二十六段目

 まず一歩、二人に近づいてみる。わたしに対して背中を向けているためか、まったく気付いていない。


 そのまま二歩三歩と、距離を縮める。一歩ごとに、自分が正しいことをしているのではないかと錯覚した。


 おそらく、自分を守るためだけの自己正当化なのだろう。けれど、今はそんなことはどうでもいい。


 あのすかした顔面に、ギョッと言わせてやりたい。


 その後ボコボコに殴られようが関係ない。とにかくビンタの一発でも入れてやろう。馬鹿にした相手に叩かれるのが、どんな気分か思い知らせてやろう。


 それが、「わたしらしい」みたいだから。


 すでに気付かれてもおかしくない距離まで近づいた。二人の会話も、辛うじて聞き取れる。


 それでも、二人とも気付かずに、楽しそうにおしゃべりを続けている。


 相手の女の子がかわいそうだから救ってあげよう。そんなキャッチ―な行動理念はない。


 わたしの腹がたったからだ。アクセサリーのような感覚でわたしと付き合い、恥をかかせ、怒らせたこいつが悪い。


 自分の足に、力がこもる。地面を一蹴りするごとに、全身が強張っていく。そしてとうとう、わたしの手は、淳斗の左肩に触れた。


「誰だよ」


 そう言いながら振り返る淳斗。完全に後ろを向く前に、わたしの右の手の平は、横薙に淳斗の右頬を捉えた。


 手の平を迎えに来る形になった淳斗の頬は、びしゃっという鈍い音を立てた。


 当てたままにせず、そのまま淳斗の首を押し戻すように振り切る。ビンタというよりも、張り手に近いだろうか。


 飛び蹴りは、自分がスカートを履いているためためらった。それに、下手な蹴りよりもこっちの方が痛いような気がした。


 右手に感じる人肌の油。少しべたついて気持ちが悪い。少しひっかかり抜かれた手が、昨日からずっと頼りない自分の体の一部とは思えなかった。


 後ろからの襲撃を予期していなかった淳斗は、わたしが力を入れた方向に、三歩よろめき、自分の頬を抑えて固まった。


 淳斗だけではなく、その空間が、一瞬時を止めたような気がした。その一瞬、わたしは、不思議な達成感に満たされていた。


 長編マンガを、一気に読破したような感覚に近いだろうか。完結した喜びと、終わってしまった少しの寂しさの混じったあの感覚に似ていた。


 一瞬の静止を打ち破ったのは、淳斗だった。


 太く長い針で刺すような視線を、わたしへと向けている。これが、男の子が怒った時の眼なのだろうか。


 ぞくりと、生ぬるい毛虫が背中を伝う。おもわず、わたしの右足が一歩後ろに下がった。


 そして、その瞬間を見逃さなかったのが、淳斗の連れていた女の子だ。


「おい、人の彼氏に何してんだコラ」


 先ほどの清楚なイメージを吹き飛ばす、大きな地鳴りを思わせるほど低くした声を唸らせてわたしのブレザーの襟元を掴みあげた。


 少し前にお父さんが見ていた任侠ドラマで、こんなシーンがあったな。なんて、場違いなことを考えてしまう。


 逃避に走る自分をなんとか奮い立たせ、わたしに痛い視線を向けている淳斗に声を掛ける。


「今日連れているのは、わたしでも私立の派手な子でもなくて、清楚な女の子なんだね。わたしに見つかるなんて、四股から三股になって気が抜けたんじゃない」


 自分の声が、震えているのがわかる。さすがにこの状況は怖い。


 杏子の「わたしらしい」に乗っかった自分を、少しだけ後悔し始めていた。


「ふざけんなよ雌犬。淳斗がそんなこと、するわけないだろうが」


「俺には、茜だけだよ」


 アカネっていうのが、この子の名前なのか。わたしが好きだった顔で、知らない女の子の名前を呼ぶ淳斗。


 少しでも嫉妬するのかと思ったけれど、自分の中には、特に何も湧いてこなかった。


 それよりも、アカネと呼ばれたこの子の口調が、見た目と合わなすぎることの方が何故かショックだ。


「ごめん茜。この子、この前俺がふったんだ。それで、こんなこと言ってるんだと思う」


「そうなんだ。淳斗は悪くないよ、謝ること無い」


 淳斗の方を向いた顔は、わたしの制服の襟元を掴みながらも、ちゃんと女の子の顔をしていた。そう、アカネちゃんにはこういう顔と声をしていてもらいたい。


 わたしが悪いのか。こういう顔をさせてしまったのは、わたしか。


 わたしの方へ向き直るときにはしっかりと眉間に皺を寄せていて、人形浄瑠璃に出てくるガブのようだ。


「淳斗はああやって言ってるけど、あんたはどうなんだい」


「嘘は言ってないよ。全部本当のことで、淳斗のあの顔が嘘なんだよ」


 自分の正当性を再確認するために、わたしは真実を口から出した。いや、いきなり人の頬を叩くような奴に、正当性なんて無いか。


 わたしは、わたしのやりたいことを貫くために、無責任に他人を巻き込んで始めた以上逃げないように、自分の知る真実を吐いているのだ。


「馬鹿なこと言ってんじゃないよ」


 怒鳴るのではなく、諭すように静かにゆっくりと放たれる言葉は、彼女の怒りよりも彼女に対する恐怖心を私の中に染み込ませた。


「ぽっと出のあんたと、自分の彼氏どっちを信用するかなんて、その辺の小学生でもわかることだよねえ」


「それでも、わたしは嘘ついてないよ」


 襟元を掴む手に、更に力が入る。自分よりも遥かに高い位置から睨まれるだけで充分すぎるほど怖い。


 さらにその顔が上からぐっと迫ってきて、底のほうで落ち着いてきていた恐怖心を、無理やり引き上げられた。


 長いまつげと、薄いながらも潤った唇がよく見える。正面から見ても清楚で可憐な印象を受けるのに、こんなにも怖い顔になれるものなのか。


 一生懸命睨み返しても、はたから見れば、まさに蛇に睨まれた蛙に見えるだろう。


 ほとんど萎縮してしまっているなけなしの勇気を総動員して、なんとかその場に立っていられる状態。


 視界の隅に映る淳斗の口が、開きかけた時だ。前に引かれていたわたしの身体は、さらに強い力で後ろに引き戻される。


 やや下方向に引っ張られたので、危うく転びそうになった。その低い位置のまま、背中に誰かがひっつく感触。


 この身長の加減と、ふわりとした嗅ぎ慣れた匂いに、わたしは少し力が抜ける。

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