20「渡したいものがあるんです」
「きょうはお兄さんも一緒かい」
そう言いながらスコップを雪に突き刺したのは、隣に住むおじいさんだった。名前をソンドレといって、顔を合わせるといつも話しかけてくれる。
庇の下に吹きこんだ雪をせっせとかき出していたトールが手を止めた。寒さのせいか、鼻が赤い。ソンドレに向かってにこりと微笑み、白い息をこぼした。
「休みなんです」
「それはいいことだ。仕事のために生きてるわけじゃないからね」
ソンドレが目尻に皺を刻んで笑った。そのあいだも休まずスコップを動かしている。小柄なおじいさんなのだけれど、雪かきをする動きは力強かった。
いつもトールは暗いうちに出かけてしまうから、雪かきに参加するのはめずらしい。おかげで今朝はアパートの住人が勢揃いだ。
曇り空だけれど、ときおり白い光が雲を透かす。
午後は晴れ間もあるかもしれない。ただでさえ早く終わらせたい雪かきだけれど、なおさら急がないといけなかった。
それぞれの玄関前に積もった雪を表通りの脇に動かしたあと、そのまま表通りや横道の雪かきもする予定なのだ。
地区の道に積もった雪の整備は、その地区に住む人たちの義務だという。アパートの向かいの一家も、すでに表通りで雪かきを始めている。
アパートの住人はそれに加えて、裏庭の井戸と薪棚までの道も確保しなければならない。井戸は裏庭の中央に、薪棚は各部屋の窓下と、窓と窓のあいだにある。
あの告白の日、水汲みに行ってくれたトールは井戸まで辿り着くのを諦めて、桶に雪を入れて戻ってきた。雪をならさないと歩くのは大変なのだ。
これらすべての雪かきを、気温が上がる前に終わらせたい。そうしないと雪が重くなって、動かすのが大変になってしまう。
だから誰もがてきぱきと雪かきをする。あまり無駄口を叩かずに白い息だけを吐き出し、さらさらした雪をスコップにのせて地面をすべらせるのだ。
おととい降った雪はすでに氷になって、側溝の隣に白い小山を作っている。まだ足元の高さだけれど、雪が降るたびに高くなるのだろう。
側溝の水は流れつづけているから凍らない。だから最初、エリは側溝に雪を流してしまった。
女子修道院内での雪かきしか知らないから、水に流せば雪がとけやすくていいだろうと単純に考えたのだ。
ところが、ソンドレにやんわりと注意された。
下流で詰まるから禁止なのだという。エリは謝り、それからは雪が側溝に入らないように気をつけている。
雪かきをしていると体がぽかぽかしてくる。
けれど顔は寒くて、さっきから鼻水が出てうっとうしい。きっとトールやソンドレのように自分も鼻が赤くなっているのだろう。
ひとことも愚痴らずにスコップを握るトールを、さりげなく盗み見た。いつもどおりのコートと帽子はいいとして、首も手も寒そうだった。
雪かきは予定どおり終わった。もうお昼だ。
トールは食べたら出かけるらしい。工場よりもいい仕事がないか、探したいのだという。
「あの、教えてほしいんですけど」
エリが切り出すと、トールはパンを手にしたまま目を上げた。
「トールが持っているお金って、その、あの袋の中に入ってるお金って、おうちから持ってきたものなんですか?」
トールは「R」と刺繍された小袋を持っている。ドラファンに来るまでのあいだ、その小袋から少しずつお金を財布に移して使っていた。
「ああ……」
トールは一瞬だけ視線をそらした。
「そうだよ。それが?」
「そのお金が減っちゃったから、お金を貯めたいんですよね」
「うん。あれに頼ってたら春になる前に野垂れ死ぬ気がして」
エリは身を乗り出した。
「お金って、多ければ多いに越したことはないですよね。ほんのおこづかい程度でも、ないよりあったほうがいい、ですよね?」
「そうだけど」
怪訝そうなトールに、エリは宣言した。
