5.白磁の葉(1)

 時の魔女との通信が切れてすぐ、ニナは窓から逃げた。帰すようにと黒髪の少年が指示していたけれど、あの青年――サクシマだろうか――が従うのか不安だった。

 幸い、部屋は一階だったし、窓の開口部も意外と狭くなかったから、簡単だった。コートがなかったから、少し迷って、ソファの背に掛けられていた織物を失敬した。時の魔女にはおそらく会うことになるから、彼女に返してもらえばいいだろう。

 窓は庭に面していた。枝を綺麗に整えた木や、今は冬だから花はないが、薔薇のアーチや花壇が作られ、散策できる小道が巡っている。庭の向こうは木々が生い茂っていて、森のようだった。

 ニナは姿勢を低くして、建物から離れた。

 木の影に入り振り返ると、出てきた建物はかなり大きな屋敷だった。領主の館か、貴族の別荘か。ニナがいる庭の反対側が正面玄関のようで、なんだか騒がしい。オークルウダルー村の物見の塔らしきものが遠くに見える。

 ニナは庭を突っ切って森に入り、屋敷の敷地を迂回して、塔を目印に進むことにした。

「また森か……」

 せっかくモニエビッケ村の森を出てきたのに……と、ニナはため息をつく。

 森は嫌いではないのだけれど、できればもっと、今までとは違う景色を見たい。

 この森は、エヌの家の周りよりは落葉樹が多いせいか、多少は明るく感じられた。しかし、ぱっと見たところ、知っている草木がほとんどだ。もし薬草を見付けたら採っておこう。自分で使わなくても、売れば旅費が稼げるかもしれない。

 早くも日は傾きかけていたが、ニナはあまり気にせず、どんどん森を進んでいった。


 一時間も歩いただろうか。途中に崖があって降りられるところを探していたら、思ったよりも森の奥に入ってしまった。段差が自分の背丈くらいになった場所でぶら下がるようにして飛び降り、ニナは座り込んで休む。

「さっさと魔法使って降りれば良かった……」

 ちょうど崖の上に薬草が生えていて、それを採るのに夢中になっていたというのもある。

「でも、おかげで旅費ができそう」

 木から蔓性の植物を引きはがし、それを使って束にして腰に吊るす。

 森に入ってしまうと木が邪魔をして、オークルウダルー村の塔は見えなくなった。今はまだ太陽があるからだいたいの方角がわかる。日が沈むまでどれくらいだろう。最悪の場合、このまま森で野宿しなくてはならないかもしれない。

 とりあえず、行けるところまで行こうと決め、ニナは歩き出す。

 違和感に気付いたのはその少し先だった。

 ごつごつとした大きい岩とアカマツが並んでいた。その間を通ったとき、蜘蛛の糸を手で切ったような、軽い手応えがした。

 注意して見れば、その岩とアカマツはとても綺麗に配置されていた。誰かがそうしたのだ。

 すっと空気が変わり、あっという間に霧が出てくる。けれども、それほど濃くはないため、近くの景色はよく見えた。

「遺跡……?」

 そこには、今まではなかったものがあった。

 切り出した石でできた舞台。その四隅に同じく石の柱が立っている。柱は崩れかけていて、舞台の上にも割れた石が山になっている。元々は屋根だったのかもしれない。

 ニナは一歩踏み出す。感触の違いに驚き、足元を見たら、地面も石敷きだった。

 森の中は、木肌も地面もあちこち苔だらけで、ところどころに雪が残っていた。しかし、この空間は壊れてはいるものの苔は生えていないし、石も乾いている。気温は、春か秋のようで、とにかく冬のものではない。

 ここだけ時間が止まっているのでは、とニナは思った。

 見える範囲に生えている植物は一本の木だけだった。

 しかし、正しい『植物』なのかどうか。

 ゆっくりと近づいたニナは呆然とつぶやいた。

「葉が白い……」

 石舞台のちょうど正面。一段高く作ってあり、いかにも特別な木だとわかる。建物や広場の規模にはそぐわない小ささで、ニナの背丈より少し高いくらい。根元から段々と枝分かれして、幹の太さの割に樹冠が大きかった。

 そして、不思議なことに、茂っている葉はどれも真っ白だった。

 石でできているようには見えない。枯れているわけでもない。同じ白でも、薔薇や百合の花弁とは違う。確かに葉だ。

 ニナはそっと左手を伸ばして葉に触れた。

「あ!」

 葉が一瞬きらりと光った。

 そして、胸元が温かい。

 ニナは自分の馬鹿さに呆れる。

 隠されていた遺跡にある白い葉を持つ木。これに魔力がないわけがない。

 それから、エヌの家の焼け跡から出てきた磁器のかけら。葉か羽のような細長い形と、この葉の形はとても似ている。そして、どちらも白い。

 きっと繋がっている。

 首にかけていた紐をひっぱって服の中から出すと、磁器のかけらは熱を発していた。ニナはそれを一度、両手で握りしめた。

「エヌ……お願い、教えて。ここに何があるの?」

 ニナは、こんなときのためにいつも持っているチョークを、ズボンのポケットから取り出し、敷石に魔法陣を描く。

 場所は、舞台と木との間にした。ニナとエヌの模様を織り込んだ、魔物を召喚する魔法陣。相手がわからないから汎用的なものだ。それに、石と木と白と葉……と目についた要素を記号化して加える。

