道は見えてる、あとは歩くだけだ

 ピザの王様シカゴピザが目の前にあったとして、うっひゃーウマソーって、インスタにすらあげずにばくばく食べるのをノー・ダイエット状態とし、土中に埋まって念仏を唱え続けるのをパーフェクト・ダイエット状態とする。

 我々はこの2点を極にしてあっちにふらふら、こっちにふらふらしているわけだが、たとえば野菜しか食べない、めちゃ走る、みたいな状態はかなりハイ・ダイエットではあるが、パーフェクトではない。即身仏と比べちゃね。

 ではこの状態はノー・ダイエットかって言ったら違うでしょ。明らかに。と考えると、「ダイエットしてる」という状態はパーフェクト・ダイエット状態のみを指す言葉ではなく、ノー・ダイエット極から離れているということを意味する。

 とすれば、シカゴ・ピザのメタファー(メタファー???)に舞い戻ると、このとき、シカゴ・ピザはそりゃ美味そうだが、まずはインスタに写メアップしてから食べる、そんで、「いやー、こんなの食べたら太るなー」って思う、これは明らかにノー・ダイエット・パーソンからは遠い位置にいる。最早「ダイエットをしている」と呼んで良い状態ということになる。

 大丈夫ですか。ついてきてますか。ついてこなくてもいいんだよ? これはレビューなので作品とは無関係なので、作品さえ読めばそれですむ話なので。

 で、ちゃんと断りはいれたので話を続けると、この状態を「精神的なダイエット」と呼ぶわけである。これはノー・ダイエットに比べると遥かにダイエット的な状態にある。

 そういうわけで、本作はダイエットとはベクトルこそ逆であるが、痩せやすい体質の人が太るにはどうしたらいいかなぁ、と考える話であって、しかしこれはもはや、デブ活、デブデブエット、それを「実行している」と呼んでいいと思う。呼ぶべきだと思っている。

 しかし、しかし敢えて言うならば、道は見えてる。あとは歩くだけだ。そうも思う。

 もちろんそれは苦難の道である。自分の持って生まれたものに逆らって生きる、それは大変で、キツくて、いやんなることである。そこに踏み出すための道について考える、それは立派なことで、それだけでも充分だと言える。でも俺は言う。あとは、歩くだけだ。

 その「だけ」が大変なんだよな。わかるよ。俺もそうだから。それでももし、歩こうかな、歩いてみようかな、そろーっと一歩を踏み出してみようか。そう思ったなら、俺はそれを読みたいと思っている。星野源が「ラジオ」って曲で、こんなことを歌ってた。どんな世の中も一緒だろ、さあ進め。進もう。モニタの前の君も。