「わたし、仕事を探します! わたしでもできる仕事! トールみたいには稼げないだろうけど、それで少しでもトールが楽になればいいなって。それに、やってみたいんです。トールみたいに、お金を稼いでみたいんです!」
「ふうん」
トールが口元で笑った。琥珀色の瞳に面白がるような光が浮かんでいる。
「好きにすれば? 見つかる気はしないけど」
「きっと見つけます!」
お金を自分で稼ぎたいのは、生活の足しになればという思いも確かにあるけれど、本当は別の目的がある。エリはそれを口にしなかった。
「それと、あの、トールに渡したいものがあるんです」
パンくずを手から落として立ち上がる。
いそいそと衣装戸棚の引き出しを開けたとき、ゆうべから感じていた不安がまた大きくなった。喜んでほしいし、驚いてほしいけれど、気に入ってもらえないかもしれない。
あれこれ考えて、差し出す手に力が入らなかった。
「これ、使ってください」
トールがまじまじと見つめてくる。
「外は寒いから。使ってください」
「……何か編んでるなとは思ってたけど、俺に、だったのか」
「はい。あの、雪かきの前に渡せばよかったんですけど、あの本当は、お仕事に行くときにって思ってたから、さっきは渡しそびれちゃって……」
手が軽くなった。
濃い青色のマフラーを受け取ったトールが、くるりと首に巻く。エリの想像よりもずっとよく似合っていた。
「ん。ありがとう」
目を合わせず、口をすぼめてトールが言った。すぐにマフラーをはずして戸棚のほうへ行く。
コートの肩にマフラーを引っかける背中を眺めながら、エリは胸をなでおろした。
(よかった)
トールの顔は照れているようだった。喜んでくれたのだ。編んでよかった。渡してよかった。
(これならきっと、手袋を贈っても喜んでくれる)
さっきまでの不安はどこかに飛んでいって、やる気だけが残った。
働きたいと思った本当の理由は、手袋を編むための毛糸を自分のお金で買いたいからなのだ。
けれどそれは、まだエリだけの秘密だった。
台所の小窓から眺める空はだんだん鉛色になって、粉雪が舞いはじめた。
人通りの絶えた道を見知った姿が歩いてくる。だいたいいつもこの時間に帰ってくることをエリは知っていた。
「こんにちは」
「おや。こんにちは、お嬢さん」
玄関先で出迎えると、ソンドレは目尻に皺を寄せて笑った。
お互いに吐く息が白い。切れそうなほど研ぎ澄まされた風に乗って、ふわふわと雪が踊っている。
「あの、えっと、相談があるんです」
「相談? 何だろうねえ。お兄さんは?」
「まだ帰ってきてません」
「それじゃ、うちにご招待しましょうか。おいしいクッキーがあるよ」
「ありがとうございます!」
ソンドレの部屋に足を踏み入れた瞬間、ぬくもりに包まれた。消えかかっているけれど、まだ暖炉で薪が燃えていたのだ。
暖炉の飾り棚が小物で彩られていたり、テーブルにクロスがかけられていたりと、見た目にも居心地がいい。
エリたちの部屋と同じ間取りなのにずいぶん広く感じるのは、ソファもベッドもないからだろう。どうやって寝ているのか。
椅子に座るようエリにすすめながら、ソンドレは暖炉に薪を追加する。いったん台所に引っこんだあと、エリの目の前にお皿を置いてくれた。
「恥ずかしながら、わたしが作りました。召し上がれ」
クッキーとコーヒーの香りがふわっと顔に当たる。
ほどよい苦みのコーヒーが、ほどけるように甘いクッキーの味を引き立ててくれた。本当においしくて、緊張がいくらかやわらいだ。
「それで、何の相談かな?」
暖炉脇の揺り椅子に腰かけて、ソンドレが穏やかに笑う。そうしていると風格がただよって、痩せた小さな体も大きく見えた。
「あの、わたし、働きたいと思ってるんですけど、どうしたらいいかわからないんです」
仕事を探すと宣言してから二日間、いつも行くパン屋や魚屋などで、働かせてほしいと頼んできた。けれどすべて断られてしまった。どこも人手は足りているらしい。