 魔法陣の真ん中に立つと、右手で磁器のかけらを掴んだ。ニナを勇気づけるように、温かい。

 霧が濃くなり、ニナと木だけを囲むように視界が狭まる。

 ニナは木を真っ直ぐ見つめた。左手をかざして、木を指差す。自分から木まで繋がる線を想像する。場のせいか、これだけで、空気が重くなった。

 ニナの指先から、血が一滴落ちた。そこから一陣の風が巻き上がり、魔法陣が光を帯びる。反応がありすぎて、少し怖い。

 突然、甘い匂いが辺りを包み込む。息ができないほどだ。

 その匂いは、木に咲いたオレンジ色の花のせいだった。ひとつひとつはとても小さいけれど、塊になって、枝を覆うほどに咲いている。今や木は白ではなくオレンジ色に輝いて見える。

「私は、魔女ニナ! 魔女エヌの娘。白磁の葉を受け継いだ者」

 ニナがそう言うと、雨が降ってきた。細かい雨粒は、魔力を帯びて光るニナの髪を、水晶の粉を振りかけたように飾る。冷たくはあるのだけれど、凍えるほどの寒さは感じない。そもそも雨を気にしている余裕もなかった。

「森に守られた石の城の、白い葉の木。滑らかで艶やかなとろりとした力。オレンジ色の、甘い星の花。あなたは私とつながっているはず。私がここに入れたことには意味があるんじゃないの? 私の前に出てきて、白いひと」

 ニナは声を張り上げた。

 木はニナに応えて、葉を揺らした。花がぱらぱらといくらか散る。

「昔に捨てた神殿から呼ばれるとは思ってもみなかったな」

 薄い金属を弾くような高い澄んだ声が聞こえ、五歳ほどの少女が目の前に現れた。宙に浮いている。装飾のない簡素な麻のドレス。その裾よりも長い、足首まで届く髪は白い。時の魔女の透き通ったような白髪と違い、この魔物の髪は濃厚なミルクのような、高価な磁器のような――ニナの首にかかっている白磁の葉と同じ――、不透明な白だった。

「さて」

 雨の中なのに濡れていない髪を、さらりと軽く後ろに払って、魔物はニナと目の高さを合わせる。

「呼んだのはお前か?」

「私は、魔女ニナ。来てくれてありがとう」

 魔物は首を傾げた。

「お前に翼はないのだな」

「翼? タウダーラーのこと?」

「そうだ」

 白い髪の魔物はドレスの裾を翻し、木の根元を囲む石に腰かけた。ニナと話をしてくれるつもりらしいとわかり、ニナはほっと息をつく。魔物によっては人と交流したがらないものもいるのに、彼女は人とのやりとりに慣れているようだった。

 白い魔物は、ニナを上から下まで眺め、胸の白磁の葉を見付けると、瞬きをした。

「ふむ。魔女エヌの娘だと言ったか? その飾りは見たことがある。私のことはエヌから聞いたのか? それにしては私の名前を知らないようだが」

「ううん、偶然ここに行きついて。……えっと、あなたはエヌと関係があるの?」

「エヌとは、特に因縁はない。ま、一度呼ばれたくらいだな。それよりも、タウダーラーと関係が深い」

 一度言葉を切り、もう一度ニナの全身を眺める。

「お前もタウダーラーと関係があるな?」

 それは、質問というよりは確認だった。ニナはうなずく。

「私の父親はタウダーラーだから」

 エヌが亡くなる前年の夏、タウダーラーの青年がエヌを訪ねてきた。魔法の依頼だったのだけど、彼が帰ったあと、ニナは初めて父親のことを聞かされた。彼がニナの異母兄だったからだ。

 タウダーラーは背中に大きな白い翼を持っている。空を飛べる以外は普通の人間と変わらない。魔女がその魔力で爪にしるしを持つように、タウダーラーは魔力が翼になっている。ニナは魔女として生まれたため、翼は持っていないのだ。――そうエヌから教わった。

 ニナにとってはエヌが母親であることだけが重要で、父親が誰であるかなどどうでもいいことだった。自分からエヌに尋ねたこともなかった。

 父親のことを聞かされてからも、ニナはまるで実感がなかった。聞かされただけで会ったわけではないのだから当たり前とも言えるが。

 顔を合わせた異母兄も、戸惑いはあっても、親しみは湧いてこない。彼が帰るまでニナはそんなことは知らなかったし、彼だってそれらしき態度をとったりはしなかった。ニナのことは知らない可能性もある。

