二十段目

 お風呂から上がり髪を乾かし終えると、時計の針は十一時半ぴったりの場所で座っていた。


 充電していた携帯電話を充電機から抜き取り、杏子に電話をかける。


 七コールで出なければ寝よう。そう思っていたけれど、杏子は二コール目が終わらないうちに電話に出た。


 杏子はいつも、電話に出るのが早い。常に電話の前で構えているのかとさえ思う。


 その点わたしはいつも出られなくて、「ケータイを携帯しなさい」と杏子に怒られるのだ。


 いや、持ってはいるのだけれど、電話に気付かなかったり、ちょっと離れているときに限ってかかってくる。決して悪気はない。


「もしもし沙英。生きてるよね」


 杏子の第一声に、心臓が一歩大きく跳ねる。


 落ち着けわたし。秋介が特殊だっただけで、これは杏子らしい大げさな口振りだ。


「電話に出たんだから、生きてるに決まっているでしょ」


「電話に出たのはあたし。かけてきたのが沙英」


 電話口の杏子に、怒りが見えた。姿形に触れられないからこそ、電話は相手の表情を鮮明に教えてくれることがある。


「わかったわよ。ごめんなさい、持って出るの、忘れてた」


「ケータイを携帯しなさいってば」


 いつもの文句をいいつつ、杏子はため息をついた。これは安堵のため息だろうか。だとしたら、かなり心配をかけてしまったようだ。


 感じかけた申し訳なさを、でてくる寸前のところで引っ込める。わたしはもう、迷っていない。


「てっきりあたしは、沙英が振られたショックに、自殺でもしたんじゃないかと思ったわよ」


 杏子の優しい声に「ちがうんだよ、わたしはそんな理由で自殺するんじゃないよ」と教えてあげたくなる。


 そんなバカげた妄想を、わたしは肩にかけたタオルと一緒にベッドへ放り投げた。


 杏子には、最後まで普段どおりに接してほしかった。それに、杏子なら、わたしを監禁してでもわたしのことを止めるだろう。


「ふられたんだよね」


「そうだよ、佐藤さんの言ったとおりだった。淳斗には他に女の子がいるって、本人の口からしっかり聞いた。どうもわたしは、アクセサリー感覚だったみたい」


 今日のお昼のことを思い起こす。


 淳斗と話をした後は、おもわず学校から逃げ出してしまうほどショックだったし、柄にもなく、思い出を振り返って一人で泣いてしまった。


 いくら杏子が相手でも恥ずかしいから、振られたという事実だけを話しておこう。


「そっか、それは残念だったね」


 わたしよりも目尻を垂れ下がらせた杏子を、触れるように想像できた。こういうところも、後輩に慕われて、先輩に一目置かれる所以なのだろう。


 話手の気持ちを、話し相手以上に汲んでくれる。わたしも、杏子のこういうところが好きだ。


「突然帰ったりしてごめんね。担任、なんか言ってたかな」


「怒るよりも、びっくりしてた。優等生なのに、どうしたんだって。急に体調崩したって話しておいたけど、大丈夫だよね」


「うん、ありがとう」


 有刺鉄線で切れた部分を手持ち無沙汰にいじる。あんなに決意して握ったのに、ほとんど傷にはなっていない。


 微細な痛みは、わたしがまだ生きていることを無理やり実感させた。


「なによ、素直にありがとうなんて言っちゃって。そんなにショックだったわけ」


「お礼なんだから、杏子こそ素直にうけとりなさいよ」


 いつもの、甘噛みのようなやりとりを何度か行う。ああ、わたしはもう少しだけこの食感を味わうことが出来る。少しだけ、秋介に感謝したくなった。


 一拍の間をおいて、杏子が質問してきた。


「どんな感じに話したのか、聞いてもいい?」


 さすがに気を使うのか、悪事を素直に謝ろうとする子供のようにどこかよそよそしい。いまさら遠慮するような間柄でもないのに。


「それ、ほとんど聞いてるじゃない」


 杏子の緊張をほぐすために、小さな笑いを前置きにして、わたしは淳斗とのことを簡単に話した。


 今でも、はっきりと思い出せる、崩れていく淳斗の仮面。


 しかし、どれだけ鮮明に思い出しても、やはりあの時の悔しさや悲しさは、湧いてこなかった。それよりも、新たに湧きあがってくるものがある。


 嘔吐した時に出る胃酸のような、通るだけで喉を刺激する不快で痛い感情。


 茶色と黒の絵の具を溶かした雨水に、片栗粉を混ぜたようなドロドロしたもの。


 それは濃厚で、鮮明で、圧倒的な恐怖だった。


 惇斗に対する恐怖だけではない。そういう人間がわたしの周囲にいて、さらにはわたしを簡単に欺いていたという恐怖だ。


 あんなにも汚いものを、不潔さを一粒も滲ませることなく隠せている。


 それに気づくのは容易ではなく、後出しじゃんけんのような狡さで突如開示される。


 いったい、わたしの周囲のどれだけの人間があの仮面を張り付けているのだろう。


 もしかしたら知らず知らずのうちに、わたしもあの仮面をつけているのかもしれない。


 誰かを、この恐怖に漬けているのかもしれない。そう思うと、優しい湯船にもらった指先の熱が大気の方へと逃げていった。

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