28 ゲオルクの計略

 エリをアパートに送り届けてから約六時間後、ゲオルクは警察署の裏門に立っていた。


 すでに日は落ちて、雲の形もわからないほど暗い。振り向けば、道の脇にできた雪の小山を街路灯がぽっかりと照らしていた。


 この町の街路灯は、ガス灯とオイルランプとが混在している。どちらなのかは光の強さを見ればすぐにわかる。この通りの街路灯は、ガス灯の明るさだった。


 昼間は馬車も通る広い道だが、今はひっそりとしている。わだちの跡が雪道にくっきりと残り、点々と続く黒っぽい穴は馬の落とし物――馬糞だろう。


 ゲオルクは来た道を少し戻り、街路灯を避けて壁に背を向けた。知らず、深い息がこぼれる。


 実のところ、トール・アーベルに面会した時点で、すでに犯人は自白していた。


 工場に警察が踏みこんで、疑わしい従業員を六名ほど拘束したのは、きのうの午後四時ごろのことだ。


 拘束する人間のなかにトール・アーベルを入れてほしいと頼んだのはゲオルクだった。


 管轄の異なる警察署が、手配書もないのに捜査に協力する義務はない。もちろん罪の証拠がない少年を拘束する権限もない。


 だから口頭で頼むだけでは渋い顔をされるだろうと踏んで、輸入物を扱う店に出向いた。


 バッジに物を言わせて高価なお茶を後払いで買い、そのお茶と一緒にいくらかの金銭も添えて警察署長に贈ったのだ。


 ここの署長がそういったものを甘んじて受け取る人物であることを、ゲオルクはとうに見抜いている。


 誉められた行為ではない。法の下に生きる身としては、清廉潔白であることが望ましい。だがゲオルクにはそうも言っていられない事情があるのだ。


 十三日後。それまでにロルフを連れてハリンに帰らなければならない。


 彼がヘンドリー殺害の犯人であろうとなかろうと、おそらくカレンを救えるのは彼だけだ。彼女の命を、あるいは心を。


 ドラファンからハリンまで戻るには、どんなに急いでも十日はかかる。


 それも天候に恵まれ、悪路に悩まされることもなかった場合の話だ。余裕を持つならせめて十五日は欲しいところだが、すでに切っている。


 ゲオルクは焦っていたが、慎重だった。


 トール・アーベルを勾留して、じかに会って、彼の人間性を見たかった。親を捨て置く人間なのか、それとも情に訴えることが可能か。恩を売ることが、効果的か否か。


 もし母親の現状を知っても逃げるような人物に思えたら、ヘンドリー殺害の容疑で手錠をかければいい。その権限をゲオルクは持っているし、勾留中なら取り逃がす心配もない。


 最良なのは、トール――ロルフ・クヌッセンが自らハリンに行く気になることだ。同行に協力的なら、期日に間に合う可能性が高まる。


 警察が工場に踏みこむ前に、ゲオルクはエリの様子を見に行った。


 トールとの面会に連れて行くつもりだったし、その際に何かしら話を聞ければと考えていたからだ。事前に親しくしておいて損はない。


 ゲオルクが出身地を尋ねると、エリはわずかに動揺を見せた。


 兄と出身地が違うことをさとられたくないのかもしれない。事実を隠したいが、嘘をつくのは苦手、という印象を受けた。


 兄のことを話題にしたときは、慕っているのが見て取れた。働くのも命じられたからではなく、自分から働きたいと言ってきた、とソンドレから聞いている。


 シーラ院長は言っていた。エリはうれしそうな顔をして出て行った、と。あれから一ヶ月以上が過ぎた今も、エリは彼から離れたいと思っていないのかもしれない。


 彼が捕まったことを知れば、どんなに不安がるだろう。


 そう思って少し胸が痛んだが、捕縛を中止する気はなかった。ロルフ・クヌッセンをハリンに連れ帰るために、ゲオルクはここまで来たのだから。


 トールと一緒に捕まったほかの人たちは、自白した犯人を除いて全員が無実を主張した。


 おそらく窃盗犯はほかにもいるだろうが、工場側が捕まえてほしいのは製品を盗んだ犯人だけだ。その目的は果たされたのだろうと思う。


 無実の人たちは夜が明けてから釈放される予定だったが、それを延ばしてほしいとゲオルクは再び頼みこんだ。


 釈放は翌日、つまりきょうの午後に延期された。トール・アーベルだけはさらに遅く、日没後の釈放に決まった。


 そこまで段取りをつけてから、ゲオルクはエリがいるアパートに向かったのだ。


 帰りが遅い兄を待つのに慣れているエリなら、きっとゆうべはそのまま眠ったはずだし、早朝ならまだ部屋から出ていないだろう。


 ここまでやって、もしトール・アーベルがロルフ・クヌッセンとは関係ないまったくの別人だった場合は、もうお手上げだ。カレンの運命は死刑へと突き進み、真相は闇に消える。