さてどうしようと考えたけれど、何もひらめかない。誰かの知恵が欲しかった。
かといって、こればかりはトールを頼りたくない。でないと、それで毛糸を買って手袋を編んでも、正真正銘の贈り物にならない気がするのだ。
そこで思い浮かんだのが、しょっちゅう話しかけてくれるこのおじいさんだった。
「働く……そうだねえ」
ソンドレは困ったような顔をした。
「お兄さんは何て言ってるの?」
「えっと、やりたいなら探せばいいって……」
「まあ、お金は必要だよね。コングスまで行きたいんだっけ」
「はい」
「お父さんも早く会いたがってるだろうしねえ」
エリは曖昧に微笑んだ。わずかに胸が痛む。
東の町、コングスの銀山に出稼ぎに行った父親を追って、旅をする兄と妹。住人と最初に顔を合わせたときに、二人がついた嘘だ。
人を騙すことはしたくない。けれどこの嘘がトールとの約束だから、エリはソンドレの言葉を否定しなかった。
「難しいですか」
「まあ、男ならともかく、女の子だからね。針仕事なんかはあるだろうけど、稼ぎになるかどうか」
「かまいません。おこづかい程度でもいいんです」
「おこづかいねえ。さて、どうしようかね」
ソンドレは首をかしげて黙った。時が止まったように宙を睨んでいる。
エリが息を詰めて待っていると、ソンドレの目が急に明るくなった。
「そうだ。それなら、うちで働くかい? 文房具屋なんだけどね、ちょっとした雑用と、店の雪かきを手伝ってくれればいい。ここで雪かきしたあとに店でも雪かきするのは、毎年ひと苦労でねえ。手伝ってくれるとありがたいんだけど」
「やります! お願いします!」
一も二もなく引き受けた。
最初からここに来ればよかった。知らない人より知っている人のもとで働くほうが安心できるし、雪かきなら体力さえあればできる。願ったり叶ったりだ。
エリはお店の場所と報酬、時間について確認を取った。お休みはトールが働いている工場より一日多いようだ。
「工場が働かせすぎなんだよね」
ソンドレが短い顎ひげをさすりながら顔をしかめる。
やっぱり工場で働くのはよくないのだろうか。トールも新しい働き口を探すと言っていたし、ソンドレに聞けばそれも見つかるだろうか。
エリが口を開きかけたとき、ソンドレは窓のほうに視線を向けた。
「ああ、ひどくなってきた」
つられてエリも窓を見る。雪はさっきより増えて、裏庭にも、隣家の屋根にも積もりはじめていた。
トールの帰りが心配になった。
あんまり降っていて身動きできないときは工場に泊まる、とトールは言っていた。もしくは早退して帰るようにする、と。
まだ工場に泊まってきたことは一度もないけれど、きょうはどうなのだろう。
舞い落ちる雪を見ながら思いを馳せていると、歌うようなつぶやきが聞こえてきた。
「雪……純粋……あるいは盲目、あるいは死の息吹……、雪のように消えた……旅人の足跡……。うーん、出てこないな」
おどけた調子でソンドレが肩をすくめる。
「詩が好きでね。ちょうどトールくんぐらいのときからね」
「へえ……」
「今は市民学校があるけど、当時はまだそんなものなくてね。でも近所に本が好きな人が住んでて、いろんなことを教えてもらった」
ソンドレの身の上話が始まった。
どんな思い出話も、たとえ日常の出来事でも、エリにとっては知らない世界の話だ。興味深くてつい耳を傾けてしまう。
疑問が浮かぶとエリは質問するから、ソンドレの話は長く続いた。おかげでトールの職探しについては聞きそびれてしまった。
帰り際、エリは物のついでに尋ねてみた。
「ベッドが見当たらないんですけど、どうやって寝てるんですか?」
「ははあ、見えないかね? ベッドならここに」
ソンドレは揺り椅子を小さく揺らして、愉快そうに肘掛けを叩いた。
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