 それが、こんなところで繋がるとは思ってもみなかった。

 第三者である魔物に指摘されたことで、初めて事実として突きつけられた気がする。今まではエヌだけの娘だったのに、それが半減してしまったようで寂しい。

「タウダーラーの血を引く魔女か」

 白い魔物は微笑んだ。見た目の年齢にそぐわない、落ち着いた笑みだった。それから声音を変え、

「私は、タウダーラーの守護をしている」

 ニナは姿勢を正すと、黙ってうなずいた。

「お前は私が守るべき者なのかどうか、迷うところだな。さあ、どうしようか?」

 試すようなセリフとは違い、穏やかな微笑みは変わらないままだった。その表情に好意を見て取って、ニナも笑った。彼女は迷ってはいないのだ。何か条件を満たせば、契約が成立する。

 ニナは魔物の目を見る。

「あなたの名前を当てられたら、というのは?」

「いいだろう」

 魔物がふふっと声に出して笑うと、花の芳香が強くなった。

「甘い……」

 つぶやくニナに目配せをして、魔物は空を指差した。雨粒が大きくなる。

「空……、天? 雨? 甘い雨……」

 白い木の葉が、キンっと澄んだ音を立てる。金属でできた楽器のような響きは、魔物の声に似ている。多少の高低差を持ってリズミカルに鳴る音は、心地よくニナを包む。

「雨の、音? そうか……アマネ、だ」

 ニナはにっこりと笑う。

「雨音」

 名前を呼ぶと、白い魔物――アマネは大きくうなずいた。ぴたりと雨が止み、葉が奏でる音楽も止まる。

「正解だ」

 かなりヒントを出してもらったのだけど、とニナは苦笑する。

 アマネは立ち上がると、歩いてニナに近付いた。アマネが魔法陣の中に入ると、光が収まっていた線が白く輝く。

 アマネがニナの顔に手を伸ばしたから、ニナは屈んだ。両手で頬を包まれると、ぞくりと震える。アマネの体温はとても低かった。

「魔女ニナ、お前を特別に私の守護下に加える。お前が呼べばいつでもどこでも応えてやろう。……そうだな、お前は魔女だから、魔法陣で呼ぶのがいい」

 ニナはうなずく。タウダーラーなら違う方法があるのだろうか。

「……しるしを付けておくか」

 アマネは少し考えてから、ニナの胸に下がっている白磁の葉に触れる。すると、小さなオレンジ色の模様がひとつ刻まれた。花弁が四つの星のような花。木の花と同じだ。

「かわいい……」

「気に入ったか?」

「うん」

「そうか、良かったな」

 満足そうにうなずいて、アマネは周囲を見渡す。霧が少し晴れていて、石舞台までは見渡せるようになっていた。

「ここは昔タウダーラーの集落があったところだ。戦に負けて追われるとき、神殿の跡だけ隠したのだ。私もここに呼ばれたのは二百年ぶりか」

「もしかして、私、結界を壊しちゃった?」

「いや、あれは資格ある者だけは通過できるようになっている。壊れてはいない」

 そこで、アマネは首を傾げる。彼女の肩を流れた白い髪の毛先が濡れた地面に付くのが気になって、ニナは手で掬う。さらさらと絹糸のような手触りだ。

「つまり、ここに入れた時点で、お前には私の守護を受ける資格があることになるのか。……そんな仕掛けは、すっかり忘れていた。すまなかったな」

「別にいいよ。かなり助けてもらったんだし」

 アマネは魔物にしては妙に真面目だ。アケミはもっとずっといい加減だった、と思い出す。

 ニナの感傷に気付かず、アマネは振り返って白い葉の木を指差した。

「出口は、あの木の真っ直ぐ向こうだが……。そもそも、お前はなぜこんな森の奥にいるのだ?」

「うーん、えっと……」

 ニナはどこから説明したものかと考えながら、

「一言で言えば、迷ったっていうか……」

「そうか。それなら森の出口まで案内してやろう」

「本当に? いいの?」

「ああ、そのくらいはな。……それで、どちら側に出たいのだ?」

「オークルウダルー村だけど、……南西の方かなぁ」

 ニナはそちらだと思う方角に目を向けるが、今だにこの遺跡の外は霧に囲まれているからよくわからない。

 アマネはニナの視線を辿って、さらに遠くを見るように目を眇める。

「物見の塔のある村か?」

「うん、そう」

 ニナがうなずくと、アマネは木に手をかざした。勢いをつけて下から上に払うと、風が起こる。オレンジ色の花が一斉に空に舞い上がって飛んでいった。

「これでよし」

 ニナが目で尋ねると、アマネは微笑んだ。

「花を目印にするといい。それじゃあな」

 別れの言葉を簡単に付け加えて、そのまますっと消えてしまった。

「あ、ありがとう!」

 ニナは慌ててお礼を言った。一度だけ白い葉が高い音を響かせたから、おそらく届いたのだろう。

 見ると、さっきの風で木に咲いていた花はもうひとつもなかった。地面も、石舞台――アマネは神殿と言っていた――も、ニナの髪も服も乾いていて、雨が降ったとは思えない。魔法陣の光は消えて、チョークの線だけが残っている。

 ほとんど全てが、魔法を使う前の状態に戻っていた。

 違うのは、依然として漂う甘い匂いと、ニナの胸にある白磁の葉にオレンジの星が刻まれていることだった。

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