 アパートの部屋をノックする前に、深呼吸をした。エリに正体を明かし、面会へと誘導するのだ。たとえ断られても連れて行く。


 ゲオルクは腹をくくった。


 父親の死を伝えたとき、エリの顔はこわばった。驚いたというよりは、恐れるような顔になったのだ。そして極端に寡黙になった。


 この反応で、目の前にいる少女がヘンドリー・アーベルの実の娘だとはっきりした。別人なら否定するはずだ。エリは否定も肯定もせず、黙りこんだ。


 知っていたのかもしれないと思った。父親が死んでいることも、その死が普通ではないことも。そして、父親の死にトールが関わっていることも。


 もっとも、彼の母親が捕まったことまでは知らない様子だった。ロルフ・クヌッセンという名前も知らなかったのだろう。これらを聞くとエリは驚き、戸惑いを顔に浮かべた。


 そして何かをじっと考えこんでから、面会への誘いに応じてくれたのだった。


 エリと同様に、トールも口数が少なかった。


 よけいなことを言わないというのは、口をすべらせないように警戒しているからだろうか。エリはともかく、トールは表情もあまり動かないから本心を読み取るのが難しかった。


 ただ、ひとつ。


 エリを連れて来たのは正解だった。彼女は重要なことを口にした。


『わたしは、トールが巻きこまれただけだと思ってます。盗んだのはトールじゃない。だって、そのための、これまでだったはずだから』


 知っているな、とゲオルクは確信した。


 トールが――彼が故郷を離れた理由。それをエリは知っている。ただの家出ではなく、都会で一旗揚げようというわけでもない。


 盗んだのはトールじゃない、という言葉。


 トールが盗むはずはない。なぜなら、ここまでの旅は罪を償うための日々だったのだから。そう言っているのだと、ゲオルクは解釈した。


(トール・アーベルという少年は――)


 睨みつけてくる細い目を思い浮かべた。


 睨んでいたのは、正体の知れないゲオルクに対する虚勢だったのかもしれない。エリに諭されたことで、眼差しから鋭さが消えた。


 盗んだのは自分じゃないと言い切ったときの彼の目は、泣きそうだった。疲れ果てたように苦笑して、「俺じゃない」と繰り返した。


 そうだろう。彼じゃない。少なくとも今回の窃盗事件では、彼は疑われてすらいなかった。


 ゲオルクも知っている。彼は無駄口を叩かず、まじめに働いていた。


 けっして無愛想というわけでもなく、仲間に話しかけられたときの受け答えはしっかりしていた。給金を握りしめて、義妹いもうとのためにスカーフを買い求めるような人物だった。


(そのための、これまで、か)


 ゲオルクは思う。罪人かもしれないが、悪人ではない。そういう人間もいる、と。


 風が吹いた。


 凍りつく息吹で胸の底まで素裸にするような風だ。ゲオルクは思わず咳きこんだ。


(鉄格子の中は、もっと寒い)


 そう思ったら、不思議と寒さを感じなくなった。


 裏門を照らす灯りの下に少年が現れた。


 毛糸の帽子とマフラーをして、コートのポケットに手を突っこんでいる。門が閉まるのを横目で見やったあと、暗く閉ざされた夜空を振り仰いだ。そうしてゲオルクがいる闇のほうへと歩いてくる。


 少年が街路灯の下を通りかかったとき、ゲオルクは声をかけた。


「トールくん」


 少年が足を止める。立ちはだかったゲオルクを正面から見つめ返す姿に、逃げる気配はなかった。ゲオルクは遠回しに話すことをやめた。


「……『トール』、それは君のお兄さんの名前だね? ロルフ・クヌッセンくん」


 少年の目つきが変わる。敵意のような光が浮かんだ。


「僕はハリン警察署の刑事でね。知ってるだろう? ロッベンの隣町だ。ハリンを発つ前に、ロッベンにあるクヌッセン家のお墓に行ってきたよ。小さなお墓があった。幼くして亡くなったという長男、トール・クヌッセンの名前が彫られていた。実の父親のお墓も、三ヶ月前に亡くなった義理の父親のお墓もあった」

「人違いじゃないですか」

「君が窃盗事件の犯人でなくてよかった」


 少年が苛ついた様子で目をそらす。


「それはどうも。あなたのおかげで疑いが晴れたのなら、感謝します」

「そう。確かに、君の無実は僕のほうから訴えておいた」

「どうも」

「だけど、君のお母さんは鉄格子の中にいるよ」

「――え?」


 細い目が見開かれた。食い入るようにゲオルクを見つめてくる。


「カレン・クヌッセンは、夫殺しの罪で捕まった。まだ取り調べ中だけどね、本人は認めている。罪が確定するのは十三日後だ。そのあいだに彼女の無実が証明できなければ、ほぼ間違いなく、死刑が宣告される」


 少年は口を半開きにして固まった。その表情の変化を、わずかに揺れた肩を、ゲオルクは見逃さない。


(君だね、ロルフ・クヌッセンは)


 義理の父親が三ヶ月前に亡くなっていると告げても特に反応しなかったから、彼がヘンドリーの死を知っていたのは間違いないだろう。そして母親の逮捕については、予想すらしていなかった。


「お母さんに会いに戻ろう、ロルフくん。あの日に何があったのかを正直に話してほしい。お母さんを助けられるとしたら、君だけだ」


 少年は眉根を寄せて、視線を宙に投げた。


 街路灯が陰影かげを作り、顔色の悪さを際立たせている。琥珀色の瞳に浮かんでいるのは驚きと困惑、そして深い穴の底に落ちたかのような、絶望感だ。


 突き刺すような風がゲオルクの頬をなでた。


 この風は少年の心に入りこんで、今まさに嵐を巻き起こしている。そんな錯覚を抱く。


 一秒が一分にも感じる沈黙のあと、少年の乾いた唇から声が漏れた。


「十三日後なんて……間に合わない」


(認めた)


 カレンの息子であることを、この少年は認めた。


 ゲオルクは張りつめた息をそっと吐いて、微笑んだ。

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