八段目

 照れるでもごまかし笑いをするでもなく、無表情でお父さんは布団から現れた。


「なにしてるの?」


 安堵感は刹那的に消え去り、先ほどまでとは別ベクトルの不信感が首をもたげる。


 当然の疑問だ。なにせ、本来会社に行っているはずの時間帯だ。


 お父さんの仕事は、特別な理由がないかぎり平日が休みになることは無いはず。少なくとも、今までは無かった。


「とりあえず、リビングに行こうか」


 力なく笑ったお父さんは、私の横を通ってリビングへと歩いて行った。私も慌てて後に続く。


 リビングでの座席には、定位置がある。お父さんは、テレビから向かって左側。わたしは、テーブルを挟んでお父さんの反対側。ごはんを食べる時も、テレビを見る時もだいたいこの位置だ。


 いつもの位置に座ったお父さんの雰囲気は、楽しく世間話をしようなんてものではない。しかし、棘があるわけでもない。


 味の薄い豆腐を噛んだような、歯への反発も無ければ、舌に対して何の情報伝達もない。ただ、わたしを置いて時間だけが過ぎる感覚。


 わたしは、この空気を知っている。以前にも感じたことのある空気だ。


「とりあえず、コーヒーでも入れるね」


 素直に席に着くのが嫌で、キッチンへと向かった。まるで、怖い夢から逃げ出すように。


 お父さんのマグカップと、それよりも少し小さいわたしのマグカップを取り出す。


 インスタントコーヒーの粉末を、わたしのカップには二杯入れ、お父さんのカップには三杯入れる。濃い目が好きなのだそうだ。


 小さなカップには追加で砂糖を二杯入れて、給湯ポットからそれぞれにお湯を入れる。後で氷を入れるから、いつもよりも少なめに。


 冷凍庫から小さな氷を三つ取り出して入れると、コーヒーは完成してしまう。


 私の小さな逃避は、五分と時間を作ることは出来なかった。


 二つのマグカップを持ち、お父さんの待つリビングへと足を運ぶ。なるべく笑顔を作って空気を明るくしようとするが、そんなことをしている自分を滑稽だと思っている部分が心の中にあった。


 諦めろ。無駄な努力だ。愛想笑いなんて、自分が醜くなり、見難くなるだけだ。

 心の中のわたしは、語るように気付かせてくる。


「お父さんのこの顔を見ろ。お前は知っているだろう。今まで一度しか見ていなのに脳裏に焼きついたこの表情。霧状になってまとわりつくこの空気。忘れてないだろう。なんなら、最初に発せられる言葉も当ててやろうか」


 自分の心と闘いながら、平静の仮面が剥がれ落ちないよう気をつけながら、わたしは席についた。


「それで、どうしたの?」

 気付かないふりをして、お父さんに問いかける。


 その誤魔化しは、お父さんにではなく、わたしに向けられたもの。口に入れられる果物が甘いのだと、自分を騙すためのもの。


 二つの口が、ゆっくりと開いた。


「紗英、話があるんだ」


 わたしの心の中と、お父さんのセリフが見事に一致する。その瞬間、わたしは自分を騙すことを諦めた。


 口に入れられた果物は、とても苦かった。一口含んだコーヒーとは違う、もっと粘りつくような苦味が口の中で広がる。


 お母さんとの離婚話を聞いた時と、同じ味がする。あの時もたしか、大きなマグカップにコーヒーを入れた。わたしはまだコーヒーが飲めなくて、ミルクティーだったけれど。


 あの時は、もう少し遅い時間だったかな。なにか悪いことをしたのかと、必死に頭の中を駆け回ったのを覚えている。


 お父さんの、わたしを見みている眼。睨むでも、ぼうっと眺めるでもなく、時々目線を外しながらも、必死にわたしを見ようとする眼。表層ではなく、奥底に必死で目を向けようとする、お父さんの刃のような優しさ。入り込むほどに、痛い。


 事を察するのに時間がかかった。なんせまだ中学生だったというのは、言い訳になるだろうか。


 お母さんと離婚したこと。この家では、今後二人で生活すること。わたしに少し、苦労をかけるかもしれないこと。それから、なるべく不自由のないようにお父さんが頑張るからということ。


 ただただ決定事項だけを、わたしに話して聞かせた。話が進むにつれて、言葉に熱がこもるお父さんが、少しだけ怖かった。


 まるで火を噴く怪獣のように、お父さんの口から飛んでくる言葉をわたしは受け止めるしかなかった。いや、受け止められてなんていない。ただ浴びていたのだ。


 言葉の意味は理解できたし、今後どうなるかもある程度は想像できた。お父さんのことは嫌いじゃないし、頼りにだってしている。でも、怖かった。そして、ただ頷くことしか出来ない自分が嫌だった。


 お父さんが細かいことを話してくれないのも、そもそもそんな話になっていることに気がつかなかったのも、わたしがあまりにも無力で無知だからだ。


 こうなりましたという結果だけをわたしに聞かせてくるのは、わたしがまだ中学生の子供で、何もできないと思われているからだ。


 嫌になるほど確実で正しかった。わたしは守られるだけの能無しだ。意見を求められる立場にない。お母さんが出て行ったことよりも、そう考える他なかったことのほうが辛かったかもしれない。


 これからは一人で頑張っていくしかない。お父さんにそう思わせていることが辛く、何も話してくれないことが悔しくてたまらなかった。


「こういう結果になって本当にすまない。でも、紗英はなにも心配しなくていい。お父さんがいるから大丈夫だ」


 確かに、これまで特別不自由だと思ったとこはない。家事だって嫌いじゃないし、料理は好きになったくらいだ。


 不安はあったけれど、とても自由にさせてもらってきたと思う。けれど……


「紗英、話聞いてくれてるか?」


 深い思考の海から、お父さんの声により引っ張り上げられる。目線を少し上げると、お父さんが少し老けてみえた。ああ、違う。今の今まで見ていたのは、わたしの記憶の中だ。


「ごめんなさい。ちゃんと聞くわ」


 聞いたところで、今更どうも出来ないでしょうけど。心の中で、わたしは付け足した。


「お父さん実は、二か月前から会社に行ってないんだ。クビになった。リストラってやつなのかな」


 苦笑いを交えながら、お父さんは言葉を発した。聞くともなく聞いていたが、さすがに「リストラ」という言葉には反応せざるを得なかった。


「お父さんって、そんなに危うい立場だったの?」


「いや、そうでもなかったんだけどな。まあ、大人にはいろいろあるんだよ」


 私の大嫌いな言葉「大人にはいろいろ」が出る。その言葉だけで、わたしとお父さんは線引きされて、間に大きな堀が敷かれる。


 遠い。お父さんとわたし。間に敷かれた堀に橋もかけられないまま、わたしはただ、平静の仮面を手で押さえつけることしかできなかった。

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