三十一段目

 身体が、ふわふわ浮いているような感覚。お父さんには「友達と少し話してくる」とだけメールを入れ、ごみを持って玄関を出た。


 もうすっかり夏をまとった空気は、湿度を帯びていて少し重たい。けれどその重さが、浮遊感のある身体を地に押しとどめてくれている気がした。


 近くのコンビニで空き缶を捨てる。家庭ごみを持ち込むのはマナー違反で申し訳ないから、ミネラルウォーターを一本と、梅おにぎりを一つ買った。


「もう少し風に当たりたいな」


 けれど、こんな時間にどこへ行こう。コンビニの駐車場に居座る訳にはいかないし、近くの公園はお父さんが通るかもしれない。


 どこかに、夜風に当たれて座れるところは無いだろうか。


「そういえば、いつでもおいでって言ってたよね」


 駅の方を目指して歩く。まだ少し、車が通る時間帯だ。深夜というわけでもないし、もしかしたら居るかもしれない。


 けれど、住んでいる人の帰宅時間と鉢合わせたら少し面倒だ。見つかったりしたら、次に入るのは難しいだろう。


 そう思いながらも、わたしはサクラマンションの屋上を目指していた。


 エントランスホールには、幸い誰もいない。近くに落ちていた宅配ピザの広告を一枚すり抜けさせて自動扉を開けると、わたしはそのまま中へと入った。


 エレベーターに乗り、八階へのボタンを押す。ここまで誰にも会っていない。


 八階で降りるのは、誰も住んでいないはずの最上階にエレベーターがあると不信に思う人がいるかもしれないからだ。


 途中で止まることなく、無事に八階へと到着する。なるべく不自然にならないよう気をつけてエレベーターを降り、階段へ向かう。


 一つ目の踊り場で折り返した時だ。上の階から、人が降りてきた。


 九階に住んでいる人だろうか、四十代くらいの女性。


 どうしよう、もうすでに相手も私を認識しているはずだ。慌てて降りるのは、返って不自然だろうか。


 細かい作戦を考えるような猶予も無く、女性との距離は近づいてくる。前髪を直すフリをしながら少しうつむき、目を合わせないようにするのが精一杯だ。


 前髪を直す手が、不自然すぎるほど必死に目の前を前後する。


 手が震えるほどではないけれど、心臓の鼓動は「階段を上がってきた」を理由にするには忙しすぎるほどに働いていた。


 すれ違う一瞬前、視線を足元からちらりと女性へと向ける。見た感じ、不振がられているようには見えない。そもそも、こちらにあまり興味を示しているように見えない。


 すれ違う。心臓の鼓動が、力強くなる。相手に聞こえやしないだろうか。握り締めた手が湿る。緊張が、顔に出ていないだろうか。


 自然に、自然に、自然に。それだけを、ただ頭の中で繰り返す。


 女性が会釈をしたのが見えた。反射的に、わたしも小さく会釈を返す。大丈夫だろうか。好印象過ぎて、話しかけられないだろうか。


 わたしの心配をよそに、女性はそのまま階下へと降りていった。九階に着いたところで立ち止まり、女性の足音が聞こえなくなるのを待つ。


 音が小さくなり、ほとんど聞こえなくなったところで、あたりを軽く見渡した。左右に続く廊下に人影は無く、扉から誰かが出てくる気配もない。


 わたしはそのまま、全速力で階段を駆け上がった。一段飛ばしで、飛ぶように階段を上がる。


 体育の授業以外で運動しないからだろうか、息が上がるのが早いような気がする。それとも、体内に残るアルコールの影響だろうか。


 十一階を越えた踊り場に到達したとき、思わずその場にへたり込んだ。


 右手に握っていたコンビニの袋から水を取り出し、ゆっくりと喉へ流し込んでいく。吐き気をなんとか押さえつけ、落ち着いて息を整えた。


 今考えれば、なにも慌てることは無かった。ここに住んでいる人が、全員顔見知りだということはとても考えにくい。


 仮に顔見知りだとしても、誰かの客人という可能性だってあるのだ。わざわざ声をかけるような人は、そうそういないだろう。


 呼吸が落ち着いてきたとき、特に意味もなく上の階を見た。上の階にはだれも住んでいないという噂は本当のようで、廊下の電気すらついていない。


 十二階に足を踏み入れると、ネームプレートはおろか、生活というものをまったく感じられなかった。十二階は、それだけで不気味だった。


 明かりを求めて、携帯で時計を確認する。知らぬ間に、もう九時を過ぎていた。


 夜だということを自覚すると、明かりの無い廊下が余計に怖くなってきて、わたしは急いで最後の階段を上がり屋上へと続く金網扉をよじ登った。乱暴に着地すると、膝から太ももにかけてがジンとしびれた。


「どうしたの、そんなに慌てて」


 声のしたほうへ振り向くと、秋介が給水塔の近くで本を読んでいた。上から光が来るよう、上手に懐中電灯まで設置している。


「いや、ちょっと虫にびっくりしてね」


「見つからないように気をつけてよ」


 迷惑そうな視線をこちらへと投げると、また本へと視線を落とした。


 水を口に含みながら、そうするのが当たり前のように秋介の隣に腰を下ろす。秋介も気にしていないのか、無反応だ。ただ本に集中しているだけだろうか。


 どうやら、小さな文庫本を読んでいるようだ。わたしは、表紙の絵をちらりと見る。


 優しい水色の上に、星のような大小の白い点が、いくつも散りばめられている。下に進む程白くグラデーションしていき、水色と白の境界線に、人影が一つ。


 人影の後ろにある大きな丸は、月だろうか、それとも星だろうか。赤地に白い星の描かれている旗が、とても印象的で眼を引く。


 それらをバックに、本のタイトルが黄色い字で大きく書かれていた。誰でも知っている、有名なタイトルの本だ。わたしも読んだことがある。


「それ、おもしろいよね」


「そうだね。僕もこれ好きだよ」


 よく見ると、何度も読み返したのか、ページの両端だけが他よりも余計に黒ずんでいた。

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