第11話 ポピピーパーン

「目がまわる。雪ノ下先生。うち、もう立ってられない」


「つぼみさん、カピバラを見てはいけません。目を閉じるのです」


「うん。分かった」


 つぼみさんの肩を抱いて二人で目を閉じていると、体が波に揺られているような心持ちがして、カピバラの歌がゆるやかに遠ざかってゆきました。


 ――また来てねえ。ポピピーパーン。


 ひやりと風が吹いて、わたくしたちは暮れなずんだ坂道に立っておりました。


「帰ってきたのかな?」


 つぼみさんがつぶやきました。


「そのようですね」


「でも<扉>は? <扉>を通らなかったよね?」


 つぼみさんの大きな瞳がわたくしに向き直りました。


「カピバラの輪が異界の<扉>を開けてくれたのですよ。昔からよくあることです」


「よくあるの? ほんとに?」


 つぼみさんの白い頬が、街灯の明かりを弾きます。夜空に三日月が見えました。街はしっとりとした暗闇に包みこまれようとしています。つぼみさんがわたくしから、わずかに身を引きました。


「雪ノ下先生。もしかして――。先生って――」


 花びらのような唇がその先を言えないでいます。いいんですよ、言わなくて。


「お別れですね。つぼみさん、御世話になりました。どうぞ、お元気で」


 この世と異界の挟間はざまにセラピールームをかまえたのには、いろいろとわけがありました。しかし、つぼみさんにしてみれば、わたくしは得体の知れない化け物ですよね。


「暗くなりましたから、お気をつけてお帰りくださいね」


 わたくしは暗いかげへと後ずさりました。


「やだっ!」


 つぼみさんの手が、わたくしの袖をとらえました。


「雪ノ下先生! 行かないで!」


 これは、どうしたことでしょう。どうして、そんな泣き濡れた瞳でわたくしを御覧になるのですか。


「つぼみさん。わたくしは人ならぬ者ですよ?」


「いいの! うちは雪ノ下先生がいいの!」


「しかし――」


「うちの話を聞いてくれるのは、先生しかいないもん!」


 つぼみさんは、わたしを力一杯に抱きしめてくださいました。そしていつまでも離してくれません。もがけば、もがくほど、くくりわなのように締めあげてこられます。


「く、苦しいっ」


「あ、ごめん」


 つぼみさんの腕がゆるんだすきに、わたくしはするりと抜け出しました。


「ごきげんよう」


「雪ノ下先生! 待って! 待てよ、この野郎! もどってこいっ!」


 わたくしは本来の黒猫の姿に戻って、闇に身を沈めました。やれやれ。

 つぼみさん。次の予約日は来月ですよ。もう一度、彼女に夕焼けセラピーが見つかるでしょうか。いや、見つけられるかもしれませんね。特異体質のつぼみさんなら。

 夕焼けセラピーでお待ちしております。

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夕焼けセラピー <モフモフコメディ>甘い扉Ⅰ 来冬 邦子 @pippiteepa

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