッとくぐもった声で笑う。

「なんでもロッセッラ姫は帝国と通じていて、この国を売り飛ばそうと企てているとか」

「へ?」

 おかしな声が漏れた。

 莉緒が?

 そんなことするはずないだろ。

 真顔になった俺を見てなにがおかしいのか、サーレは口の端を吊り上げる。

「もちろん流言飛語の類だとは思ったんですが、しかしね、なんでもロッセッラ姫は子飼いの魔法使いをわざと痩せさせようと協力していたって話じゃないですかい。夜に密会していたのを誰かが目撃したみたいでさ。こいつぁ問題ですよ。現状、戦争でもっとも活躍する最大戦力の魔法使いをこっそり痩せさせるなんて、自殺行為だ。国防の意志を放棄していると取られても、おかしくないわな」

 頭を殴られたような衝撃が走った。

 まさか、そんな。

「国民にも不安が広がっているそうだから、今度広場で異例の申し開きが行われるとかなんとか。今夜はその会議で姫様は寝る暇もないみたいでさ。ったく、なーんでそんなことをしちまったんかね。あの姫様はもうちっと要領のいいお嬢ちゃんだと思ってたんですがねえ。見込み違いってやつでさあ」

 大変なことになってしまった。

 動悸が収まらない。

 サーレは挨拶をして去ってゆき、俺ひとりが残される。

 夜の闇に手足の先が溶けてしまうような、そんな感覚に襲われた俺は、しばらくその場に佇んでいた。

 

 結局この日、莉緒は現れなかった。


全5回の試読、ありがとうございました!

続きは本誌『戦闘員、派遣します!』にてご確認ください!

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